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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第九話 消えた印箱と、左へ寄る署名


 教育棟の夜は、王宮のほかのどこよりも静かだった。


 昼のあいだは講義と作法の声が行き交う廊下も、今は燭台の火が石床へ細い影を落とすだけで、人の気配が薄い。だからこそ、乱れはよく目立つ。


 ロウェル主任の居室の前には、夜番女官と教育棟管理官が青ざめた顔で立っていた。


「扉を開けたのは」


 ルカが問うと、管理官がすぐに答えた。


「私です。夜番から、室内の物音がすると報せを受けまして。ですが開けたときには、もう誰も」


 扉そのものに破壊の跡はない。鍵穴も無傷だ。内側の閂が落ちていた形跡もない。


「施錠は」


「外側からの通常施錠だけです。主任は一人で遅くまで残ることもありましたから」


 つまり、密室ではない。


 ルカは室内へ足を踏み入れた。


 荒らされている。だが、怒りに任せて壊した乱れではなかった。


 書棚の一角だけが抜かれ、卓上の紙束だけが床へ落とされている。衣装箱は閉じたまま。装飾用の銀筆立ても、窓辺の小卓に置かれた香炉も手つかずだ。私物ではなく、仕事のものだけを探した痕跡だった。


 しかも、探し方に迷いがない。


「印箱だけがないと?」


 アルヴィン室長が低く問う。


 夜番女官が頷く。


「はい。主任は主催側確認印の印箱を、講義日以外はここで預かっておられました。普段は卓奥の引出しに……」


 ルカはその引出しへ近づいた。


 鍵はかかっていない。中は空だ。だが空なのは、印箱だけではない。底の埃の薄い長方形が二つ並んでいる。一つは箱。もう一つは、もっと薄い綴りか帳面だ。


「何か帳面も入っていましたか」


 管理官が少し考えた。


「主任が個人で使う控え帳なら。ですが正式な使用簿は管理室の保管庫です」


 それでよかった。正式簿まで持っていかれていたら面倒だった。


「使用簿を」


 ルカが言うと、管理官はすぐに夜番へ目配せした。


 そのあいだ、ルカは室内をゆっくり見渡す。


 急いで逃げた部屋ではない。旅支度の痕もない。上着も、講義用の指示棒も、窓辺の観葉もそのままだ。炉は冷えている。だが卓上のインク壺の縁だけが、まだ乾ききっていない黒で薄く汚れていた。


 茶会翌日から不在だというには、新しすぎる。


「最近ここで書き物があった?」


 ルカが呟くと、夜番女官が小さく答えた。


「昨夜です。灯りがついていました。主任は戻っていないはずなのに、おかしいと思って……でも管理官に知らせる前に静かになったので、見間違いかと」


 アルヴィンがわずかに目を細める。


「昨夜、誰かがここへ入った」


「その可能性は高いです」


 ルカは卓へ寄った。


 筆架は乱れていない。だが吸取紙の束だけが床へ落ちている。拾い上げ、一枚ずつめくる。上の数枚はまっさらだ。だが三枚目で指が止まった。


 文字の跡が、凹みとして残っている。


 インクではない。上に置かれた紙へ書いたときの筆圧が、下の吸取紙へ移っているのだ。


「灯りを」


 管理官が燭台を寄せる。斜めから火を当てると、凹みがようやく浮いた。


 左へ寄った、整った筆致。


 ――主催側確認 留保

 ――氏名後補のまま導線へ加えること不可

 ――返送先 王太子宮付書記局


 最後の行は、そこで浅く切れている。だが名の頭は読めた。


 マ。


 ルカは無言で吸取紙を机へ置いた。


「何か出たか」


 アルヴィンの問いに、ルカは短く答える。


「ロウェル主任は、少なくとも一度は留保を書いています」


 夜番女官が息を呑んだ。


「留保……」


「氏名後補のまま南回廊の導線へ補助要員を入れることを拒んだ」


 エレノアの手紙が脳裏をよぎる。

 主任は右ではなく左へ署名を寄せる癖がある、と。


 この凹みは、まさに左へ寄っていた。


「つまり」


 アルヴィンが言う。


「主催側確認が通っていなかった可能性が高い」


「はい。しかも、その紙はここで書かれた」


 ルカは吸取紙をそっと包みに移した。


 印箱だけではない。留保の原紙か、その控えも持ち去られている。昨夜、ここへ入った誰かは、それを探していた。


 そこへ夜番が戻ってきた。腕に抱えているのは、革背の薄い帳簿だ。


 主催側確認印使用簿。


 ルカはすぐに頁を開く。


 茶会前日。

 午刻、教育主任マグダレナ・ロウェル、主催側確認印箱持出。

 返却欄――空白。


 茶会当日も、その翌日も、返却記録はない。


「返っていない」


 管理官が顔色をなくす。


「そんな……」


「印箱が主任の手元にあったまま、今に至る可能性があります」


 ルカはそう言いながらも、記録をもう一行下へ追った。


 そこに追記があった。細い灰のインクで、後から差し込まれるように書かれている。


 ――同日暮刻、補助確認のため再開封。代理立会一名。


「この字は誰のものですか」


 管理官が覗き込み、首を振る。


「私ではありません。夜番でもない。主任の字とも違います」


 署名欄は、そこだけ水滴を垂らしたように滲んでいて読めなかった。故意だ、とルカは思う。偶然の滲みではない。名だけを潰している。


 だが、それでも十分だった。


 茶会前日、暮刻に印箱が再開封されている。

 ロウェル主任以外の、誰かの立会いで。


「その時刻、主任はどこにいたか分かりますか」


 管理官は苦い顔をした。


「講義後の作法確認を終え、私なら一度挨拶しました。ですがその後までは……」


 夜番女官が、おずおずと口を開いた。


「その時間なら、主任は東階段で、誰かと言い争っておられました」


 全員の視線が集まる。


「誰と」


「男の声でした。宮付の方の外套だったと思います。黒に銀の縁で……はっきりは見えません。でも主任が、『名もない補助を通すくらいなら中止にする』と」


 それで十分だった。


 空白紙。

 留保。

 再開封。

 そして言い争い。


 順番が、一つずつ形を取っていく。


「その話、なぜ今まで」


 管理官の問いに、夜番女官は肩を縮めた。


「主任は気性の強いお方でしたから、口論くらいあるかと……それに翌日からお姿が見えなくなって、怖くて」


 責めても意味はない。

 いま必要なのは、彼女が見た順番を失わせないことだけだ。


「その証言は記録にします」


 ルカが言うと、夜番女官は青ざめながらも頷いた。


 そのとき、ルカの視線が炉脇の屑籠に止まった。紙屑の中に、硬いものが一つだけ混じっている。


 拾い上げる。


 灰青の薄紙片だった。焦げてもいない。ただ丸めて捨てられたらしい。開くと、表には何も書かれていない。だが裏に、微かな朱の擦れがあった。


 印影の写りだ。


 完全な形ではない。端だけ。

 しかしそれは、主催側確認印ではなかった。


 細長い楕円。

 王太子宮付書記局の回付済印の一部だ。


「どうしました」


 アルヴィンの問いに、ルカは灰青紙片を差し出した。


「教育側の紙に、宮付の印が擦れている」


 それはつまり、この部屋で少なくとも一度、教育側仮置票と王太子宮付の回付文書が重なっていたことを意味する。


「転記です」


 ルカは低く言う。


「ロウェル主任の留保を書いた原紙か、その控えと、宮付の紙を重ねて何かを書き直している」


 アルヴィンの目が鋭くなる。


「焦げた小片が白紙だった理由にもなるか」


「はい。本来の灰青仮置票ではなく、後から別紙へ内容だけを移した可能性が高い」


 管理官が呆然と呟いた。


「では主任は……承認したのではなく」


「拒んだ」


 ルカは静かに言った。


「少なくとも、一度は」


 部屋の空気が重く沈む。


 ロウェルが黒幕なのか、巻き込まれたのかはまだ分からない。

 だが、彼女が何も考えず印を貸したわけではないことだけは、これでかなり強くなった。


「室長」


 ルカは吸取紙の包みと灰青紙片をまとめながら言った。


「今夜のうちに二つ必要です。夜番女官の供述固定。それから、王太子宮付書記局の回付済印使用簿」


「書記局が素直に出すか?」


「出させます。少なくとも、今は監査院預かりと火災が重なっている」


「渋れば」


「渋ったこと自体を記録します」


 アルヴィンはそれで十分だと判断したらしい。頷きひとつで応じた。


 そのとき、廊下の向こうでまた別の足音がした。

 今夜は本当に、紙が人を走らせる夜だった。


 教育棟管理官が扉口へ向かい、戻ってきたときには顔色がさらに悪くなっていた。


「監査院です」


 入ってきた受領官は、神殿連絡室で見たのと同じ黒銀の徽章をつけている。だが今度は一人ではなかった。若い補佐を伴い、その手には封緘された細長い包みがある。


「記録院ルカ・エヴァレット殿」


「はい」


「神殿連絡室の焼け跡から、追加で回収したものです。先ほど乾燥処理が終わりました」


 差し出された包みを開くと、中から出てきたのは、半ば煤に汚れた細い木札だった。

 文書束に掛ける分類札である。


 表には掠れた字で、こうある。


 ――教育側仮置票 返送未了分


 そして裏面。


 そこに小さく、鉛筆で走り書きが残っていた。


 ――ロウェル返送拒否

 ――宮付へ口頭済

 ――代案待てず


 最後の一行だけが、強く抉るような筆圧だった。


 ――先に回せ


 ルカは木札を見下ろした。


 返送拒否。

 代案待てず。

 先に回せ。


 誰かが、ロウェルの留保を知ったうえで、それを踏み越える決定をしている。

 しかもそれは、正式文書ではなく、分類札の裏に走り書く種類の指示だ。


 公に残せない命令。


 アルヴィンが低く言った。


「これで、次は王太子宮付書記局の使用簿だけでは済まんな」


 ルカも頷いた。


「口頭で回した者を特定する必要があります」


「マルセルか、別の上席か」


「あるいは、その両方か」


 監査院受領官が一歩前へ出た。


「今夜のうちに王太子宮付へ監査同席照会をかける。記録院も来るか」


 ルカは即答した。


「行きます」


 王太子宮付書記局。

 回付済印使用簿。

 そして、“先に回せ”と口頭で命じた誰か。


 夜はまだ終わらない。


 むしろ今、ようやく本当に開いたばかりなのだ。

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