宮城・第一話
海に映る人
「海を見ながら、自分の名前を呼んではいけない」
宮城県の海沿いに住む人から、そんな話を聞いたことがある。
理由を聞くと、
「海にいるものに、自分の居場所を教えるから」
そう言われた。
もちろん、俺は信じなかった。
そんな迷信があるわけがない。
そう思っていた。
あの夜、
海の上にいた「自分」を見るまでは。
---
俺が宮城へ行ったのは、
仕事のためだった。
一週間ほど滞在する予定で、
宿泊先は松島から少し離れた海沿いの古い旅館。
観光目的ではない。
仕事が終わったあと、
旅館へ戻るだけの日々だった。
ただ、
最初の日から気になることがあった。
旅館の廊下の突き当たり。
そこに、
大きな鏡が置かれている。
古い鏡だった。
枠は黒く、
ところどころ傷がある。
そして、
鏡の上には、
小さな紙が貼られていた。
「夜間、鏡を覗かないでください」
俺は、
思わず笑った。
「なんだこれ」
仲居さんに聞く。
「この鏡、
何かあるんですか?」
仲居さんは、
少し困った顔をした。
「……昔からあるんです」
「それだけ?」
「はい」
「夜に見ると怖いとか?」
仲居さんは、
笑わなかった。
「見ないほうがいいですよ」
「何か見えるんですか?」
「自分です」
「自分?」
「……自分じゃない自分が」
それだけ言って、
仲居さんは立ち去った。
---
その夜。
仕事を終えて、
午後十一時過ぎ。
俺は廊下を歩いていた。
部屋へ戻る途中、
突き当たりの鏡が見える。
照明が一つだけ。
その下に、
鏡。
俺は、
何となく足を止めた。
鏡の中に、
自分が映っている。
当然だ。
黒いスーツ。
疲れた顔。
乱れた髪。
右手にはスマホ。
左手には鞄。
何もおかしくない。
俺は、
歩き出した。
その瞬間。
鏡の中の俺が、
動かなかった。
「……」
俺は、
振り返る。
誰もいない。
もう一度、
鏡を見る。
俺がいる。
普通に立っている。
「……疲れてるな」
そう呟いて、
部屋へ戻った。
---
翌朝。
朝食を食べていると、
仲居さんが聞いてきた。
「昨夜、
鏡を見ましたか?」
「……え?」
「いえ」
俺は、
嘘をついた。
「見てません」
仲居さんは、
しばらく俺を見た。
そして、
小さく頷いた。
「そうですか」
「何かあるんですか?」
「……いいえ」
それ以上、
何も言わなかった。
---
その日の仕事が終わったあと、
俺は一人で松島へ向かった。
夕方の海は綺麗だった。
観光客も多い。
島々が海に浮かび、
夕日が水面を赤く染めている。
昼間なら、
何も怖くない。
むしろ、
美しい。
俺は、
海沿いを歩いた。
写真を撮る。
そのとき、
スマホに通知が入った。
写真が一枚、
自動保存されている。
俺が撮った覚えのない写真。
海。
夕暮れ。
松島の島々。
そして、
画面の端に、
人が立っている。
「……?」
拡大する。
男。
後ろ姿。
黒い服。
俺と同じ服。
「……」
俺は、
自分の服を見る。
黒いスーツ。
写真の男も、
黒いスーツ。
だが、
俺は写真を撮るとき、
一人だった。
「誰だ?」
周囲を見る。
誰もいない。
もう一度、
写真を見る。
男が、
少し近づいている。
「……え?」
さっきより、
明らかに大きい。
写真を撮り直す。
今度は、
男がいない。
俺は、
気味が悪くなって、
その場を離れた。
---
旅館に戻る。
部屋に入る。
スマホを机に置く。
風呂に入り、
テレビを見る。
午前零時。
寝ようとした。
そのとき。
スマホが鳴った。
写真アプリからの通知。
「思い出を振り返りませんか?」
俺は、
何気なく開いた。
数年前の写真。
東京。
大阪。
北海道。
そして、
宮城。
まだ今日の写真も表示されている。
スクロールする。
すると、
奇妙な写真があった。
昨日の日付。
場所は、
宮城。
写真は、
海。
そして、
俺。
俺が海の中に立っている。
「……」
息が止まった。
写真の中の俺は、
膝まで海に浸かっている。
こちらを向いている。
笑っている。
だが、
俺は昨日、
海に入っていない。
そもそも、
昨日は夜まで仕事だった。
「加工?」
写真の詳細を見る。
位置情報。
撮影時間。
23:47。
昨日の夜。
俺が旅館の部屋にいた時間。
俺は、
その写真を消した。
---
午前二時。
眠れない。
布団に入っていると、
廊下から音がする。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
裸足で歩いているような音。
「……」
旅館の廊下。
誰かが歩いている。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
音が、
俺の部屋の前で止まった。
「……」
ノック。
コン。
コン。
コン。
俺は、
黙っていた。
「……」
もう一度。
コン。
コン。
コン。
そして、
声。
「すみません」
女性の声。
「……」
「開けてもらえますか?」
俺は、
返事をしなかった。
「寒いんです」
女性が言う。
「外に出られなくて」
俺は、
ドアを見つめる。
「お願いします」
声が、
少しずつ近づく。
「開けてください」
ドアの向こう。
すぐそこ。
俺は、
布団の中で固まった。
そして、
女性が言った。
「あなた、
私を見ませんでしたか?」
「……」
「海で」
俺は、
息を止めた。
「昨日、
海で」
沈黙。
「私を、
見ませんでしたか?」
俺は、
答えなかった。
すると、
女性が笑った。
「そうですか」
足音が離れていく。
ペタ。
ペタ。
ペタ。
廊下の奥へ。
そして、
消えた。
---
朝。
旅館の人に聞く。
「昨夜、
誰か廊下を歩いてませんでした?」
「いいえ」
「女性の声を聞いたんですけど」
仲居さんの顔色が変わった。
「……どんな声でした?」
「若い女性」
「何て?」
俺は、
言った。
「海で私を見ませんでしたか、
って」
仲居さんは、
黙った。
「知ってるんですか?」
「……昔、
同じことを言った人がいました」
「誰です?」
「お客さんです」
「その人、
どうなったんですか?」
仲居さんは、
答えなかった。
---
その日の夜。
俺は、
鏡の前に立った。
昼間なら大丈夫。
そう思った。
鏡を見る。
俺が映っている。
普通だ。
右手を上げる。
鏡の中も、
右手を上げる。
笑う。
鏡の中も笑う。
「……」
何もない。
俺は、
安心した。
そのとき。
鏡の中の俺が、
俺より先に笑った。
「……」
俺は、
笑っていない。
鏡の中だけが、
笑っている。
俺は、
一歩後ろへ下がった。
鏡の中の俺は、
動かない。
ただ、
笑っている。
そして、
口を動かした。
声は聞こえない。
でも、
何と言っているか分かった。
「やっと見つけた」
俺は、
逃げた。
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部屋に戻る。
ドアを閉める。
鍵をかける。
スマホを見る。
通知。
写真が一枚。
また、
自動保存。
海。
今度は、
夜。
海の中に、
俺が立っている。
そして、
その後ろに、
女がいる。
白い服。
長い髪。
顔は見えない。
俺は、
写真を削除した。
数秒後。
また通知。
同じ写真。
削除。
また出る。
削除。
また出る。
十回。
二十回。
何度消しても、
戻ってくる。
そして、
写真の中の俺が、
少しずつ、
こちらへ近づいてくる。
「……」
三枚目。
海から、
膝。
四枚目。
腰。
五枚目。
胸。
六枚目。
首。
そして、
七枚目。
完全に陸へ上がっている。
写真の中の俺が、
カメラを見ている。
笑っている。
その隣に、
女が立っている。
今度は、
女の顔が見えた。
俺は、
スマホを落とした。
その女は、
俺の母親だった。
---
母は、
三年前に亡くなっている。
写真に映るはずがない。
俺は、
震える手で、
母の写真を探した。
スマホのアルバム。
母。
幼い頃。
家族旅行。
葬儀。
最後の写真。
全部ある。
そして、
さっきの写真を見る。
母が、
海の中に立っている。
俺の肩に、
手を置いている。
「……母さん」
その瞬間。
スマホが鳴った。
着信。
母
俺は、
画面を見つめた。
ありえない。
それでも、
着信は続く。
出る。
「……もしもし」
返事はない。
海の音。
ザー。
ザー。
ザー。
「母さん?」
女性の声。
「……どうして返事しなかったの?」
俺は、
凍った。
「あなたが呼んだのに」
「……」
「海で」
「俺は呼んでない」
「呼んだよ」
「呼んでない!」
電話の向こうで、
母が笑った。
「じゃあ、
誰があなたを呼んだの?」
その瞬間。
電話が切れた。
---
俺は、
旅館を出ようとした。
荷物をまとめる。
玄関へ向かう。
仲居さんが、
俺を見る。
「お帰りですか?」
「はい」
「……」
仲居さんが、
俺の後ろを見る。
顔色が変わる。
「どうしました?」
「……いえ」
「何です?」
「あなた、
一人で来ましたよね?」
「はい」
仲居さんは、
震えながら言った。
「では、
後ろにいる方は、
どなたですか?」
俺は、
振り返らなかった。
玄関のガラスに、
自分が映っている。
その後ろ。
女。
母。
俺の肩に、
手を置いている。
俺は、
走って外へ出た。
---
海沿いを走る。
夜。
観光客はいない。
街灯だけ。
俺は、
駅へ向かう。
電車に乗れば、
帰れる。
そう思った。
駅に着く。
ホーム。
電車が来る。
俺は、
乗り込む。
座席に座る。
息を整える。
窓を見る。
暗い海。
俺の顔が、
ガラスに映っている。
そして、
その隣。
母。
「……」
俺は、
目を閉じた。
見なければいい。
見なければ、
何もない。
電車が動く。
しばらくして、
車内アナウンス。
「次は――」
駅名。
聞き慣れない。
「……?」
窓の外を見る。
海。
ずっと海。
電車が、
海の上を走っている。
「そんな……」
乗客を見る。
誰もいない。
俺一人。
そして、
向かいの席に、
誰か座っている。
黒い服。
顔は見えない。
「……」
俺は、
席を立った。
その人も、
立つ。
俺が歩く。
その人も歩く。
車両を移動する。
その人もついてくる。
俺は、
振り返った。
そこにいたのは、
俺だった。
俺と同じ顔。
同じ服。
同じ鞄。
そして、
そいつが言った。
「ようやく、
こっちに来たね」
「……」
「ずっと待ってた」
「お前は誰だ」
そいつは、
笑った。
「俺?」
「……」
「昨日、
海に入ったほう」
「俺は入ってない」
「そう思ってるだけ」
そいつが、
窓を見る。
俺も見る。
海の上。
遠くに、
島々。
その一つに、
赤い点が見える。
「何だ?」
そいつが言う。
「一つ目」
「……」
「北海道」
俺は、
息を止めた。
「二つ目。
青森」
「……」
「三つ目。
秋田」
「……」
「四つ目。
山形」
俺は、
振り返った。
そいつは、
笑っている。
「そして、
五つ目」
そいつが、
俺を指差した。
「宮城」
---
電車が止まった。
ドアが開く。
駅名は、
表示されていない。
俺は、
ホームへ降りる。
誰もいない。
駅の看板を見る。
文字がない。
ただ、
赤い丸が一つ。
俺は、
それを見つめた。
すると、
背後から声。
「名前を呼んで」
振り返る。
誰もいない。
「呼んで」
また。
「あなた自身の名前を」
俺は、
黙っている。
「呼ばないと、
帰れないよ」
俺は、
答えなかった。
すると、
海の向こうから、
大量の声が聞こえた。
男。
女。
老人。
子供。
知らない人。
知っている人。
全員が、
同じ言葉を叫んでいる。
「呼んで」
俺は、
耳を塞いだ。
それでも聞こえる。
「呼んで」
「呼んで」
「呼んで」
そして、
最後に。
俺自身の声。
耳元で、
囁いた。
「俺の名前は――」
俺は、
反射的に、
その続きを言いそうになった。
だが、
寸前で口を閉じた。
その瞬間。
世界から、
音が消えた。
---
気がつくと、
朝だった。
俺は、
駅のベンチに座っていた。
見覚えのある駅。
普通の駅。
人もいる。
電車も走っている。
俺は、
立ち上がった。
スマホを見る。
昨日の写真。
すべて消えている。
母からの着信もない。
旅館の予約も、
仕事の予定も、
すべて正常。
俺は、
安心した。
夢だった。
全部、
夢だった。
そう思った。
そのとき。
スマホに、
一枚だけ写真が残っていた。
見覚えのない写真。
日本地図。
北海道から鹿児島まで。
そして、
四つの赤い点。
北海道。
青森。
秋田。
山形。
そして、
五つ目。
宮城。
俺は、
写真を削除しようとした。
できない。
画面に、
文字が表示される。
「残り42」
「……」
俺は、
意味が分からなかった。
その直後。
スマホの画面が、
勝手に切り替わる。
カメラ。
インカメラ。
俺の顔。
普通の顔。
だが、
俺の後ろ。
誰かが立っている。
黒い服。
俺と同じ顔。
そして、
そいつが、
ゆっくり口を開いた。
声は聞こえない。
けれど、
何と言っているのか、
分かった。
「次は福島」
画面が暗くなった。
――宮城・第一話 終。




