山形・第二話
明日の朝、何人で出ますか
その旅館には、
「宿泊客の人数を確認しない」
という妙な決まりがあった。
理由を聞くと、
女将は必ず、
同じ答えをした。
「朝になれば分かりますから」
---
雪が降っていた。
三月の山形。
街では雪が溶け始めていたが、
山間部はまだ真っ白だった。
俺は、
妻の美咲と二人で、
小さな旅館を訪れていた。
結婚して五年。
最近、
夫婦の会話が減っていた。
仕事。
家事。
金。
将来。
どれも大きな問題ではない。
けれど、
小さな不満が積み重なって、
互いに疲れていた。
だから、
久しぶりに二人で旅行することにした。
予約した旅館は、
山の中にある古い宿だった。
---
「本当にここ?」
美咲が、
車の窓から外を見る。
雪。
山。
木。
そして、
古い木造の旅館。
看板には、
旅館名が書かれていた。
「雪見荘」
「予約サイトでは、
もっと綺麗だったよ」
「写真は十年前とかじゃない?」
「かもな」
二人で笑った。
玄関を開ける。
チリン。
鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
女将が出てきた。
六十代くらい。
穏やかな顔。
「ご予約の?」
「はい。
高橋です」
女将が、
帳簿を見る。
「高橋様……」
そして、
二人を見る。
「二名様ですね」
「はい」
女将は、
一瞬だけ黙った。
「……二名様」
「?」
「失礼しました」
女将は笑った。
「どうぞお入りください」
---
部屋に案内される。
古い和室。
窓から、
雪山が見える。
「いいじゃん」
美咲が、
少し嬉しそうに言った。
俺も、
少し安心した。
夕食まで時間がある。
二人で温泉に入り、
部屋で酒を飲んだ。
久しぶりに、
普通に話した。
「こういう旅行、
もっと早くすればよかったね」
美咲が言った。
「そうだな」
「また来よう」
「うん」
そのときは、
本当にそう思っていた。
---
夕食。
大広間には、
俺たち以外にも、
何組かの客がいた。
老夫婦。
若いカップル。
一人旅の男。
家族連れ。
女将が料理を運ぶ。
「本日は、
八名様ですね」
俺は、
何気なく人数を数えた。
俺。
美咲。
老夫婦が二人。
若いカップルが二人。
一人旅の男。
家族が三人。
……十人。
「?」
八人ではない。
俺は、
もう一度数えた。
十人。
美咲に小声で言う。
「女将さん、
人数間違えてる」
「何が?」
「八人って言ったけど、
十人いる」
美咲が、
周囲を見る。
「……十人?」
「うん」
「私には、
八人に見えるけど」
俺は、
固まった。
「え?」
「私たち二人。
老夫婦二人。
カップル二人。
一人旅の人一人。
家族三人。
……」
「それで?」
「八人」
美咲は、
平然と言った。
俺は、
もう一度見る。
家族は、
二人だった。
父親と、
小さな女の子。
母親はいない。
さっきまで、
三人だったはずなのに。
---
食事が終わる。
部屋に戻る。
「さっきの家族、
三人だったよな?」
俺が聞く。
「二人だったよ」
「いや、
絶対三人いた」
「疲れてるんじゃない?」
「……」
俺は、
それ以上言わなかった。
---
夜十一時。
布団に入る。
美咲は、
すぐ眠った。
俺は、
なかなか眠れなかった。
外は吹雪。
窓に、
雪が当たっている。
バン。
バン。
バン。
その音を聞いているうちに、
眠ってしまった。
---
「……さん」
誰かの声。
「高橋さん」
俺は、
目を開けた。
女将だった。
部屋の入り口に立っている。
「……何時ですか?」
「午前二時です」
「どうしました?」
女将は、
微笑んだ。
「確認です」
「何の?」
「今、
何人いますか?」
俺は、
寝ぼけながら答えた。
「二人です」
女将は、
少しだけ笑った。
「そうですか」
「……?」
「失礼しました」
女将が出ていく。
俺は、
また眠ろうとした。
そのとき。
隣から、
美咲の声。
「……ねえ」
「ん?」
「今、
誰と話してたの?」
「女将さん」
「女将さん?」
「うん」
美咲が、
起き上がる。
「私、
ずっと一人だったよ」
「……」
「何?」
俺は、
答えられなかった。
---
朝。
目を覚ます。
美咲が、
いない。
「美咲?」
返事がない。
トイレにもいない。
廊下にもいない。
旅館の中を探す。
すると、
食堂に美咲がいた。
「どこ行ってた?」
「朝食」
「一人で?」
「うん」
「なんで起こさなかった?」
美咲が、
不思議そうな顔をした。
「あなた、
先に来てたじゃん」
「……」
「さっきまで、
ここにいたよ」
俺は、
背筋が寒くなった。
「俺は、
部屋にいた」
「……」
美咲が、
黙る。
女将が、
朝食を運んでくる。
「おはようございます」
「女将さん」
俺は、
聞いた。
「昨日、
夜中に部屋へ来ました?」
女将は、
笑った。
「いいえ」
「……」
「私は、
昨夜一度も、
二階へ上がっていません」
---
帰る準備をする。
外はまだ雪。
車に乗ろうとした。
そのとき、
女将が玄関まで来た。
「高橋様」
「はい」
「忘れ物はありませんか?」
「大丈夫です」
女将は、
俺たちを見て、
言った。
「では、
お気をつけて」
そして、
いつものように聞いた。
「明日の朝は、
何名様でお出になりますか?」
俺は、
意味が分からなかった。
「今日帰るんですけど」
「……」
女将の笑顔が消えた。
「今日?」
「はい」
女将は、
しばらく黙っていた。
そして、
小さな声で言った。
「そうでしたか」
---
車を出す。
山道を下る。
しばらくして、
美咲が言った。
「ねえ」
「ん?」
「さっきの女将さん、
変じゃなかった?」
「俺もそう思う」
「何人で出るかって、
何だったんだろう」
「……」
その瞬間。
車の後ろから、
音がした。
ドン。
「何?」
美咲が振り返る。
俺も、
バックミラーを見る。
誰もいない。
「雪が落ちたんじゃない?」
「そうかな」
車を走らせる。
しばらくして、
また。
ドン。
今度は、
はっきり聞こえた。
後部座席。
俺は、
車を止めた。
「ちょっと見てくる」
「待って」
「大丈夫」
後部座席を開ける。
何もない。
ただ、
雪が少し積もっている。
「ほら、
何もない」
美咲が、
安心した顔をする。
「よかった」
ドアを閉める。
再び走り出す。
---
一時間後。
ようやく山を下りた。
スマホが圏内になる。
俺は、
旅館の口コミを検索した。
雪見荘。
検索結果。
ほとんどない。
古い旅館だからだろう。
だが、
一件だけ、
妙な口コミがあった。
「人数を確認される旅館です」
投稿者は、
十年前の客。
内容は短かった。
「二人で泊まりました。
朝、
一人になりました。
でも、
旅館の人は、
二人で帰ったと言っています」
俺は、
画面を見つめた。
「……」
美咲が聞く。
「どうしたの?」
「これ……」
口コミを見せる。
美咲は、
笑った。
「怖い話?」
「……たぶん」
「やめてよ」
「いや、
でも」
俺は、
口コミの続きを見る。
次の文章。
**「本当は、
三人で泊まったのだと思います」**
「……」
その下に、
写真が一枚。
旅館の食堂。
宿泊客が並んでいる。
写真の端。
俺たち二人。
そして、
俺たちの後ろに、
知らない女が立っている。
俺は、
息を止めた。
「美咲」
「何?」
「この女、
誰?」
美咲は、
写真を見る。
「……」
「知ってる?」
「知らない」
「本当に?」
「うん」
女は、
こちらを向いている。
顔は、
長い髪で隠れている。
だが、
手だけが見える。
その手が、
美咲の肩に置かれていた。
---
俺は、
写真を保存した。
その瞬間。
スマホに、
通知が届いた。
旅館からのメールだった。
「ご宿泊ありがとうございました」
普通のメール。
その下。
宿泊人数。
「3名様」
俺は、
固まった。
「……」
美咲が、
画面を見る。
「三人?」
「うん」
「旅館が間違えたんじゃない?」
「そうだな」
そう言いながら、
俺は、
メールを閉じた。
---
その夜。
自宅。
俺と美咲は、
普通に夕食を食べた。
「やっぱり家が一番だな」
俺が言う。
「うん」
テレビをつける。
ニュース。
天気予報。
明日の山形は、
大雪になるらしい。
俺は、
旅館のことを忘れようとした。
その夜。
午前二時。
目が覚めた。
隣を見る。
美咲が寝ている。
「……」
時計を見る。
午前二時十三分。
そのとき。
玄関から、
音。
コン。
コン。
コン。
俺は、
布団の中で固まった。
こんな時間に、
誰?
コン。
コン。
コン。
そして、
女将の声。
「高橋様」
「……」
「明日の朝、
何名様でお出になりますか?」
俺は、
答えなかった。
すると、
隣で眠っていた美咲が、
突然、
目を開けた。
「……二人」
俺は、
振り返る。
「美咲?」
美咲は、
眠ったまま、
もう一度言った。
「二人です」
玄関の外から、
女将の声。
「……違います」
「……」
「三人です」
俺は、
美咲の手を握った。
冷たい。
異常なほど冷たい。
「美咲、
起きろ」
「……」
「美咲」
彼女は、
目を開けない。
その代わり、
布団の中から、
別の声がした。
「三人です」
俺は、
息を止めた。
「……」
美咲は、
俺の隣で眠っている。
なら、
この声は、
どこから?
布団を見る。
二人分の膨らみ。
俺。
美咲。
そして、
その間。
もう一つ。
小さな膨らみ。
誰かが、
布団の中にいる。
---
俺は、
布団をめくった。
何もいない。
ただ、
美咲のスマホが置いてある。
画面が光った。
新着メッセージ。
知らない番号。
**「明日の朝、
三人で出ます」**
俺は、
震える手で、
美咲を起こした。
「美咲!」
彼女が、
目を開ける。
「……何?」
「今、
メッセージが……」
画面を見せる。
美咲の顔から、
血の気が引いた。
「これ……」
「知ってるの?」
「違う」
「じゃあ何?」
美咲は、
震えながら、
自分のスマホを操作した。
写真フォルダを開く。
そこには、
今日撮った写真が並んでいた。
俺。
美咲。
旅館。
雪。
そして、
最後の一枚。
俺たちが車で帰る途中に撮った、
何気ない写真。
助手席から撮った、
雪道。
「……」
俺は、
その写真を拡大した。
道路の脇に、
人が立っている。
白い服の女。
そして、
その隣に、
もう一人。
小さな女の子。
さらに、
その後ろ。
老人。
さらに、
その後ろ。
男。
さらに、
さらに。
雪の中に、
何十人もの人間が並んでいる。
全員、
こちらを見ている。
そして、
その先頭にいる女が、
こちらへ手を伸ばしている。
---
美咲が、
震える声で言った。
「これ、
いつ撮ったの?」
「帰る途中」
「違う」
「え?」
「この写真、
昨日撮ってる」
「……」
「昨日の夜、
私が寝る前に撮った写真」
「そんなはず……」
美咲は、
写真の撮影時刻を見せた。
午前二時十三分。
俺は、
凍りついた。
「俺たち、
昨日の夜は旅館にいた」
「うん」
「じゃあ、
この写真は……」
二人とも、
何も言えなかった。
そのとき。
玄関。
コン。
コン。
コン。
女将の声。
「高橋様」
「……」
「もう一度、
確認しますね」
「……」
「明日の朝、
何名様でお出になりますか?」
俺は、
叫んだ。
「二人だ!」
静寂。
そして、
女将が言った。
「そうですか」
少し間を置いて、
こう続けた。
「では、
一人を置いていきますね」
---
玄関のドアが、
ゆっくり開いた。
鍵は、
かかっている。
チェーンも、
している。
それなのに、
数センチ。
ゆっくり。
ゆっくり。
開いていく。
冷たい風が、
部屋に入ってくる。
そして、
雪が、
畳の上に落ちた。
雪の上に、
足跡。
一つ。
二つ。
三つ。
誰もいないのに、
足跡だけが、
部屋の中へ入ってくる。
俺は、
美咲を抱き寄せた。
足跡が、
こちらへ近づく。
一歩。
また一歩。
そして、
俺の目の前で、
止まった。
耳元に、
声。
「三人目は、
あなたです」
俺は、
叫んだ。
その瞬間、
意識が途切れた。
---
翌朝。
俺は、
病院で目を覚ました。
「……」
天井。
白い。
妻が、
横にいる。
「美咲……?」
「大丈夫?」
「ここは?」
「病院」
「どうして?」
美咲は、
泣きながら笑った。
「昨日、
雪山で事故に遭ったの」
「……事故?」
「車が、
道路脇に突っ込んだ」
「旅館は?」
美咲が、
首を傾げる。
「旅館?」
「雪見荘」
「……」
「泊まっただろ?」
美咲は、
黙った。
「何言ってるの?」
「……」
「旅行なんて、
してないよ」
俺は、
混乱した。
「じゃあ、
何で俺は……」
美咲は、
俺の手を握った。
「あなた、
三日前から、
意識がなかったの」
「……」
「事故に遭ったのは、
私たち二人だけ」
俺は、
言葉を失った。
「二人……?」
「うん」
その瞬間。
病室のドアが開いた。
看護師が入ってくる。
「高橋さん、
目が覚めましたか」
「はい」
看護師が、
点滴を確認する。
「奥様も心配されていましたよ」
俺は、
頷いた。
そのとき。
看護師が、
ふと俺を見る。
「……」
「どうしました?」
「いえ」
看護師は、
不思議そうな顔をして、
言った。
「昨日からずっと、
三人部屋をご希望だったので」
「……」
「三人部屋じゃないと、
嫌だとおっしゃっていたんですよ」
俺は、
何も言えなかった。
---
看護師が出ていく。
美咲が、
俺を見る。
「どうしたの?」
「……」
「あなた、
顔色悪いよ」
俺は、
答えられない。
そのとき。
ベッドの横にある椅子が、
ギシッと鳴った。
誰も座っていない。
美咲が、
そちらを見る。
「……」
「どうした?」
「今、
誰か座った?」
「え?」
「椅子」
俺たちは、
同時に椅子を見る。
何もない。
ただ、
椅子の上に、
一枚の紙が置かれていた。
俺は、
手に取った。
病院の紙ではない。
古い旅館の領収書。
宿泊人数。
3名
宿泊日。
昨日。
そして、
備考欄。
そこに、
手書きで一言。
「一名様、お預かりしています」
俺は、
紙を落とした。
その瞬間。
病室のドアの向こうから、
女将の声がした。
「高橋様」
「……」
「明日の朝、
何名様でお出になりますか?」
俺は、
答えなかった。
すると、
美咲が、
俺の手を握った。
冷たい。
そして、
耳元で、
小さく囁いた。
「三人」
俺は、
ゆっくり、
妻の顔を見る。
美咲は、
笑っていた。
その笑顔の後ろ。
病室の窓に映った姿は、
三人だった。
俺。
美咲。
そして、
俺の肩に手を置く、
白い女。
――山形・第二話 終。




