山形・第一話
最後の階段
「この階段、数えないほうがいいですよ」
ガイドの男は、
そう言って笑った。
俺は、
笑い返した。
「なんで?」
「数えると、
増えるからです」
冗談だと思った。
そのときは。
---
山形県の山寺。
正式には、
宝珠山立石寺。
長い石段で知られる場所だ。
俺がここへ来たのは、
仕事ではなかった。
三十二歳。
会社員。
最近、
父が亡くなった。
葬儀から一か月。
何をしていても、
父のことを思い出してしまう。
そんな俺を見かねて、
友人の健太が、
「旅行でも行こう」
と誘ってくれた。
それで、
山形まで来た。
---
「千段以上あるんだって」
健太が言った。
「数えてみようぜ」
「やめとけ」
俺は笑った。
「なんで?」
「さっきガイドが、
数えるなって言ってただろ」
「迷信だろ」
健太は、
先に階段を登っていった。
俺も続く。
一段。
二段。
三段。
雪が残っている。
足元に気をつけながら、
ゆっくり登る。
途中で、
健太が振り返った。
「お前、
親父さんのこと、
まだ引きずってる?」
「……まあな」
「最後、
何か言ってた?」
俺は、
黙った。
父が亡くなる前。
病室で、
俺の手を握りながら、
一言だけ言った。
「帰り道を、
忘れるな」
意味が分からなかった。
だから、
聞き返した。
でも、
父はもう、
答えなかった。
---
階段を登る。
五十段。
百段。
二百段。
景色が、
少しずつ変わっていく。
人の声が、
遠くなる。
「なあ」
健太が言った。
「何?」
「今、
何段?」
「知らない」
「数えてたろ?」
「……」
俺は、
数えていなかった。
だが、
健太は、
笑った。
「俺は、
二百十七」
「数えてたのかよ」
「暇だからな」
俺は、
呆れた。
「じゃあ、
帰りは?」
「同じだけ降りればいいだろ」
「……」
俺は、
なぜか、
嫌な感じがした。
---
さらに登る。
三百段。
四百段。
五百段。
そこで、
健太が立ち止まった。
「……おかしい」
「何が?」
「さっきから、
同じ石がある」
「?」
健太は、
階段の端を指差した。
小さな傷がついた石。
三角形の傷。
「俺、
さっきここに気づいた」
「偶然だろ」
「いや」
健太は、
スマホの写真を見せた。
さっき撮った階段。
その写真にも、
同じ傷。
「……」
俺は、
何も言えなかった。
「戻る?」
「もう少し登ろう」
俺は、
そう言った。
なぜか、
ここで引き返したくなかった。
---
さらに登る。
六百段。
七百段。
八百段。
いつの間にか、
他の観光客がいなくなっていた。
「……」
静かだった。
雪が、
木から落ちる音。
遠くで、
鳥が鳴く。
それだけ。
健太が、
言った。
「なあ」
「ん?」
「さっきから、
誰かいるよな」
「どこ?」
健太は、
後ろを見た。
「……」
「誰もいない」
「いや、
いる」
「どこ?」
「俺たちの後ろ」
俺は、
振り返った。
誰もいない。
ただ、
階段が続いている。
「気のせいだよ」
「……そうかな」
健太は、
黙った。
---
八百五十段。
九百段。
九百五十段。
そして、
千段。
「千段!」
健太が、
嬉しそうに言った。
「終わりだ」
だが、
目の前には、
まだ階段が続いていた。
「……」
「おかしくない?」
俺は、
答えられなかった。
千段を超えても、
まだ続く。
さらに、
階段。
さらに、
階段。
「何段あるんだよ」
健太が、
笑った。
「もう数えるのやめろ」
「……」
俺は、
そこで気づいた。
さっきまで、
健太は俺の前を歩いていた。
今は、
俺の後ろにいる。
「健太」
「何?」
「いつ前に来た?」
「……」
健太が、
黙った。
「ずっと、
お前の後ろだよ」
「……」
俺は、
足を止めた。
「俺、
ずっとお前の後ろだったぞ」
健太が、
笑った。
「何言ってんだよ」
「……」
「俺が先に歩いてただろ」
二人とも、
黙った。
---
そのとき。
上から、
声が聞こえた。
「まだですか?」
女性の声。
俺たちは、
顔を見合わせた。
「誰?」
健太が、
叫ぶ。
「すみません!」
返事。
「まだですか?」
俺は、
嫌な予感がした。
「誰かいますか?」
「いますよ」
声は、
すぐ上。
階段の先。
「助けてください」
健太が、
言った。
「今、
行きます!」
俺は、
腕を掴んだ。
「待て」
「何で?」
「……」
俺には、
分からなかった。
ただ、
行ってはいけない気がした。
そのとき。
女性の声が、
変わった。
「どうして、
来ないの?」
今度は、
父の声だった。
「……」
俺の全身が、
固まった。
「直人」
父の声。
「迎えに来てくれ」
俺は、
震えた。
「親父……?」
健太が、
俺を見る。
「お前、
今なんて言った?」
「……」
「誰の声?」
俺は、
答えられなかった。
上から、
また声。
「直人」
「……」
「帰ろう」
父の声。
「お前が、
帰り道を忘れたから、
俺が迎えに来た」
俺の目から、
涙が出た。
「親父……」
一歩、
階段を登る。
健太が、
腕を掴む。
「やめろ!」
「でも……」
「それ、
お前の親父じゃない!」
「……」
上から、
声。
今度は、
健太の母親。
「健太」
「……」
健太が、
青ざめた。
「帰っておいで」
「……母さん」
「あなたも、
一緒に来て」
健太の手が、
震える。
---
俺たちは、
その場から逃げようとした。
階段を下りる。
しかし、
十段。
二十段。
三十段。
どれだけ降りても、
景色が変わらない。
「……」
四百段。
五百段。
六百段。
「おかしい」
健太が、
息を切らす。
「登ったとき、
こんなに長かったか?」
俺は、
答えられない。
そして、
前方に、
看板が見えた。
「……」
看板には、
こう書かれていた。
「あと百段」
健太が、
笑った。
「助かった」
俺は、
看板の裏を見た。
そこには、
古い文字。
「一度目」
「……」
俺は、
背筋が凍った。
「健太」
「何?」
「これ、
一度目って書いてある」
「……」
「何の一度目だ?」
健太が、
答えようとした。
その瞬間。
後ろから、
声。
「二度目」
俺たちは、
振り返らなかった。
---
走った。
階段を下りる。
転びそうになりながら、
走る。
「あと百段!」
健太が叫ぶ。
そして、
看板。
「あと百段」
俺たちは、
通り過ぎる。
だが、
少し進むと、
また看板。
「あと百段」
「……」
さらに。
「あと百段」
さらに。
「あと百段」
同じ看板。
同じ文字。
同じ場所。
「戻ってる!」
健太が叫んだ。
「どうすればいい!」
俺は、
思い出した。
父の言葉。
――帰り道を、
忘れるな。
「……」
俺は、
目を閉じた。
「帰り道……」
父が言った意味。
ずっと、
考えていた。
でも、
今なら分かる。
帰り道とは、
道のことじゃない。
戻る場所のことだ。
俺は、
健太を見る。
「俺たち、
帰る場所を決めないと」
「何?」
「どこへ帰る?」
「……家」
「違う」
「じゃあ?」
「自分が、
最後にいた場所」
---
俺は、
階段に座った。
目を閉じる。
父の病室を思い出す。
白い天井。
消毒液の匂い。
父の手。
最後に聞いた声。
「直人」
「……」
「帰り道を、
忘れるな」
そして、
俺は思い出した。
父が、
最後に指差していたもの。
病室の窓。
外に、
小さな桜の木があった。
父は、
そこへ帰りたかった。
俺は、
涙を流した。
「帰ろう」
立ち上がる。
「どこへ?」
健太が聞く。
「俺の家じゃない」
「じゃあ?」
「親父が、
帰りたかった場所」
---
その瞬間。
階段の上から、
声がした。
「違う」
父の声。
「そこじゃない」
俺は、
振り返らない。
「違うよ」
「……」
「親父が帰りたかったのは、
場所じゃない」
「……」
「俺だ」
静かになった。
父の声が、
消えた。
その代わり、
階段の下から、
大量の声。
「帰れ」
「帰れ」
「帰れ」
俺は、
健太の手を掴んだ。
「走るぞ」
二人で、
階段を下りる。
今度は、
景色が変わった。
木。
雪。
鳥居。
そして、
登山口。
「……」
俺たちは、
地面に倒れ込んだ。
---
夕方。
寺の職員が、
俺たちを見つけた。
「大丈夫ですか?」
俺は、
何度も頷いた。
「はい……」
健太は、
震えている。
「俺たち、
どれくらい山にいました?」
職員は、
不思議そうな顔をした。
「一時間くらいですよ」
「……」
俺たちは、
顔を見合わせた。
体感では、
半日以上だった。
「階段、
何段くらい登りました?」
職員が笑った。
「千段くらいですよ」
「……」
俺は、
スマホを確認した。
写真が残っている。
階段。
雪。
健太。
そして、
最後の一枚。
俺たちが、
登山口に戻った直後に撮った写真。
二人で写っている。
俺と、
健太。
……のはずだった。
写真の後ろに、
誰かがいる。
父だった。
俺の父が、
階段の上から、
こちらを見ている。
笑っている。
俺は、
写真を消そうとした。
そのとき。
画面に、
通知が表示された。
「写真を削除しますか?」
俺は、
「はい」を押した。
すると、
次の瞬間。
別の通知。
「帰り道を保存しました」
「……」
俺は、
スマホを落とした。
---
その夜。
ホテルに戻った。
健太とは、
別々の部屋だった。
午前一時。
眠れなかった。
スマホを見る。
写真フォルダを開く。
削除したはずの写真が、
一枚だけ残っている。
俺と健太。
階段。
父。
そして、
その写真の奥。
もう一人。
誰かが、
立っている。
拡大する。
知らない男。
古い服。
顔は、
よく見えない。
だが、
その男が、
こちらを見ている。
俺は、
写真を閉じた。
その瞬間。
部屋のドアを、
誰かがノックした。
コン。
コン。
コン。
「……」
時計を見る。
午前一時十三分。
コン。
コン。
コン。
「直人」
父の声。
俺は、
布団の中で、
動かなかった。
「直人」
「……」
「帰ろう」
俺は、
目を閉じた。
「帰り道、
分かったか?」
「……」
しばらく、
沈黙。
そして、
父が言った。
「なら、
開けてくれ」
俺は、
答えなかった。
すると、
ドアの向こうから、
別の声。
健太。
「直人!」
「……」
「開けろ!」
「健太?」
「俺だ!」
ドアを開けようとした。
その瞬間。
スマホが鳴った。
健太から。
俺は、
電話に出た。
『直人!』
「健太?」
『今、
ホテルに戻ってきた!』
俺は、
ドアを見る。
「……」
『どうした?』
「お前、
今どこ?」
『部屋』
「……」
『何?』
俺は、
ドアの前を見る。
「今、
俺の部屋の前に、
お前がいる」
電話の向こうが、
静かになった。
『……』
「健太?」
『開けるな』
「……」
『絶対に、
開けるな』
ドアの向こう。
健太の声。
「直人、
開けてくれ」
電話の向こう。
健太の声。
『そいつ、
俺じゃない』
俺は、
ドアから離れた。
「……」
電話の向こうから、
健太が言った。
『さっきから、
俺の部屋のドアも、
誰かが叩いてる』
「……」
『ずっと、
父親の声で』
その瞬間。
俺の部屋のドアが、
静かに開いた。
鍵は、
掛けていた。
チェーンも、
掛けていた。
それなのに、
ドアが、
少しだけ開く。
隙間から、
暗闇。
そして、
声。
「直人」
父の声。
「帰ろう」
俺は、
動けなかった。
その隙間から、
白い手が、
ゆっくり伸びてきた。
俺の足元に、
何かを置く。
石。
階段の石だった。
その石には、
数字が刻まれている。
「1001」
俺は、
息を止めた。
千段では、
終わっていなかった。
あの階段には、
もう一段、
存在していた。
そして、
父の声が、
最後にこう言った。
「最後の階段を、
登っておいで」
ドアが、
閉まる。
俺は、
石を見つめた。
そこに、
新しい文字が、
ゆっくり浮かび上がってくる。
「次は、一人で」
――山形・第一話 終。




