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日本の怖い話  作者: こうた


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15/21

山形・第三話

川が名前を呼ぶ夜


最上川では、


夜の川に返事をしてはいけない。


地元の人間なら、


誰でも知っている。


ただし、


理由を尋ねる人はいない。


理由を知ってしまうと、


今度は、


川のほうから名前を呼ばれるからだ。


---


「最上川って、


夜は怖いな」


俺が言うと、


隣にいた祖父は、


黙って川を見ていた。


「怖い?」


「怖いよ」


「川が?」


「違う」


祖父は、


ゆっくり首を振った。


「川に、


呼ばれるのが怖い」


---


祖父が亡くなったのは、


俺が二十七歳のときだった。


葬儀のあと、


実家の整理をしていると、


古い箱が出てきた。


中には、


写真。


手紙。


古い新聞。


そして、


一枚の地図。


山形の最上川沿いに、


赤い丸がつけられている。


場所の名前は書かれていない。


ただ、


裏に祖父の字で、


こう書かれていた。


「夜になったら、名前を呼ばれても返事をするな」


俺は、


その意味を知りたくなった。


---


数日後。


俺は、


一人で山形へ向かった。


赤い丸の場所は、


川沿いの小さな集落だった。


夕方。


地元の食堂で、


地図を見せる。


店主の老人が、


顔を曇らせた。


「これ、


どこで手に入れた?」


「祖父の遺品です」


「名前は?」


俺が祖父の名前を告げる。


老人は、


しばらく黙っていた。


「……そうか」


「知ってるんですか?」


「ああ」


「祖父が、


昔ここに来たことがあるんですか?」


老人は、


川のほうを見る。


「帰ってきたのか?」


「え?」


「お前の祖父は、


ここから帰ってきたのか?」


「もちろん」


老人は、


小さく首を振った。


「……そうか」


その言葉が、


妙に引っかかった。


---


日が暮れる。


俺は、


川へ向かった。


川幅は広い。


流れは静か。


街灯は少ない。


水面が、


月明かりを反射している。


「……」


俺は、


祖父の地図を見る。


赤い丸の場所。


そこには、


古い石碑が立っていた。


文字は、


ほとんど消えている。


ただ、


一文字だけ読めた。


「帰」


そのとき。


川から、


声がした。


「……健一」


俺は、


凍った。


自分の名前。


「……」


水面を見る。


誰もいない。


風もない。


「健一」


もう一度。


俺は、


返事をしなかった。


そのまま、


後ろへ下がる。


すると、


声が変わった。


「……お父さん」


俺は、


息を止めた。


父は、


まだ生きている。


「お父さん」


声は、


幼い。


俺の息子の声だった。


だが、


俺には子供がいない。


俺は、


走ってその場を離れた。


---


翌朝。


ホテルで目を覚ました。


スマホを見る。


母から、


メッセージが来ている。


「昨日、川に行った?」


俺は、


驚いた。


電話する。


「何で知ってる?」


母は、


少し黙った。


『……お父さんから聞いた』


「父さん、


生きてるだろ」


『……』


母が、


黙る。


「どうした?」


『……お父さんって、


誰だっけ?』


俺は、


笑った。


「何言ってんの」


『ごめん。


本当に分からない』


「父さんだよ。


俺の父親」


『……』


「名前、


覚えてる?」


母は、


答えなかった。


その日。


母から、


何度電話しても、


同じだった。


父のことを、


何一つ思い出せない。


---


俺は、


祖父の箱を調べ直した。


写真。


家族写真。


祖父。


祖母。


父。


俺。


だが、


父の顔だけ、


黒く塗り潰されている。


「……」


そんな写真、


見たことがない。


別の写真。


父と俺。


父の顔だけが、


ない。


さらに、


古いアルバム。


父が写っているページだけ、


写真が抜き取られている。


俺は、


母へ電話した。


「父さんの写真、


全部なくなってる」


母は、


言った。


『……誰の写真?』


「父さん」


『だから、


誰?』


---


俺は、


川へ戻った。


昼間。


川は、


普通だった。


地元の老人を探す。


昨日の食堂へ行く。


「父のことを、


何か知っていますか?」


老人は、


俺を見る。


「お前の父親?」


「はい」


「名前は?」


答えようとした。


しかし、


口から出てこなかった。


「……」


俺自身が、


父の名前を思い出せない。


「……」


老人が、


静かに言った。


「始まったな」


「何が?」


「川に、


返事したか?」


「してません」


「声を聞いたか?」


「……はい」


老人は、


目を閉じた。


「それなら、


一つ持っていかれた」


「何を?」


「記憶」


---


「どういうことです?」


老人は、


話してくれた。


昔。


この川では、


子供が何人も行方不明になった。


死体は、


見つからない。


事故とも、


誘拐とも、


説明できない。


ただ、


消える前に、


必ず同じことを言っていた。


「川で、


誰かに名前を呼ばれた」


そして、


その声に返事をした子供は、


翌日から、


家族のことを一人ずつ忘れていった。


父。


母。


兄弟。


友達。


最後には、


自分自身の名前まで。


「……」


「名前を忘れた人間は、


川へ行く」


老人が言った。


「そして、


二度と戻らない」


---


俺は、


震えながら聞いた。


「じゃあ、


返事をしなければいい?」


老人は、


首を横に振った。


「もう聞いたんだろ?」


「……はい」


「なら、


返事をしていなくても、


川は覚えてる」


「何を?」


老人は、


俺を見る。


「お前の名前」


---


その夜。


俺は、


ホテルの部屋で、


家族の写真を並べた。


父。


母。


祖父。


祖母。


俺。


一枚ずつ、


名前を書く。


忘れないように。


父の名前。


……出てこない。


「……」


スマホを見る。


父の連絡先。


名前が、


空欄になっていた。


「そんな……」


写真を見る。


父の顔が、


ぼやけている。


俺は、


急いでペンを握る。


父の名前を書く。


だが、


手が止まった。


書けない。


何度考えても、


思い出せない。


そのとき。


スマホが鳴った。


知らない番号。


出る。


「もしもし?」


返事はない。


ただ、


水の音。


ザー。


ザー。


そして、


声。


「健一」


俺は、


電話を切った。


すぐに、


また鳴る。


「もしもし!」


声。


「健一」


今度は、


祖父。


「……」


「お前、


帰り道を覚えてるか?」


俺は、


息を止めた。


祖父の言葉。


山寺で聞いたものと、


同じだった。


「どうして、


じいちゃんが……」


電話の向こうで、


笑い声。


「俺は、


もう帰れない」


ブツ。


電話が切れた。


---


翌朝。


俺は、


地図を持って、


川へ向かった。


赤い丸。


その場所には、


古い舟着き場があった。


一隻の小舟。


誰もいない。


舟の中に、


一枚の紙。


俺の名前。


「健一」


その下に、


名前が並んでいる。


父。


祖父。


祖母。


知らない人。


知らない人。


知らない人。


何十人。


最後に、


俺。


俺は、


紙を握り潰した。


すると、


川の向こう岸から、


声。


「健一」


俺は、


目を閉じた。


返事をしない。


「健一」


「……」


「お父さんだよ」


俺は、


歯を食いしばる。


「健一」


「……」


「顔を見せて」


俺は、


目を開けない。


すると、


声が、


俺の隣から聞こえた。


「健一」


俺は、


飛び退いた。


誰もいない。


「……」


声。


「こっちだよ」


川を見る。


水面に、


人影。


一人。


二人。


三人。


大量の人間が、


水の中に立っている。


全員、


こちらを見ている。


そして、


一番前。


父。


「……」


父が、


笑っている。


「健一」


「……」


「俺を忘れたか?」


俺は、


涙を流した。


「……」


父が、


言った。


「忘れていいよ」


「……」


「その代わり、


お前を忘れない」


---


その瞬間。


川の水面に、


波紋。


俺の足元まで、


水が来る。


「……」


後ろへ下がる。


しかし、


水が追ってくる。


「来るな!」


叫んだ。


父が、


笑う。


「返事をしたね」


「……!」


俺は、


口を押さえた。


遅かった。


水が、


足首を包む。


冷たい。


膝。


腰。


胸。


俺は、


必死に逃げようとする。


だが、


足が動かない。


川の中の人間たちが、


俺の名前を呼ぶ。


「健一」


「健一」


「健一」


「健一」


「健一」


声が、


どんどん増える。


俺は、


目を閉じた。


そのとき。


一つだけ、


違う声が聞こえた。


「お父さん」


俺の声だった。


「……」


俺は、


目を開ける。


川の中にいる父が、


こちらを見ている。


その後ろ。


俺と同じ顔をした男が立っている。


「……誰だ?」


男が、


笑う。


「お前」


---


水が、


首まで来た。


息ができない。


俺は、


もがいた。


そのとき、


ポケットの中のスマホが鳴った。


奇跡的に、


水の中でも、


音が聞こえる。


着信。


母。


俺は、


手を伸ばす。


電話に出る。


『健一?』


「母さん!」


『お願い、


今どこ?』


「川……」


『川?』


「最上川!」


母の声が、


震える。


『今すぐ、


そこから離れて!』


「どうして?」


『あなたのお父さんから、


電話があったの』


「……」


『あなたを、


迎えに行くって』


俺は、


川を見る。


父が、


笑っている。


『健一、


聞いてる?』


「母さん……」


『あなた、


お父さんのこと、


覚えてる?』


俺は、


答えようとした。


父の名前。


顔。


声。


思い出そうとする。


「……」


思い出せない。


『健一?』


俺は、


震えながら言った。


「母さん」


『何?』


「俺の名前、


何だっけ?」


電話の向こうが、


静かになった。


『……』


「母さん?」


『……あなた、


誰?』


電話が切れた。


---


水が、


頭まで来た。


暗い。


何も見えない。


ただ、


声だけが聞こえる。


「健一」


「健一」


「健一」


そして、


最後に。


自分の声。


「俺は、


誰だ?」


---


次に目を開けたとき。


俺は、


川岸に倒れていた。


朝だった。


救急隊員が、


俺を囲んでいる。


「大丈夫ですか?」


俺は、


起き上がった。


「……はい」


「名前は?」


「……」


名前。


分からない。


「……」


「自分の名前、


分かりますか?」


俺は、


首を横に振った。


「分かりません」


救急隊員が、


困った顔をする。


「ご家族は?」


「……」


分からない。


「住所は?」


「……」


分からない。


「何県から来ました?」


「……」


何も分からない。


---


病院。


検査では、


異常がない。


医師が、


尋ねる。


「何か思い出せることは?」


俺は、


答えた。


「川」


「川?」


「川の名前だけ」


「何という川です?」


「……」


口が動く。


「最上川」


医師が、


メモする。


「それ以外は?」


「……ありません」


---


数日後。


警察が、


俺の身元を調べた。


免許証。


財布。


スマホ。


すべて、


俺の名前を示している。


高橋健一。


家族にも連絡した。


母親が、


病院へ来た。


俺は、


母を見る。


「……」


母は、


泣いていた。


「健一」


俺は、


首を傾げる。


「すみません」


「……」


「あなたは、


誰ですか?」


母は、


その場に崩れ落ちた。


---


それから、


一週間。


俺は、


少しずつ記憶を取り戻した。


自分の名前。


仕事。


家。


友人。


そして、


父。


だが、


父の顔だけは、


どうしても思い出せなかった。


母に聞く。


「父さんの写真、


ある?」


母は、


写真を持ってきた。


見る。


そこには、


一人の男性。


俺の父らしい。


だが、


顔を見ると、


胸が苦しくなるだけ。


「……知らない」


母は、


泣いた。


「あなたのお父さんよ」


「……ごめん」


「いいの」


母は、


写真をしまった。


その夜。


病室で眠る。


午前二時。


川の音が聞こえた。


ザー。


ザー。


ザー。


俺は、


目を開けた。


窓の外。


雨は降っていない。


それなのに、


水の音。


そして、


声。


「健一」


俺は、


布団の中で固まった。


「健一」


父の声。


俺は、


返事をしなかった。


すると、


別の声。


母。


「健一」


次に、


祖父。


「健一」


そして、


妻のような声。


俺は、


妻はいない。


なのに、


聞こえる。


「あなた」


俺は、


耳を塞いだ。


「やめろ!」


すると、


全部の声が、


同時に止まった。


静寂。


そして、


一つの声だけが残った。


自分自身の声。


「もう大丈夫」


俺は、


安心しかけた。


だが、


その声は、


続けた。


「みんなのこと、


忘れたから」


「……」


「もう、


川に帰れるね」


---


病室の床に、


水が広がっていた。


どこから来たのか分からない。


水は、


ベッドの下から、


ゆっくり広がる。


そして、


水面に、


人影が映った。


俺。


その隣に、


父。


祖父。


祖母。


知らない人たち。


そして、


最後に。


一人の男。


俺と、


まったく同じ顔。


そいつが、


水面から俺を見る。


「次は、


お前が呼ぶ番だよ」


---


翌朝。


看護師が病室に入った。


ベッドは空だった。


患者は、


いない。


窓も閉まっている。


鍵もかかっている。


床には、


水たまり。


そして、


ベッドの横に、


一枚の紙。


そこには、


名前が書かれていた。


「高橋健一」


その下に、


新しい名前。


看護師は、


その名前を読んだ。


「……?」


その瞬間。


病室の窓の外から、


川の音が聞こえた。


ザー。


ザー。


ザー。


看護師が、


窓を見る。


誰もいない。


ただ、


遠くから、


男の声が聞こえる。


「――さん」


看護師は、


耳を澄ませた。


自分の名前だった。


「……」


返事をしてはいけない。


そう思った。


だが、


無意識に、


口が動いた。


「はい?」


その瞬間。


病室の床に、


水が一滴、


落ちた。


そして、


どこからともなく、


男の声。


「ありがとう」


――山形・第三話 終。

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