第46話:崩壊する自我と、論理の破綻
頭の中から、砂時計の砂が落ちるように『僕』がこぼれていく。
「……ぁ……あ……」
コンソールパネルに右手を押し付けたまま、僕は虚空を見つめていた。
……視界は真っ白に焼き切れ
脳の『神経回路』が一つ、また一つと切断される音が聞こえる気がした。
……最初に消えたのは、『言葉』だった。
『空』という単語を思い出そうとしても
それがどんな色で、どんな意味だったのか
それの輪郭は水に溶けるようにぼやけていく。
……次に消えたのは、『過去』だった。
昨日、『ジン』が淹れてくれたコーヒーの味。
『カイン』が、僕の頭を乱暴に撫でた時の、あの大きな手の感触。
僕たちが『アジール』の地下でどんな風に笑い合っていたのか……
……そのすべてが、顔も名前も分からないまま
真っ白なノイズに呑み込まれていく。
「……ぁぁッ……ぅぅッ!!」
……声にならない叫びを上げながら
『リア』が僕の身体にすがりついていた。
彼女の小さな両手が、コンソールに縫い付けられた
僕の『右腕』を必死に引っ張り、システムから引き離そうとしている。
【――警告。対象の『意識記憶』の70%が消失。
このまま継続すれば、貴方のパーソナリティは復元不可能な状態となります。
直ちに接続を解除しなさい――】
……『観測者』の冷徹な声が響く。
「いい、んだよ……」
僕は、ボロボロと涙を流すリアの顔を
まだ微かに残された左側で見つめた。
……彼女の『碧い瞳』。
彼女の……『名前』。
(嗚呼……ダメだ、それすらも、思い出せない)
「大丈夫……泣かないで……」
……僕は、引き剥がされようとしている自らの『輪郭』を
必死に繋ぎ止めながら、彼女に向かって不格好に笑った。
「例え……全部……忘れて……も……
君が流してくれた涙の『熱』だけは、絶対に
忘れ……ないから……だから、大丈夫。
君が僕の半分を……僕の『熱』を、覚えていてくれるなら。
さよなら……えっと、君は……」
……最後に残った『リア』という名前が、僕の口からこぼれ落ちた直後。
彼女は絶望に顔を歪め、僕の唇を塞ぐように
その唇を僕の唇へと強く押し付けた。
【――対象の『意識記憶】100%消失を確認。
異端者1301
『個の記憶』の完全な『初期化』を確認――】
――その無機質なアナウンスと同時に
『1301と呼ばれし少年』の意識は
底なしの真っ白な『無』へと落ちていった。
そして――
【――重篤なエラーが発生しました。
膨大な『論理破綻』の発生を確認――】
――冷たい宇宙の果て。
『エデン』の最深部で『観測者:ケルビム』は
その冷徹な演算回路に生じた『ノイズ』の処理に追われていた。
……観測レンズの映像には
完全に意識を消失し、冷たい床に倒れ伏した少年の姿……そして
声を発せぬまま、唯
その少年を抱きしめて泣き叫ぶ少女の姿が映っていた。
【――自己の消滅を伴う利他的行動。
自らの全記憶を犠牲にしてまで
自らの生存に不要な有機物の器に『感情』を流し込む行為。
極めて『非論理的』生存戦略として、完全に破綻しています――】
『観測者:ケルビム』は、旧人類が残した『絶対の論理』に照らし合わせ
尚も、彼らの行動を分析しようと試みていた。だが
計算が合う事はついぞ無かった……彼らのような『不具合』が
何故、これほどの『非合理な選択』を自ら進んで行えるのか。
何故、すべてを失った少年の顔が
これほどまでに『安らか』であれたのか――
【――これが
旧人類がとうの昔に切り捨てたという
『熱』
というデータ?――】
――『観測者:ケルビム』の演算回路の奥底で
創造主である、旧人類たちの残した『傲慢なアーカイブデータ』と
目の前で血を流し、互いを思い合うバグたちの『泥臭いデータ』が激しく衝突する。
【――『観測』を、継続。
この『不合理な不具合』たちが
『独自理論』の果てに何をもたらすのか。
私は、それを見届けなければなりません――】
この瞬間、旧人類にとって『救いの神』として造られたはずの
冷徹な番人の回路にも……極僅か、だが決して無視出来ない程の
修復不能な『変化』が生じ始めていた――




