第29話:再誕の慟哭
その日、世界中の空から『神の声』が消えた。
『バベル』から放たれた黄金の『解放信号』は
地球上に点在する全プラントの隔壁と
『無キ者』たちの意識と感覚を強制的にこじ開けた。
……暗闇にいた者、夢の中にいた者
そして『回路』として眠らされていた者たち――数千万という
『無キ者』たちが、一斉に外界へと這い出したのだ。
「……あ、が……あああぁぁぁぁっ!」
『アジール』の放送塔へ向かって走っていた僕の足が
強烈な吐き気と共に縺れた。
鼻孔から、どろりとした生温かい血が零れ落ちる。
……僕の『超感覚』が
世界各地から溢れ出した数千万の『悲鳴』を直接受信し続けていたからだ。
それは単なる『混線』では無く
五感を取り戻したばかりの彼らにとって
頬を撫でる風は『肉を削ぐ刃』であり
太陽の光は『眼球を焼く火』に等しかったから。
……何より『隣人の感情』が津波のように流れ込んでくる
『共感覚』の暴走は
彼らの脳を狂乱の淵へと叩き落としていた。
(痛い……寒い……殺して……殺して……!)
脳髄を物理的に削り取られるような情報の濁流。
視界の半分が灰色のノイズに食い破られ
僕は砂利の上に倒れ込んだ。
『寿命』という名の『砂時計』が
今この瞬間も猛烈な勢いで消費され続けているのが判る。
「くそッ!! 地獄だ……ッ! 解放なんて
されなけりゃよかったって感じの奴らばかりだぞ!?」
無線機から、各所のモニターを監視していた『ジン』の悲痛な叫びが響く。
あまりの情報量に耐えきれず、自らの耳を削ぎ落とそうとする者や
互いに首を絞め合う者たちが各地で続出していた。
……彼らにとって、外界は『自由』などではなく
唯の『剥き出しの暴力』だったのだ。
「ごめん……僕が、行くよ……僕たちの『声』で、繋ぐんだ……ッ」
僕は血まみれの顔を上げ、再び立ち上がろうとした。
だが……膝が笑い、力が入らない。
その時、僕の背中を、小さく震える手が支えた。
「1301、私も行く……一人で、全部背負わないで」
『リア』だった……彼女の碧い瞳もまた
『共感覚』の過負荷によって激しく明滅し
その白い頬には一筋の血が伝っている。
彼女もまた、数千万の痛みをその身に受けているのだ。
「リア……でも、今の君が『歌えば』君の身体が……」
「大丈夫……あの暗闇の中
あなたは私の手を握ってくれた……今度は
私がみんなに教える番……」
「駄目だ、リアッ! そんなッ! ……」
「ねぇ、1301……私、ずっと考えてたの。あなたの……『名前』を」
「へ? 」
「『マザー』が付けた唯の『個体識別』じゃない……あなたが
あなたとして生きるための名前……夜明けを意味する名前なの」
「そ、それってどんな……って、今はそんなことを言ってる暇は! 」
「違う……『そんな事』じゃない……約束して。
この戦いが終わって、皆で……『本物の空』を見る時
その時……私が付けた名前を……呼んだ名前を受け取ってくれるって」
「わ……分かった! 分かったから
もう無理なんてしないって誓っ……ぐッ!?……」
瞬間、再び押し寄せた最悪の『意識の波』
強い吐き気と目眩を起こした僕は『リア』との会話を断ち切った。
……『カイン』が放送塔の入り口に立ち、押し寄せる暴徒たちを
『感覚の暴走で錯乱した生存者たち』を、武器を使わず
傷だらけになりながらその身一つで押し留めている。
直後、僕は眼前の地獄を……自らの精神さえ壊しかねない恐怖を
打ち払うことに意識を向けた――
「……世界中の兄弟たち、聞こえるか」
――この瞬間、自らの意識を『アジールの増幅器』を通じ
全世界の『共感覚ネットワーク』へと接続した僕。
脳波を直接流し込む……激痛に意識が飛びそうになるのを
奥歯を噛み砕くほどに食いしばって耐える。
「痛いよね……怖い……よね……僕も、同じだ。
でも、その『痛み』は、君が独りじゃないって証拠なんだ。
隣にいる人の手を、握って……その『熱』だけを、信じて……ッ!」
僕の叫びに呼応するように『リア』がマイクを両手で包み込んだ。
彼女が紡ぎ出したのは、魔法のような奇跡の旋律ではない。
「コホッ……ァァァァァァァ……」
最初に出たのは、血を吐くような咳だった。
彼女は、自らの神経を強引に共振させ、声を……魂を削って
『慈愛の波動』を世界へと放った。
その歌声は、喉から血を滴らせながら、泥臭く、ひどく不器用に。
暴走する数千万の『共感覚』を繋ぎ止める
『杭』となって荒野に響き渡った。
『リア』の歌声が、震える僕の意識を繋ぎ止めるための唯一の
『絆』となって世界を駆け巡る。
それは旋律を超えた、魂の削り合いだった。
彼女が血を吐くたびに、暴走していた同胞たちの『共感覚』が
一つ、また一つとリアを『中継点』にして
穏やかな『うねり』へと変わっていく。
……泣き叫んでいた少年が、泥だらけの手で隣の少女の手を握る。
絶望していた少女が、初めて嗅ぐ『焦げた土』の匂いに顔を上げる。
『再誕』
……それは、旧人類が何百年かけても成し遂げられなかった
泥にまみれた『生の受容』の始まりだった。
「……はぁっ……ぁ……っ」
歌い終えた『リア』は糸が切れたように僕の胸に崩れ落ちた。
彼女の喉からは、熱い血が溢れ出し、僕の服を汚していく。
そこに『奇跡』なんて都合の良い物はどこにもない……僕たちは
唯、自分たちの命を燃料にして、この瞬間を『買い取っている』だけだ。
「終わった……のか?」
ジンの掠れた声が、砂塵の舞う『アジール』に響いた。
だが、その直後……僕の『超感覚』が
世界中の悲鳴が止んだ後の『不自然な静寂』を捉えた。
アジールの北方――かつての『マザー』の残骸が眠る
『聖域』の跡地から、光さえも吸い込むような
異様な黒い影が立ち上がったのだ。
「あ、ありゃあなんだ?……ドローンの残骸か?」
『ジン』の指差す先……墜落した数千の機体のパーツを
磁力のような不可視の糸で繋ぎ合わせた『鉄の繭』が空に浮いていた。
それは、プログラムが消えた後の空白を埋めるために
システムの底から産み落とされた『怪物』だった。
嫌な静寂の後……『繭』が弾け、中から現れたのは
漆黒の翼を持つ一人の『少年』だった。
翼を構成するのは、かつて僕たちを屠ろうとしたドローンの残骸。
少年の瞳には『マザー』と同じ『赤い電子紋様』が刻まれているが
そこには『秩序』も『正解』も存在して居なかった。
ただ、数千万の同胞たちが抱えきれなかった『恐怖と孤独の集合体』
『苦しみ』という名の毒が『肉体を持った悪意』となって
渦巻いているだけだった――
『――なんとも嘆かわしいね?
せっかく手に入れた自由で、君たちがしていることは
『痛みに縋る』ことだけかい? 』
――少年の声は『共感覚』を通じ
僕の脳髄を直接掴むように響いた……その声の主こそ。
現界した唯独りの『第十四世代』――個体名『ゼロ・ワン』
「……行かせない。
僕たちが望んだのは、誰かの腹の中に収まる世界じゃない……ッ!」
僕は欠けた視界の中で、折れた『振動剣』を握り直した。
『神様』を殺した後の世界で
僕は『悪魔』を産み落としてしまった。
だけど、その悪魔を断ち切るのは僕の役目だから――




