山形・第三話
川が名前を呼ぶ夜
最上川では、
夜の川に返事をしてはいけない。
地元の人間なら、
誰でも知っている。
ただし、
理由を尋ねる人はいない。
理由を知ってしまうと、
今度は、
川のほうから名前を呼ばれるからだ。
---
「最上川って、
夜は怖いな」
俺が言うと、
隣にいた祖父は、
黙って川を見ていた。
「怖い?」
「怖いよ」
「川が?」
「違う」
祖父は、
ゆっくり首を振った。
「川に、
呼ばれるのが怖い」
---
祖父が亡くなったのは、
俺が二十七歳のときだった。
葬儀のあと、
実家の整理をしていると、
古い箱が出てきた。
中には、
写真。
手紙。
古い新聞。
そして、
一枚の地図。
山形の最上川沿いに、
赤い丸がつけられている。
場所の名前は書かれていない。
ただ、
裏に祖父の字で、
こう書かれていた。
「夜になったら、名前を呼ばれても返事をするな」
俺は、
その意味を知りたくなった。
---
数日後。
俺は、
一人で山形へ向かった。
赤い丸の場所は、
川沿いの小さな集落だった。
夕方。
地元の食堂で、
地図を見せる。
店主の老人が、
顔を曇らせた。
「これ、
どこで手に入れた?」
「祖父の遺品です」
「名前は?」
俺が祖父の名前を告げる。
老人は、
しばらく黙っていた。
「……そうか」
「知ってるんですか?」
「ああ」
「祖父が、
昔ここに来たことがあるんですか?」
老人は、
川のほうを見る。
「帰ってきたのか?」
「え?」
「お前の祖父は、
ここから帰ってきたのか?」
「もちろん」
老人は、
小さく首を振った。
「……そうか」
その言葉が、
妙に引っかかった。
---
日が暮れる。
俺は、
川へ向かった。
川幅は広い。
流れは静か。
街灯は少ない。
水面が、
月明かりを反射している。
「……」
俺は、
祖父の地図を見る。
赤い丸の場所。
そこには、
古い石碑が立っていた。
文字は、
ほとんど消えている。
ただ、
一文字だけ読めた。
「帰」
そのとき。
川から、
声がした。
「……健一」
俺は、
凍った。
自分の名前。
「……」
水面を見る。
誰もいない。
風もない。
「健一」
もう一度。
俺は、
返事をしなかった。
そのまま、
後ろへ下がる。
すると、
声が変わった。
「……お父さん」
俺は、
息を止めた。
父は、
まだ生きている。
「お父さん」
声は、
幼い。
俺の息子の声だった。
だが、
俺には子供がいない。
俺は、
走ってその場を離れた。
---
翌朝。
ホテルで目を覚ました。
スマホを見る。
母から、
メッセージが来ている。
「昨日、川に行った?」
俺は、
驚いた。
電話する。
「何で知ってる?」
母は、
少し黙った。
『……お父さんから聞いた』
「父さん、
生きてるだろ」
『……』
母が、
黙る。
「どうした?」
『……お父さんって、
誰だっけ?』
俺は、
笑った。
「何言ってんの」
『ごめん。
本当に分からない』
「父さんだよ。
俺の父親」
『……』
「名前、
覚えてる?」
母は、
答えなかった。
その日。
母から、
何度電話しても、
同じだった。
父のことを、
何一つ思い出せない。
---
俺は、
祖父の箱を調べ直した。
写真。
家族写真。
祖父。
祖母。
父。
俺。
だが、
父の顔だけ、
黒く塗り潰されている。
「……」
そんな写真、
見たことがない。
別の写真。
父と俺。
父の顔だけが、
ない。
さらに、
古いアルバム。
父が写っているページだけ、
写真が抜き取られている。
俺は、
母へ電話した。
「父さんの写真、
全部なくなってる」
母は、
言った。
『……誰の写真?』
「父さん」
『だから、
誰?』
---
俺は、
川へ戻った。
昼間。
川は、
普通だった。
地元の老人を探す。
昨日の食堂へ行く。
「父のことを、
何か知っていますか?」
老人は、
俺を見る。
「お前の父親?」
「はい」
「名前は?」
答えようとした。
しかし、
口から出てこなかった。
「……」
俺自身が、
父の名前を思い出せない。
「……」
老人が、
静かに言った。
「始まったな」
「何が?」
「川に、
返事したか?」
「してません」
「声を聞いたか?」
「……はい」
老人は、
目を閉じた。
「それなら、
一つ持っていかれた」
「何を?」
「記憶」
---
「どういうことです?」
老人は、
話してくれた。
昔。
この川では、
子供が何人も行方不明になった。
死体は、
見つからない。
事故とも、
誘拐とも、
説明できない。
ただ、
消える前に、
必ず同じことを言っていた。
「川で、
誰かに名前を呼ばれた」
そして、
その声に返事をした子供は、
翌日から、
家族のことを一人ずつ忘れていった。
父。
母。
兄弟。
友達。
最後には、
自分自身の名前まで。
「……」
「名前を忘れた人間は、
川へ行く」
老人が言った。
「そして、
二度と戻らない」
---
俺は、
震えながら聞いた。
「じゃあ、
返事をしなければいい?」
老人は、
首を横に振った。
「もう聞いたんだろ?」
「……はい」
「なら、
返事をしていなくても、
川は覚えてる」
「何を?」
老人は、
俺を見る。
「お前の名前」
---
その夜。
俺は、
ホテルの部屋で、
家族の写真を並べた。
父。
母。
祖父。
祖母。
俺。
一枚ずつ、
名前を書く。
忘れないように。
父の名前。
……出てこない。
「……」
スマホを見る。
父の連絡先。
名前が、
空欄になっていた。
「そんな……」
写真を見る。
父の顔が、
ぼやけている。
俺は、
急いでペンを握る。
父の名前を書く。
だが、
手が止まった。
書けない。
何度考えても、
思い出せない。
そのとき。
スマホが鳴った。
知らない番号。
出る。
「もしもし?」
返事はない。
ただ、
水の音。
ザー。
ザー。
そして、
声。
「健一」
俺は、
電話を切った。
すぐに、
また鳴る。
「もしもし!」
声。
「健一」
今度は、
祖父。
「……」
「お前、
帰り道を覚えてるか?」
俺は、
息を止めた。
祖父の言葉。
山寺で聞いたものと、
同じだった。
「どうして、
じいちゃんが……」
電話の向こうで、
笑い声。
「俺は、
もう帰れない」
ブツ。
電話が切れた。
---
翌朝。
俺は、
地図を持って、
川へ向かった。
赤い丸。
その場所には、
古い舟着き場があった。
一隻の小舟。
誰もいない。
舟の中に、
一枚の紙。
俺の名前。
「健一」
その下に、
名前が並んでいる。
父。
祖父。
祖母。
知らない人。
知らない人。
知らない人。
何十人。
最後に、
俺。
俺は、
紙を握り潰した。
すると、
川の向こう岸から、
声。
「健一」
俺は、
目を閉じた。
返事をしない。
「健一」
「……」
「お父さんだよ」
俺は、
歯を食いしばる。
「健一」
「……」
「顔を見せて」
俺は、
目を開けない。
すると、
声が、
俺の隣から聞こえた。
「健一」
俺は、
飛び退いた。
誰もいない。
「……」
声。
「こっちだよ」
川を見る。
水面に、
人影。
一人。
二人。
三人。
大量の人間が、
水の中に立っている。
全員、
こちらを見ている。
そして、
一番前。
父。
「……」
父が、
笑っている。
「健一」
「……」
「俺を忘れたか?」
俺は、
涙を流した。
「……」
父が、
言った。
「忘れていいよ」
「……」
「その代わり、
お前を忘れない」
---
その瞬間。
川の水面に、
波紋。
俺の足元まで、
水が来る。
「……」
後ろへ下がる。
しかし、
水が追ってくる。
「来るな!」
叫んだ。
父が、
笑う。
「返事をしたね」
「……!」
俺は、
口を押さえた。
遅かった。
水が、
足首を包む。
冷たい。
膝。
腰。
胸。
俺は、
必死に逃げようとする。
だが、
足が動かない。
川の中の人間たちが、
俺の名前を呼ぶ。
「健一」
「健一」
「健一」
「健一」
「健一」
声が、
どんどん増える。
俺は、
目を閉じた。
そのとき。
一つだけ、
違う声が聞こえた。
「お父さん」
俺の声だった。
「……」
俺は、
目を開ける。
川の中にいる父が、
こちらを見ている。
その後ろ。
俺と同じ顔をした男が立っている。
「……誰だ?」
男が、
笑う。
「お前」
---
水が、
首まで来た。
息ができない。
俺は、
もがいた。
そのとき、
ポケットの中のスマホが鳴った。
奇跡的に、
水の中でも、
音が聞こえる。
着信。
母。
俺は、
手を伸ばす。
電話に出る。
『健一?』
「母さん!」
『お願い、
今どこ?』
「川……」
『川?』
「最上川!」
母の声が、
震える。
『今すぐ、
そこから離れて!』
「どうして?」
『あなたのお父さんから、
電話があったの』
「……」
『あなたを、
迎えに行くって』
俺は、
川を見る。
父が、
笑っている。
『健一、
聞いてる?』
「母さん……」
『あなた、
お父さんのこと、
覚えてる?』
俺は、
答えようとした。
父の名前。
顔。
声。
思い出そうとする。
「……」
思い出せない。
『健一?』
俺は、
震えながら言った。
「母さん」
『何?』
「俺の名前、
何だっけ?」
電話の向こうが、
静かになった。
『……』
「母さん?」
『……あなた、
誰?』
電話が切れた。
---
水が、
頭まで来た。
暗い。
何も見えない。
ただ、
声だけが聞こえる。
「健一」
「健一」
「健一」
そして、
最後に。
自分の声。
「俺は、
誰だ?」
---
次に目を開けたとき。
俺は、
川岸に倒れていた。
朝だった。
救急隊員が、
俺を囲んでいる。
「大丈夫ですか?」
俺は、
起き上がった。
「……はい」
「名前は?」
「……」
名前。
分からない。
「……」
「自分の名前、
分かりますか?」
俺は、
首を横に振った。
「分かりません」
救急隊員が、
困った顔をする。
「ご家族は?」
「……」
分からない。
「住所は?」
「……」
分からない。
「何県から来ました?」
「……」
何も分からない。
---
病院。
検査では、
異常がない。
医師が、
尋ねる。
「何か思い出せることは?」
俺は、
答えた。
「川」
「川?」
「川の名前だけ」
「何という川です?」
「……」
口が動く。
「最上川」
医師が、
メモする。
「それ以外は?」
「……ありません」
---
数日後。
警察が、
俺の身元を調べた。
免許証。
財布。
スマホ。
すべて、
俺の名前を示している。
高橋健一。
家族にも連絡した。
母親が、
病院へ来た。
俺は、
母を見る。
「……」
母は、
泣いていた。
「健一」
俺は、
首を傾げる。
「すみません」
「……」
「あなたは、
誰ですか?」
母は、
その場に崩れ落ちた。
---
それから、
一週間。
俺は、
少しずつ記憶を取り戻した。
自分の名前。
仕事。
家。
友人。
そして、
父。
だが、
父の顔だけは、
どうしても思い出せなかった。
母に聞く。
「父さんの写真、
ある?」
母は、
写真を持ってきた。
見る。
そこには、
一人の男性。
俺の父らしい。
だが、
顔を見ると、
胸が苦しくなるだけ。
「……知らない」
母は、
泣いた。
「あなたのお父さんよ」
「……ごめん」
「いいの」
母は、
写真をしまった。
その夜。
病室で眠る。
午前二時。
川の音が聞こえた。
ザー。
ザー。
ザー。
俺は、
目を開けた。
窓の外。
雨は降っていない。
それなのに、
水の音。
そして、
声。
「健一」
俺は、
布団の中で固まった。
「健一」
父の声。
俺は、
返事をしなかった。
すると、
別の声。
母。
「健一」
次に、
祖父。
「健一」
そして、
妻のような声。
俺は、
妻はいない。
なのに、
聞こえる。
「あなた」
俺は、
耳を塞いだ。
「やめろ!」
すると、
全部の声が、
同時に止まった。
静寂。
そして、
一つの声だけが残った。
自分自身の声。
「もう大丈夫」
俺は、
安心しかけた。
だが、
その声は、
続けた。
「みんなのこと、
忘れたから」
「……」
「もう、
川に帰れるね」
---
病室の床に、
水が広がっていた。
どこから来たのか分からない。
水は、
ベッドの下から、
ゆっくり広がる。
そして、
水面に、
人影が映った。
俺。
その隣に、
父。
祖父。
祖母。
知らない人たち。
そして、
最後に。
一人の男。
俺と、
まったく同じ顔。
そいつが、
水面から俺を見る。
「次は、
お前が呼ぶ番だよ」
---
翌朝。
看護師が病室に入った。
ベッドは空だった。
患者は、
いない。
窓も閉まっている。
鍵もかかっている。
床には、
水たまり。
そして、
ベッドの横に、
一枚の紙。
そこには、
名前が書かれていた。
「高橋健一」
その下に、
新しい名前。
看護師は、
その名前を読んだ。
「……?」
その瞬間。
病室の窓の外から、
川の音が聞こえた。
ザー。
ザー。
ザー。
看護師が、
窓を見る。
誰もいない。
ただ、
遠くから、
男の声が聞こえる。
「――さん」
看護師は、
耳を澄ませた。
自分の名前だった。
「……」
返事をしてはいけない。
そう思った。
だが、
無意識に、
口が動いた。
「はい?」
その瞬間。
病室の床に、
水が一滴、
落ちた。
そして、
どこからともなく、
男の声。
「ありがとう」
――山形・第三話 終。




