秋田・第三話
帰り道
その山には、
「帰り道」という名前の道がある。
地図には載っていない。
看板にも書かれていない。
ただ、
地元の人間だけが、
そう呼んでいる。
理由を聞いてはいけない。
それが、
この山の決まりだった。
---
「絶対に一人で入るなよ」
そう言ったのは、
山岳ガイドの佐々木だった。
俺は笑った。
「そんな危ない山なの?」
「山が危ないんじゃない」
「じゃあ何が?」
佐々木は、
雪に覆われた山道を見ながら言った。
「帰り道が、
危ない」
俺は、
意味が分からなかった。
---
俺は、
写真家だった。
秋田の雪山を撮影するため、
三日間の予定で、
山に入っていた。
目的は、
人のほとんど来ない場所にある、
古い集落跡。
昔、
十数軒の家があったらしい。
しかし、
雪崩で道が塞がり、
住民は全員、
山を下りた。
今では、
誰も住んでいない。
「廃村を撮影するだけだろ?」
俺が言うと、
佐々木は、
首を横に振った。
「廃村じゃない」
「?」
「人がいなくなった村だ」
「同じじゃない?」
「違う」
佐々木は、
それ以上言わなかった。
---
山へ入った。
雪は深かった。
歩くたびに、
膝まで沈む。
空は曇り。
風もない。
音がない。
自分の呼吸と、
雪を踏む音だけ。
ザク。
ザク。
ザク。
しばらく歩くと、
佐々木が立ち止まった。
「ここから先は、
俺は行かない」
「え?」
「一人で行って」
「案内してくれるんじゃ?」
「ここから先は、
道が変わる」
「道が?」
「うん」
佐々木は、
俺の肩を掴んだ。
「絶対に、
後ろから呼ばれても、
振り返るな」
「誰に?」
「誰でも」
「意味が分からない」
「分からなくていい」
佐々木は、
戻っていった。
俺は、
一人になった。
---
一時間ほど歩く。
雪の中に、
古い電柱が見えた。
「……」
こんな場所に、
電柱?
近づく。
電線はない。
電柱だけが、
何本も続いている。
その先に、
古い家。
さらに、
もう一軒。
そして、
もう一軒。
「……」
村だった。
地図にはない。
完全に雪に埋もれている。
俺は、
カメラを取り出した。
シャッターを切る。
パシャ。
その瞬間。
背後から、
声がした。
「何してるの?」
俺は、
振り返らなかった。
佐々木の言葉を思い出した。
――後ろから呼ばれても、
――振り返るな。
「……」
声が、
もう一度。
「ねえ」
今度は、
女性。
「写真、
撮ってるの?」
俺は、
無視した。
「……」
声が、
近づいてくる。
雪を踏む音。
ザク。
ザク。
ザク。
俺の背後で、
止まった。
「ねえ」
耳元。
「私、
写ってる?」
俺は、
シャッターを切った。
パシャ。
そして、
走った。
---
村の奥へ。
家が並んでいる。
どれも、
古い。
窓は割れている。
屋根は、
雪で潰れている。
しかし、
一軒だけ。
玄関に、
明かりがついていた。
「……」
俺は、
近づいた。
誰か住んでいる?
玄関をノックする。
コン。
コン。
返事がない。
もう一度。
コン。
すると、
中から、
声。
「どうぞ」
女性の声。
俺は、
ドアを開けた。
中は暖かかった。
ストーブが燃えている。
畳。
ちゃぶ台。
湯気の立った鍋。
そして、
女性が一人。
「どうぞ」
女性は、
笑った。
「寒かったでしょう」
「……はい」
「座って」
俺は、
座った。
「ここには、
人が住んでるんですか?」
女性は、
笑うだけだった。
「あなた、
帰るところはある?」
「あります」
「本当に?」
「はい」
「家族は?」
「います」
「名前は?」
「……」
俺は、
なぜか答えたくなかった。
「どうして?」
女性は、
鍋をかき混ぜながら、
言った。
「帰るために、
必要だから」
---
俺は、
立ち上がった。
「もう帰ります」
女性が、
こちらを見る。
「外は、
暗くなってるよ」
窓を見る。
確かに、
外は真っ暗だった。
「……」
「泊まっていけば?」
「いえ」
「ここなら、
怖くないよ」
女性は、
笑っている。
「帰り道が、
分からなくなるから」
俺は、
玄関へ向かった。
女性が、
言った。
「一つだけ、
教えてあげる」
「何ですか?」
「帰り道を探すとき、
絶対に、
自分の名前を呼ばないで」
俺は、
振り返った。
「どうして?」
女性は、
笑った。
「帰り道が、
あなたを見つけるから」
---
外へ出た。
雪。
暗闇。
俺は、
スマートフォンを見る。
圏外。
GPSも、
動かない。
「……」
来た道を戻る。
だが、
おかしい。
村が、
ない。
「……」
振り返る。
家。
さっきまであったはずの家が、
全部消えている。
「……嘘だろ」
雪原だけ。
電柱もない。
道もない。
俺は、
焦った。
「佐々木!」
叫ぶ。
返事はない。
「佐々木!」
風が吹く。
そして、
遠くから。
「……直人」
俺は、
凍った。
俺の名前。
誰かが、
呼んだ。
「直人」
また。
俺は、
口を閉じた。
自分の名前を、
呼び返してはいけない。
だが、
声の主は、
俺の知っている人だった。
母親。
「直人」
俺は、
立ち止まった。
母は、
数年前に亡くなっている。
「直人、
帰っておいで」
「……」
「寒いでしょう」
俺は、
泣きそうになった。
「お母さん……?」
口に出した瞬間。
雪の中から、
大量の声が返ってきた。
「お母さん」
「お母さん」
「お母さん」
「お母さん」
何十人もの声。
俺は、
口を押さえた。
遅かった。
---
雪の中に、
足跡が現れた。
俺の前に、
一本。
そして、
その足跡が、
俺の後ろへ続いていく。
まるで、
誰かが、
俺の足跡を逆向きに歩いている。
ザク。
ザク。
ザク。
後ろから、
足音。
俺は、
振り返らない。
「直人」
母の声。
「振り返って」
「……」
「お母さんだよ」
俺は、
目を閉じた。
「お願い」
「……」
「顔を見せて」
その声が、
突然、
別の声に変わった。
妻の声。
「あなた」
次に、
娘の声。
「パパ」
そして、
俺自身の声。
「直人」
「……」
「振り返れ」
俺は、
走った。
---
どれだけ走ったか、
分からない。
やがて、
木の看板が見えた。
「帰り道」
俺は、
立ち止まった。
「……」
看板の矢印が、
右を向いている。
その先に、
道がある。
「帰れる……」
俺は、
進んだ。
雪道を歩く。
しばらくすると、
見覚えのある場所。
駐車場。
車。
そして、
佐々木が立っていた。
「直人!」
俺は、
駆け寄った。
「佐々木さん!」
「無事だったか!」
「はい!」
「何があった?」
俺は、
話した。
村。
女。
母の声。
帰り道。
佐々木は、
黙って聞いていた。
そして、
最後に、
こう言った。
「……お前、
誰と一緒に歩いてきた?」
「え?」
「さっきから、
お前の後ろにいるだろ」
俺は、
振り返った。
誰もいない。
「……いませんよ」
佐々木が、
青ざめる。
「いる」
「どこ?」
「お前の、
すぐ後ろ」
俺は、
ゆっくり振り返った。
誰もいない。
ただ、
雪の上に、
足跡。
俺のもの。
そして、
その隣に、
もう一人分。
佐々木が、
小さな声で言った。
「……帰ってきたな」
「何が?」
「お前じゃない」
---
俺は、
意味が分からなかった。
「どういうことです?」
佐々木は、
答えない。
「車に乗れ」
「はい」
俺は、
車へ向かった。
だが、
佐々木が、
突然、
俺の腕を掴んだ。
「待て」
「何ですか?」
「お前、
自分の名前、
言ったか?」
「……」
俺は、
思い出した。
村で。
母の声を聞いたとき。
「お母さん……?」
そう言った。
「それだけです」
佐々木は、
顔を覆った。
「……終わった」
「何が?」
「お前、
帰り道を呼んだ」
---
俺は、
笑った。
「何ですか、
それ」
「笑うな」
佐々木は、
真剣だった。
「この山の帰り道は、
道じゃない」
「じゃあ?」
「人間だ」
「……」
「帰り道という名前の、
何かがいる」
---
俺は、
車に乗った。
エンジンをかける。
佐々木も、
助手席に乗る。
「早く、
山を下りよう」
「分かりました」
車を走らせる。
雪道。
ライトに照らされる白い世界。
十分。
二十分。
三十分。
しかし、
山を下りない。
「……」
「おかしい」
佐々木が言った。
「もう、
麓のはず」
俺は、
ブレーキを踏んだ。
道路脇に、
看板。
「帰り道」
「……」
俺たちは、
同時に、
顔を見合わせた。
「さっきも見た」
佐々木が言った。
「同じ場所を、
回ってる」
「……」
そのとき。
後部座席から、
声。
「お帰り」
俺は、
アクセルを踏んだ。
佐々木が、
振り返る。
「見るな!」
だが、
遅かった。
後部座席に、
女性が座っている。
あの家の女。
そして、
その隣に、
もう一人。
母。
「……」
母が、
俺を見る。
「直人」
「……」
「帰ってきたね」
俺は、
目を逸らした。
「お母さん……」
佐々木が、
叫ぶ。
「名前を呼ぶな!」
俺は、
口を閉じた。
母が、
笑う。
「どうして?」
「……」
「私は、
あなたのお母さんでしょう?」
俺は、
何も言わない。
すると、
母の顔が、
ゆっくり変わった。
皮膚が、
雪のように白くなる。
目が、
黒くなる。
口が、
耳まで裂ける。
「違う?」
俺は、
震えた。
「じゃあ、
誰?」
---
車が、
突然止まった。
エンジンが、
消える。
外は、
真っ暗。
佐々木が、
震える手で、
ライトをつける。
前方に、
家。
一軒。
俺が、
さっき入った家。
「……」
佐々木が、
呟く。
「戻された」
「どうするんです?」
「逃げる」
「どこへ?」
佐々木は、
ドアを開けた。
「どこでもいい」
俺も、
降りる。
だが、
佐々木が、
突然、
叫んだ。
「走れ!」
二人で、
雪の中を走る。
後ろから、
大量の足音。
ザク。
ザク。
ザク。
ザク。
振り返らない。
絶対に。
「直人!」
佐々木が、
叫ぶ。
「振り返るな!」
俺は、
走った。
そして、
気づいた。
佐々木の声が、
後ろから聞こえている。
俺の隣に、
佐々木はいない。
「……」
俺は、
立ち止まった。
「佐々木さん?」
返事がない。
後ろを見る。
誰もいない。
雪原。
そして、
一つの足跡。
俺の足跡。
その隣に、
佐々木の足跡。
さらに、
もう一つ。
俺の足跡。
三本。
俺は、
理解できなかった。
---
夜が明けた。
俺は、
山道で発見された。
一人だった。
救助隊によると、
俺は、
登山口から二キロしか離れていなかった。
「一晩、
何をしていたんですか?」
俺は、
説明した。
村。
家。
女性。
佐々木。
だが、
救助隊員は、
不思議そうな顔をした。
「佐々木さん?」
「はい」
「誰ですか?」
「ガイドの佐々木さんです」
「この山に、
佐々木というガイドはいません」
「……」
「あなた、
一人で来たんですよ」
俺は、
首を横に振った。
「違います」
「じゃあ、
誰と?」
俺は、
答えようとした。
その瞬間。
頭の中に、
一つの疑問が浮かんだ。
佐々木の顔。
思い出せない。
声は分かる。
名前も分かる。
でも、
顔だけが、
どうしても思い出せない。
---
病院へ運ばれた。
検査を受ける。
異常なし。
その日の夕方。
妻が、
迎えに来た。
「あなた……」
俺は、
妻を見て、
安心した。
「美香」
妻が、
泣きながら抱きつく。
「無事でよかった」
「ごめん」
「何があったの?」
俺は、
全部話した。
妻は、
黙って聞いていた。
そして、
最後に、
一つだけ聞いた。
「その山、
どこ?」
「……」
俺は、
答えた。
妻の顔が、
変わった。
「そんな山、
ないよ」
「何言ってる?」
「あなた、
昨日からずっと、
病院にいたんだよ」
「……」
「撮影に行くって、
家を出たのは、
三日前」
俺は、
混乱した。
「三日前?」
「うん」
「俺、
山に行った」
「行ってない」
「写真は?」
俺は、
カメラを探した。
カメラは、
あった。
中を見る。
昨日撮った写真。
雪山。
古い家。
廃村。
女性。
母。
佐々木。
そして、
最後の一枚。
俺自身が、
写っている。
雪の中。
一人。
だが、
俺の後ろに、
大量の人間が立っている。
何十人。
全員、
こちらを見ている。
そして、
写真の一番後ろ。
俺のすぐ後ろに、
女性が立っている。
あの家の女。
その女が、
手を伸ばしている。
俺の肩に。
---
その写真を、
拡大した。
女性の口元が、
見える。
何か言っている。
俺は、
唇の形を読む。
「帰ろう」
その瞬間。
病室の窓を、
何かが叩いた。
コン。
コン。
コン。
俺と妻は、
窓を見る。
四階。
外には、
何もない。
また。
コン。
コン。
コン。
妻が、
怯える。
「……何?」
俺は、
答えられない。
すると、
窓ガラスに、
白い指が、
一本だけ現れた。
内側から。
そして、
指で、
文字を書く。
「帰り道」
俺は、
叫びそうになった。
その瞬間。
病室のドアが開いた。
看護師が入ってくる。
「どうしました?」
俺は、
窓を指差した。
「今、
そこに……」
看護師は、
窓を見る。
「何もありませんよ」
「でも!」
看護師は、
不思議そうな顔をする。
そして、
俺の妻を見る。
「……この方、
どなたですか?」
「妻です」
「……」
看護師が、
首を傾げる。
「奥様なら、
先ほどから廊下にいますけど」
俺は、
隣を見る。
妻がいる。
「……」
看護師が、
もう一度、
廊下を見る。
「では、
この方は……?」
俺は、
ゆっくり、
隣にいる女を見る。
妻と同じ顔。
妻と同じ声。
そして、
同じ笑顔。
女が、
俺の耳元で、
囁いた。
「帰ろう」
俺は、
ようやく理解した。
あの山から、
帰ってきたのは、
俺じゃない。
**「帰り道」が、
俺の姿をして、
帰ってきたのだ。**
そして、
本物の俺は、
まだ、
あの山にいる。
雪の中。
あの村で。
帰り道を、
待っている。
――秋田・第三話 終。




