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日本の怖い話  作者: こうた


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16/21

山形・第四話

帰ってきた人


「山から帰ってきた人を、すぐ家に入れてはいけない」


祖母は、


昔からそう言っていた。


理由を聞いても、


絶対に教えてくれなかった。


ただ、


いつも最後に、


同じ言葉を付け加えた。


「帰ってきた人が、


本当に帰ってきた人とは限らないからね」


子供の頃の俺は、


それを昔話だと思っていた。


三十歳になった今なら、


笑い話にできる。


そう思っていた。


あの日までは。


---


山形県の山間部。


俺は、


弟の隆と二人で、


祖父の家を片付けていた。


祖父が亡くなったのだ。


山の中にある古い家。


冬になると、


雪で道路が埋まる。


携帯電話も、


場所によっては圏外になる。


祖父は、


そこで一人暮らしをしていた。


「こんなところで、


よく暮らしてたよな」


弟が言う。


「昔の人だからな」


「俺なら無理」


俺は笑った。


だが、


家の中を片付けているうちに、


一つ気になるものを見つけた。


玄関。


そこに、


小さな木札が掛かっている。


古い字で、


こう書かれていた。


「山から帰った者を、三度呼ぶな」


「……何これ?」


弟が聞く。


「知らない」


俺は、


木札を外した。


裏側にも、


文字があった。


「一度目は返事をするな」


「二度目は顔を見るな」


そして、


三つ目。


「三度目は、名前を呼ぶな」


「怖っ」


弟が笑った。


「じいちゃん、


こういうの好きだったの?」


「知らない」


俺は、


木札を箱に入れた。


そのときは、


それだけだった。


---


夕方。


弟が言った。


「ちょっと山、


見てくる」


「何しに?」


「昔の林道、


まだ残ってるか見たい」


「暗くなるぞ」


「一時間くらい」


「携帯、


圏外になるぞ」


「大丈夫」


弟は、


ジャンパーを着た。


玄関で靴を履く。


「じゃあ行ってくる」


「気をつけろよ」


「おう」


ドアが閉まった。


それが、


最後に弟を見た瞬間だった。


---


一時間。


二時間。


三時間。


帰ってこない。


外は、


すでに暗い。


雪が降り始めていた。


電話をかける。


圏外。


「……」


嫌な予感がした。


警察に連絡しようとした。


そのとき。


玄関。


ガチャ。


ドアが開いた。


「ただいま」


弟だった。


「隆!」


俺は、


思わず駆け寄った。


「どこ行ってたんだよ!」


「ちょっと迷った」


「三時間だぞ!」


「ごめん」


弟は、


笑った。


服は濡れている。


髪には雪。


顔色が少し悪い。


でも、


怪我はない。


「大丈夫か?」


「うん」


「寒いだろ。


風呂入れ」


「そうする」


弟は、


靴を脱いだ。


俺は、


その背中を見ながら、


何となく違和感を覚えた。


歩き方。


何かが、


少し違う。


だが、


疲れているだけだと思った。


---


夕食。


二人で鍋を食べた。


「うまいな」


弟が言う。


「腹減ってたんだろ」


「うん」


「どこまで行った?」


「林道」


「何かあった?」


「別に」


「本当に?」


「うん」


弟は、


笑った。


俺は、


鍋をつつく。


そのとき。


弟が、


突然言った。


「兄ちゃん」


「何?」


「俺、


昔から納豆嫌いだったっけ?」


俺は、


箸を止めた。


「……は?」


「いや。


納豆食べてるから」


「お前、


昔から好きだっただろ」


「そうだっけ?」


「そうだよ」


弟は、


不思議そうに納豆を見る。


そして、


笑った。


「そうか」


俺は、


気にしなかった。


だが、


翌朝。


また違和感を覚えた。


---


朝食。


弟が、


味噌汁を飲む。


「熱っ」


「そりゃ熱いだろ」


「……」


「どうした?」


「いや」


弟は、


味噌汁を見つめる。


「これ、


どうやって飲むんだっけ?」


俺は、


笑った。


「何言ってんだよ」


「……」


弟は、


箸を置いた。


「兄ちゃん」


「何?」


「俺って、


何歳だっけ?」


笑えなかった。


「……三十二」


「そうだっけ?」


「お前、


大丈夫か?」


「大丈夫」


弟は、


笑った。


「ちょっと疲れてるだけ」


---


昼。


弟は、


家の中を歩き回っていた。


「何してる?」


「探してる」


「何を?」


「……」


弟は、


困った顔をする。


「分からない」


「……」


そのとき、


俺は思い出した。


祖母の言葉。


「帰ってきた人が、本当に帰ってきた人とは限らない」


俺は、


自分を笑った。


馬鹿馬鹿しい。


弟は、


弟だ。


顔も、


声も、


記憶も、


ほとんど同じ。


ただ、


少し様子がおかしいだけ。


---


夜。


弟が、


風呂に入っている。


俺は、


祖父の部屋を片付けていた。


机の引き出し。


古いノートがあった。


日記。


ページをめくる。


数年前の日付。


そこに、


こう書かれていた。


「隆が山から帰ってきた」


俺は、


手を止めた。


隆。


弟の名前。


日記の日付は、


俺が高校生だった頃。


さらに読む。


「あれは隆ではない」


「……」


次のページ。


「顔は隆」


「声も隆」


「だが、隆ではない」


その次。


「山に入った人間は、時々、帰ってくる」


「ただし、全部は帰ってこない」


俺の手が、


震え始めた。


さらにページ。


「戻ってきたものは、人間の記憶を真似する」


「最初は完璧」


「しかし、時間が経つと、少しずつ壊れる」


納豆。


味噌汁。


年齢。


俺は、


息を止めた。


ページの最後。


赤い文字。


「三日以内に、本人を見つけなければならない」


俺は、


ノートを落とした。


「……本人?」


本物の隆は、


どこにいる?


---


風呂場から、


水音が止まった。


「兄ちゃん」


弟の声。


「何?」


「ちょっと来て」


「何だよ」


「お願い」


俺は、


立ち上がった。


廊下を歩く。


風呂場の前。


「どうした?」


「……」


返事がない。


「隆?」


「兄ちゃん」


「何?」


「入ってきて」


俺は、


ドアノブに手をかけた。


その瞬間。


祖父の日記を思い出した。


「顔を見てはいけない」


俺は、


手を止めた。


「どうした?」


「……」


風呂場から、


弟の声。


「顔、


見せてよ」


俺は、


背筋が凍った。


「何?」


「兄ちゃんの顔」


「……」


「見たい」


声が、


少し違った。


弟の声なのに、


弟ではない。


「隆」


「うん?」


「お前、


今何歳?」


沈黙。


「……」


「答えろよ」


「三十二」


「誕生日は?」


「……」


沈黙。


「答えろ」


「……」


風呂場の中から、


笑い声。


「兄ちゃん」


「何?」


「それ、


本人に聞く質問?」


俺は、


後ずさった。


---


その夜。


弟は、


俺の部屋の前に立っていた。


「兄ちゃん」


「……」


「入っていい?」


「ダメ」


「なんで?」


「寝る」


「一緒に寝ようよ」


「子供じゃないだろ」


弟は、


しばらく黙った。


そして、


言った。


「……寂しい」


その声。


本当に弟だった。


俺は、


ドアを開けそうになった。


「兄ちゃん」


「……」


「昔みたいに、


一緒に寝ようよ」


俺たちは、


子供の頃、


よく同じ布団で寝ていた。


怖い夢を見たとき。


雷が鳴ったとき。


弟は、


俺の布団に入ってきた。


「兄ちゃん、


怖い」


俺は、


いつも、


「大丈夫」


と言った。


ドアに手をかける。


そのとき。


廊下の向こうから、


声。


「開けるな」


俺は、


固まった。


その声は、


弟だった。


「……え?」


ドアの向こうの弟が、


言う。


「兄ちゃん、


開けて」


廊下の向こうから、


また声。


「開けるな!」


俺は、


理解できなかった。


弟が、


二人いる。


---


俺は、


部屋の窓から外を見た。


雪。


暗闇。


庭。


そして、


山。


その山の中に、


人影が立っていた。


一人。


雪の中。


こちらを見ている。


「……」


電話。


俺は、


警察に連絡しようとした。


そのとき。


スマホに着信。


弟から。


俺は、


画面を見る。


隆


「……」


でも、


弟は今、


部屋の外にいる。


電話に出る。


「もしもし?」


『兄ちゃん』


弟の声。


「……お前、


どこにいる?」


『山』


「……」


『今、


戻ってる』


「何?」


『俺、


まだ帰ってない』


俺は、


ドアを見る。


「じゃあ、


今、


外にいるのは?」


電話の向こうが、


黙った。


『……開けるな』


「……」


『絶対に、


そいつを家に入れるな』


その瞬間。


ドアの向こうから、


弟の声。


「兄ちゃん」


「……」


「電話、


誰と話してるの?」


俺は、


震えた。


電話の向こうの弟が、


言う。


『兄ちゃん、


逃げろ』


ドアの向こう。


「開けてよ」


『今すぐ逃げろ!』


「兄ちゃん」


『そいつ、


俺じゃない!』


ドアが、


ドン!


と鳴った。


「兄ちゃん!」


ドン!


「開けて!」


ドン!


『逃げろ!』


俺は、


窓を開けた。


外へ飛び降りる。


雪の中を走った。


---


山の中。


俺は、


必死に走った。


後ろから、


弟の声。


「兄ちゃん!」


「……」


「待って!」


振り返らない。


「兄ちゃん!」


「……」


「俺だよ!」


俺は、


走る。


すると、


前方から、


誰かが走ってきた。


雪まみれ。


顔を上げる。


「兄ちゃん!」


本物の弟だった。


「隆!」


「やっと会えた!」


弟が、


俺に抱きつく。


体温。


息。


震え。


全部、


本物だった。


「家にいる奴は?」


「……分からない」


「俺、


山で迷ったんだ」


「三時間じゃなかった」


「え?」


「お前、


三日帰ってこなかった」


弟が、


青ざめる。


「……三日?」


「うん」


「俺には、


数時間にしか感じなかった」


そのとき。


山の上から、


声。


「兄ちゃん」


俺たちは、


同時に振り返った。


雪の中。


あいつが立っている。


弟の顔。


弟の服。


弟の笑顔。


「兄ちゃん」


俺は、


弟の腕を掴んだ。


「逃げるぞ」


「うん」


二人で走る。


後ろから、


声が追ってくる。


「兄ちゃん」


「……」


「なんで置いていくの?」


「……」


「俺、


弟だよ」


声が、


泣き始める。


「兄ちゃん」


「……」


「昔みたいに、


一緒に帰ろうよ」


弟が、


俺を見る。


「兄ちゃん、


俺のこと信じてる?」


俺は、


答えなかった。


その瞬間。


隣を走っていた弟が、


突然止まった。


「……」


「どうした?」


弟は、


俺を見る。


「兄ちゃん」


「何?」


「俺、


何歳?」


俺は、


凍った。


「……」


弟が、


笑った。


「分からない」


その笑顔。


さっき家にいた、


「あいつ」と、


まったく同じだった。


俺は、


弟の手を振り払った。


走る。


一人で。


後ろから、


二人分の足音。


「兄ちゃん!」


「兄ちゃん!」


二人が、


追ってくる。


「俺が本物!」


「違う、


俺が本物!」


「兄ちゃん!」


「助けて!」


俺は、


走り続けた。


---


朝。


俺は、


警察に保護された。


山の中で、


一人で倒れていたらしい。


「弟さんは?」


警察官が聞く。


「……」


俺は、


答えられない。


「弟さんの名前は?」


「隆」


「年齢は?」


「三十二」


「顔は?」


俺は、


黙った。


「……」


「覚えていますか?」


「はい」


「では、


写真を見せてもらえますか?」


スマホ。


写真フォルダ。


弟の写真。


一枚。


二枚。


三枚。


すべて、


弟が写っている。


俺は、


安心した。


「これです」


警察官が、


写真を見る。


「……」


「どうしました?」


「この写真」


「はい」


「あなたしか写ってませんよ」


「……」


俺は、


写真を見る。


弟がいたはずの場所。


誰もいない。


空間だけ。


俺の隣が、


空いている。


「……」


別の写真。


弟。


いない。


幼少期の写真。


弟。


いない。


家族写真。


俺だけ。


「そんな……」


警察官が、


困った顔をする。


「弟さんは、


本当に存在していましたか?」


「……」


俺は、


答えられない。


---


自宅に戻る。


母に電話する。


「母さん」


『何?』


「隆って、


知ってる?」


母が、


沈黙する。


『……誰?』


「弟だよ!」


『あなた、


一人っ子でしょ』


「……」


電話が切れた。


俺は、


家族アルバムを開いた。


俺一人。


父。


母。


祖父。


祖母。


俺。


どこにも、


弟はいない。


俺の記憶だけが、


弟を作っている。


---


その夜。


玄関から、


音。


ガチャ。


ドアが開く。


「ただいま」


俺は、


凍った。


弟の声。


「兄ちゃん」


俺は、


振り返らない。


「帰ってきたよ」


「……」


「ずっと待ってたでしょ?」


俺は、


目を閉じる。


祖母の言葉。


「帰ってきた人が、本当に帰ってきた人とは限らない」


玄関から、


足音。


一歩。


二歩。


三歩。


俺の背後で、


止まる。


「兄ちゃん」


耳元。


「俺、


隆だよ」


俺は、


振り返らない。


「……」


「顔、


見てよ」


俺は、


動かない。


「兄ちゃん」


「……」


「名前、


呼んでよ」


俺は、


黙った。


すると、


そいつは、


笑った。


「……正解」


「……」


「俺の名前を呼ばなかったね」


足音が、


離れていく。


玄関へ。


ドアが開く。


そして、


最後に。


「でも、


一つだけ間違えたよ」


俺は、


振り返れなかった。


「山から帰ってきたのは、


俺だけじゃない」


ドアが閉まった。


---


翌朝。


俺は、


祖父の家へ戻った。


玄関に掛けていた木札。


昨日、


外したはずだった。


しかし、


元の場所に戻っている。


俺は、


木札を裏返した。


新しい文字が増えていた。


昨日までは、


なかった。


「一度目は返事をするな」


「二度目は顔を見るな」


「三度目は名前を呼ぶな」


その下。


さらに一行。


「四度目は、自分を数えるな」


俺は、


意味が分からなかった。


その瞬間。


後ろから、


声。


「兄ちゃん」


俺は、


振り返らない。


「兄ちゃん」


また。


「兄ちゃん」


三度。


俺は、


目を閉じた。


すると、


今度は、


俺自身の声がした。


「兄ちゃん」


「……」


俺は、


震えた。


自分は一人だ。


そう思った。


だが、


床を見る。


雪の上に、


足跡がある。


一つ。


二つ。


三つ。


四つ。


そして、


五つ目。


俺の足跡の隣に、


もう一人分。


さらに、


その隣。


もう一人。


俺は、


ゆっくり下を見る。


足跡は、


家の外から入ってきている。


一人。


二人。


三人。


四人。


五人。


そして、


最後の足跡だけが、


俺の前で止まっていた。


その足跡には、


名前が書かれていた。


「隆」


俺は、


息を止めた。


そのとき、


背後から、


声。


「兄ちゃん」


今度は、


誰の声なのか、


分からなかった。


「帰ってきたよ」


――山形・第四話 終。


山形県編・完

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