山形・第四話
帰ってきた人
「山から帰ってきた人を、すぐ家に入れてはいけない」
祖母は、
昔からそう言っていた。
理由を聞いても、
絶対に教えてくれなかった。
ただ、
いつも最後に、
同じ言葉を付け加えた。
「帰ってきた人が、
本当に帰ってきた人とは限らないからね」
子供の頃の俺は、
それを昔話だと思っていた。
三十歳になった今なら、
笑い話にできる。
そう思っていた。
あの日までは。
---
山形県の山間部。
俺は、
弟の隆と二人で、
祖父の家を片付けていた。
祖父が亡くなったのだ。
山の中にある古い家。
冬になると、
雪で道路が埋まる。
携帯電話も、
場所によっては圏外になる。
祖父は、
そこで一人暮らしをしていた。
「こんなところで、
よく暮らしてたよな」
弟が言う。
「昔の人だからな」
「俺なら無理」
俺は笑った。
だが、
家の中を片付けているうちに、
一つ気になるものを見つけた。
玄関。
そこに、
小さな木札が掛かっている。
古い字で、
こう書かれていた。
「山から帰った者を、三度呼ぶな」
「……何これ?」
弟が聞く。
「知らない」
俺は、
木札を外した。
裏側にも、
文字があった。
「一度目は返事をするな」
「二度目は顔を見るな」
そして、
三つ目。
「三度目は、名前を呼ぶな」
「怖っ」
弟が笑った。
「じいちゃん、
こういうの好きだったの?」
「知らない」
俺は、
木札を箱に入れた。
そのときは、
それだけだった。
---
夕方。
弟が言った。
「ちょっと山、
見てくる」
「何しに?」
「昔の林道、
まだ残ってるか見たい」
「暗くなるぞ」
「一時間くらい」
「携帯、
圏外になるぞ」
「大丈夫」
弟は、
ジャンパーを着た。
玄関で靴を履く。
「じゃあ行ってくる」
「気をつけろよ」
「おう」
ドアが閉まった。
それが、
最後に弟を見た瞬間だった。
---
一時間。
二時間。
三時間。
帰ってこない。
外は、
すでに暗い。
雪が降り始めていた。
電話をかける。
圏外。
「……」
嫌な予感がした。
警察に連絡しようとした。
そのとき。
玄関。
ガチャ。
ドアが開いた。
「ただいま」
弟だった。
「隆!」
俺は、
思わず駆け寄った。
「どこ行ってたんだよ!」
「ちょっと迷った」
「三時間だぞ!」
「ごめん」
弟は、
笑った。
服は濡れている。
髪には雪。
顔色が少し悪い。
でも、
怪我はない。
「大丈夫か?」
「うん」
「寒いだろ。
風呂入れ」
「そうする」
弟は、
靴を脱いだ。
俺は、
その背中を見ながら、
何となく違和感を覚えた。
歩き方。
何かが、
少し違う。
だが、
疲れているだけだと思った。
---
夕食。
二人で鍋を食べた。
「うまいな」
弟が言う。
「腹減ってたんだろ」
「うん」
「どこまで行った?」
「林道」
「何かあった?」
「別に」
「本当に?」
「うん」
弟は、
笑った。
俺は、
鍋をつつく。
そのとき。
弟が、
突然言った。
「兄ちゃん」
「何?」
「俺、
昔から納豆嫌いだったっけ?」
俺は、
箸を止めた。
「……は?」
「いや。
納豆食べてるから」
「お前、
昔から好きだっただろ」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
弟は、
不思議そうに納豆を見る。
そして、
笑った。
「そうか」
俺は、
気にしなかった。
だが、
翌朝。
また違和感を覚えた。
---
朝食。
弟が、
味噌汁を飲む。
「熱っ」
「そりゃ熱いだろ」
「……」
「どうした?」
「いや」
弟は、
味噌汁を見つめる。
「これ、
どうやって飲むんだっけ?」
俺は、
笑った。
「何言ってんだよ」
「……」
弟は、
箸を置いた。
「兄ちゃん」
「何?」
「俺って、
何歳だっけ?」
笑えなかった。
「……三十二」
「そうだっけ?」
「お前、
大丈夫か?」
「大丈夫」
弟は、
笑った。
「ちょっと疲れてるだけ」
---
昼。
弟は、
家の中を歩き回っていた。
「何してる?」
「探してる」
「何を?」
「……」
弟は、
困った顔をする。
「分からない」
「……」
そのとき、
俺は思い出した。
祖母の言葉。
「帰ってきた人が、本当に帰ってきた人とは限らない」
俺は、
自分を笑った。
馬鹿馬鹿しい。
弟は、
弟だ。
顔も、
声も、
記憶も、
ほとんど同じ。
ただ、
少し様子がおかしいだけ。
---
夜。
弟が、
風呂に入っている。
俺は、
祖父の部屋を片付けていた。
机の引き出し。
古いノートがあった。
日記。
ページをめくる。
数年前の日付。
そこに、
こう書かれていた。
「隆が山から帰ってきた」
俺は、
手を止めた。
隆。
弟の名前。
日記の日付は、
俺が高校生だった頃。
さらに読む。
「あれは隆ではない」
「……」
次のページ。
「顔は隆」
「声も隆」
「だが、隆ではない」
その次。
「山に入った人間は、時々、帰ってくる」
「ただし、全部は帰ってこない」
俺の手が、
震え始めた。
さらにページ。
「戻ってきたものは、人間の記憶を真似する」
「最初は完璧」
「しかし、時間が経つと、少しずつ壊れる」
納豆。
味噌汁。
年齢。
俺は、
息を止めた。
ページの最後。
赤い文字。
「三日以内に、本人を見つけなければならない」
俺は、
ノートを落とした。
「……本人?」
本物の隆は、
どこにいる?
---
風呂場から、
水音が止まった。
「兄ちゃん」
弟の声。
「何?」
「ちょっと来て」
「何だよ」
「お願い」
俺は、
立ち上がった。
廊下を歩く。
風呂場の前。
「どうした?」
「……」
返事がない。
「隆?」
「兄ちゃん」
「何?」
「入ってきて」
俺は、
ドアノブに手をかけた。
その瞬間。
祖父の日記を思い出した。
「顔を見てはいけない」
俺は、
手を止めた。
「どうした?」
「……」
風呂場から、
弟の声。
「顔、
見せてよ」
俺は、
背筋が凍った。
「何?」
「兄ちゃんの顔」
「……」
「見たい」
声が、
少し違った。
弟の声なのに、
弟ではない。
「隆」
「うん?」
「お前、
今何歳?」
沈黙。
「……」
「答えろよ」
「三十二」
「誕生日は?」
「……」
沈黙。
「答えろ」
「……」
風呂場の中から、
笑い声。
「兄ちゃん」
「何?」
「それ、
本人に聞く質問?」
俺は、
後ずさった。
---
その夜。
弟は、
俺の部屋の前に立っていた。
「兄ちゃん」
「……」
「入っていい?」
「ダメ」
「なんで?」
「寝る」
「一緒に寝ようよ」
「子供じゃないだろ」
弟は、
しばらく黙った。
そして、
言った。
「……寂しい」
その声。
本当に弟だった。
俺は、
ドアを開けそうになった。
「兄ちゃん」
「……」
「昔みたいに、
一緒に寝ようよ」
俺たちは、
子供の頃、
よく同じ布団で寝ていた。
怖い夢を見たとき。
雷が鳴ったとき。
弟は、
俺の布団に入ってきた。
「兄ちゃん、
怖い」
俺は、
いつも、
「大丈夫」
と言った。
ドアに手をかける。
そのとき。
廊下の向こうから、
声。
「開けるな」
俺は、
固まった。
その声は、
弟だった。
「……え?」
ドアの向こうの弟が、
言う。
「兄ちゃん、
開けて」
廊下の向こうから、
また声。
「開けるな!」
俺は、
理解できなかった。
弟が、
二人いる。
---
俺は、
部屋の窓から外を見た。
雪。
暗闇。
庭。
そして、
山。
その山の中に、
人影が立っていた。
一人。
雪の中。
こちらを見ている。
「……」
電話。
俺は、
警察に連絡しようとした。
そのとき。
スマホに着信。
弟から。
俺は、
画面を見る。
隆
「……」
でも、
弟は今、
部屋の外にいる。
電話に出る。
「もしもし?」
『兄ちゃん』
弟の声。
「……お前、
どこにいる?」
『山』
「……」
『今、
戻ってる』
「何?」
『俺、
まだ帰ってない』
俺は、
ドアを見る。
「じゃあ、
今、
外にいるのは?」
電話の向こうが、
黙った。
『……開けるな』
「……」
『絶対に、
そいつを家に入れるな』
その瞬間。
ドアの向こうから、
弟の声。
「兄ちゃん」
「……」
「電話、
誰と話してるの?」
俺は、
震えた。
電話の向こうの弟が、
言う。
『兄ちゃん、
逃げろ』
ドアの向こう。
「開けてよ」
『今すぐ逃げろ!』
「兄ちゃん」
『そいつ、
俺じゃない!』
ドアが、
ドン!
と鳴った。
「兄ちゃん!」
ドン!
「開けて!」
ドン!
『逃げろ!』
俺は、
窓を開けた。
外へ飛び降りる。
雪の中を走った。
---
山の中。
俺は、
必死に走った。
後ろから、
弟の声。
「兄ちゃん!」
「……」
「待って!」
振り返らない。
「兄ちゃん!」
「……」
「俺だよ!」
俺は、
走る。
すると、
前方から、
誰かが走ってきた。
雪まみれ。
顔を上げる。
「兄ちゃん!」
本物の弟だった。
「隆!」
「やっと会えた!」
弟が、
俺に抱きつく。
体温。
息。
震え。
全部、
本物だった。
「家にいる奴は?」
「……分からない」
「俺、
山で迷ったんだ」
「三時間じゃなかった」
「え?」
「お前、
三日帰ってこなかった」
弟が、
青ざめる。
「……三日?」
「うん」
「俺には、
数時間にしか感じなかった」
そのとき。
山の上から、
声。
「兄ちゃん」
俺たちは、
同時に振り返った。
雪の中。
あいつが立っている。
弟の顔。
弟の服。
弟の笑顔。
「兄ちゃん」
俺は、
弟の腕を掴んだ。
「逃げるぞ」
「うん」
二人で走る。
後ろから、
声が追ってくる。
「兄ちゃん」
「……」
「なんで置いていくの?」
「……」
「俺、
弟だよ」
声が、
泣き始める。
「兄ちゃん」
「……」
「昔みたいに、
一緒に帰ろうよ」
弟が、
俺を見る。
「兄ちゃん、
俺のこと信じてる?」
俺は、
答えなかった。
その瞬間。
隣を走っていた弟が、
突然止まった。
「……」
「どうした?」
弟は、
俺を見る。
「兄ちゃん」
「何?」
「俺、
何歳?」
俺は、
凍った。
「……」
弟が、
笑った。
「分からない」
その笑顔。
さっき家にいた、
「あいつ」と、
まったく同じだった。
俺は、
弟の手を振り払った。
走る。
一人で。
後ろから、
二人分の足音。
「兄ちゃん!」
「兄ちゃん!」
二人が、
追ってくる。
「俺が本物!」
「違う、
俺が本物!」
「兄ちゃん!」
「助けて!」
俺は、
走り続けた。
---
朝。
俺は、
警察に保護された。
山の中で、
一人で倒れていたらしい。
「弟さんは?」
警察官が聞く。
「……」
俺は、
答えられない。
「弟さんの名前は?」
「隆」
「年齢は?」
「三十二」
「顔は?」
俺は、
黙った。
「……」
「覚えていますか?」
「はい」
「では、
写真を見せてもらえますか?」
スマホ。
写真フォルダ。
弟の写真。
一枚。
二枚。
三枚。
すべて、
弟が写っている。
俺は、
安心した。
「これです」
警察官が、
写真を見る。
「……」
「どうしました?」
「この写真」
「はい」
「あなたしか写ってませんよ」
「……」
俺は、
写真を見る。
弟がいたはずの場所。
誰もいない。
空間だけ。
俺の隣が、
空いている。
「……」
別の写真。
弟。
いない。
幼少期の写真。
弟。
いない。
家族写真。
俺だけ。
「そんな……」
警察官が、
困った顔をする。
「弟さんは、
本当に存在していましたか?」
「……」
俺は、
答えられない。
---
自宅に戻る。
母に電話する。
「母さん」
『何?』
「隆って、
知ってる?」
母が、
沈黙する。
『……誰?』
「弟だよ!」
『あなた、
一人っ子でしょ』
「……」
電話が切れた。
俺は、
家族アルバムを開いた。
俺一人。
父。
母。
祖父。
祖母。
俺。
どこにも、
弟はいない。
俺の記憶だけが、
弟を作っている。
---
その夜。
玄関から、
音。
ガチャ。
ドアが開く。
「ただいま」
俺は、
凍った。
弟の声。
「兄ちゃん」
俺は、
振り返らない。
「帰ってきたよ」
「……」
「ずっと待ってたでしょ?」
俺は、
目を閉じる。
祖母の言葉。
「帰ってきた人が、本当に帰ってきた人とは限らない」
玄関から、
足音。
一歩。
二歩。
三歩。
俺の背後で、
止まる。
「兄ちゃん」
耳元。
「俺、
隆だよ」
俺は、
振り返らない。
「……」
「顔、
見てよ」
俺は、
動かない。
「兄ちゃん」
「……」
「名前、
呼んでよ」
俺は、
黙った。
すると、
そいつは、
笑った。
「……正解」
「……」
「俺の名前を呼ばなかったね」
足音が、
離れていく。
玄関へ。
ドアが開く。
そして、
最後に。
「でも、
一つだけ間違えたよ」
俺は、
振り返れなかった。
「山から帰ってきたのは、
俺だけじゃない」
ドアが閉まった。
---
翌朝。
俺は、
祖父の家へ戻った。
玄関に掛けていた木札。
昨日、
外したはずだった。
しかし、
元の場所に戻っている。
俺は、
木札を裏返した。
新しい文字が増えていた。
昨日までは、
なかった。
「一度目は返事をするな」
「二度目は顔を見るな」
「三度目は名前を呼ぶな」
その下。
さらに一行。
「四度目は、自分を数えるな」
俺は、
意味が分からなかった。
その瞬間。
後ろから、
声。
「兄ちゃん」
俺は、
振り返らない。
「兄ちゃん」
また。
「兄ちゃん」
三度。
俺は、
目を閉じた。
すると、
今度は、
俺自身の声がした。
「兄ちゃん」
「……」
俺は、
震えた。
自分は一人だ。
そう思った。
だが、
床を見る。
雪の上に、
足跡がある。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
そして、
五つ目。
俺の足跡の隣に、
もう一人分。
さらに、
その隣。
もう一人。
俺は、
ゆっくり下を見る。
足跡は、
家の外から入ってきている。
一人。
二人。
三人。
四人。
五人。
そして、
最後の足跡だけが、
俺の前で止まっていた。
その足跡には、
名前が書かれていた。
「隆」
俺は、
息を止めた。
そのとき、
背後から、
声。
「兄ちゃん」
今度は、
誰の声なのか、
分からなかった。
「帰ってきたよ」
――山形・第四話 終。
山形県編・完




