第十話 回付済印の使用簿は、口頭命令を嫌う
王太子宮付書記局の夜は、教育棟のそれとは違う緊張を帯びていた。
こちらは講義の静けさではない。
呼び出し、差し替え、回付、催促。そうした紙の往来が、ようやく一段落したあとの静けさだ。机の上には整理された束が残り、蝋の匂いと乾いた砂の匂いが、まだ空気の底に沈んでいる。
監査院の受領官を先頭に、ルカとアルヴィンは書記局の奥へ通された。
夜分にもかかわらず、灯りは落ちていない。むしろ今の時刻だからこそ、消せない紙があるのだろう。整然とした棚、鍵付きの引出し、壁際の印箱棚。そのどれもがきちんとしていて、きちんとしているぶんだけ、ここで生まれる乱れは人の手によるものだとよく分かる。
応対に出たのは、昼間会ったマルセル・ドーレンだった。
昼よりも疲れて見える。だが崩れてはいない。王太子宮付の上席書記官として、今はむしろ崩れていないこと自体が役目なのだろう。
「監査院同席照会、承っています」
そう言って一礼する仕草にも乱れはない。
「確認したいのは、回付済印使用簿と、茶会前日の急ぎ文書持出票です」
ルカがそう告げると、マルセルは目を伏せるでもなく、そのまま頷いた。
「ご用意しました」
すぐに出る。
つまり、隠しきれないともう分かっているのだ。
長机へ置かれたのは二冊の簿冊と一箱の砂壺記録帳だった。
回付済印使用簿。
急ぎ文書持出票。
そして、青砂の払出票。
ルカはまず回付済印使用簿を開いた。
茶会前日。
午刻、通常回付二件。
昼刻、聖女関連嘆願書写し一件。
暮刻前、茶会雑務補助仮付照会――印使用。
担当、マルセル・ドーレン。
そこまでは、予想の範囲だった。
だが、その一行の脇に細く追記がある。
――再回付、口頭補足あり
――補記者 R
ルカの指が止まる。
「Rとは」
マルセルが少しだけ口を引き結んだ。
「レナート・セルヴィスです」
知らない名ではない。
王太子宮付書記局次席。マルセルより一段上で、王太子の日々の面会順と急ぎ回覧の差配を扱う人物だ。公にはあまり前に出ないが、紙の流れを知る者なら名くらいは知っている。
「再回付とは」
ルカが問う。
「通常なら、茶会雑務補助仮付照会は神殿連絡室へ一度送ったきりで済みます」
マルセルは使用簿を見ながら答えた。
「ですがその日は、夕刻にいったん戻されました。教育側確認未了につき仮置、という扱いで」
教育棟で拾った焦げた木札の文言と符合する。
「その後、再回付された」
「はい。口頭補足あり、という形で」
「その“口頭補足”は誰が」
マルセルは今度こそすぐには答えなかった。
監査院受領官が低く言う。
「今夜は、答えぬこと自体が記録になる」
それで決まったらしい。マルセルは息を一つ吐いた。
「レナート次席です」
室内が少しだけ冷えた。
王太子宮付書記局の中で、“先に回せ”と言える位置にいる人間。少なくとも、その輪郭が一つ具体名を持った。
「命令内容は」
「主催側確認は追って整える。紙だけ先に回せ、と」
木札裏の走り書きが、頭の中で重なる。
返送拒否。
代案待てず。
先に回せ。
言葉の硬さこそ違うが、意味はほぼ同じだ。
「その時点で、教育側の留保は把握していましたか」
ルカの問いに、マルセルは目を伏せた。
「留保の存在までは、はっきりとは」
「はっきりとは?」
「教育棟から戻った紙は、正式な返送票ではなく、仮置扱いでした。私はその時点で“まだ通っていない”ことは認識していました。ですが、ロウェル主任が拒んだのか、単に未処理なのかまでは分からない」
それはありうる。
だが、分からないものを「追って整える」で先へ回した時点で、十分に問題だった。
「レナート次席は、何を根拠に回付を急いだのですか」
アルヴィンが口を挟む。
マルセルはそちらを見た。
「聖女関連の導線を止めるな、と」
「誰の言葉だ」
短い問いだった。
「……“上からだ”と」
そう言った瞬間、書記局の奥で紙を綴じていた若い書記の手が止まる音がした。
誰も顔を向けなかった。
向けないことが、かえってこの場の緊張を深くした。
ルカは急ぎ文書持出票へ手を伸ばした。
茶会前日、暮刻。
雑務補助仮付照会、返戻後再回付。
持出者――レナート・セルヴィス。
返納時刻――空白。
また空白だ。
「返納がありません」
「翌朝一括返納扱いになっています」
マルセルが言った。
「急ぎ持出ではたまにあります」
「たまに、ですか」
「……本来は好ましくありません」
なら、その“不本意な例外”ばかりが、いま重要な紙に重なっていることになる。
「青砂の払出票を」
ルカが言うと、若い書記が一瞬だけ躊躇い、それから帳面を差し出した。マルセルの無言の許可が出たのだろう。
茶会前日。
急ぎ写し用青砂、通常一壺。
追加半壺、持出先――レナート次席机上。
ルカはそこで目を止めた。
「追加?」
「その日は聖女関連の急ぎ写しが多かったので」
若い書記が答える。声がかすかに上擦っている。
「誰が払いました」
「わ、私です」
「名は」
「ユリウス・ネイ。書記補です」
「追加半壺の指示は」
「レナート次席から……です」
これで、青砂はさらに濃く宮付側へ寄る。
ただし、だからといって毒線が全部消えたわけではない。そこを混同すればこちらが崩れる。ルカは頭の中でその線を切り分け直した。
「レナート次席は今どこに」
監査院受領官が問う。
マルセルはその問いにだけ、明確に顔色を変えた。
「……今夜、局には戻っていません」
「居所は」
「届け出はありません」
それは悪い答えだった。
だが、まだ逃亡と決めるには早い。上席書記官が夜間呼び出しへ回ること自体はある。重要なのは、呼び出しの記録があるかどうかだ。
「夜間外出簿を」
ルカが言うと、今度はマルセルが自分で引き出しを開けた。
そこに収まっていた薄い簿冊をめくる。
レナート・セルヴィス。
外出時刻――記載なし。
目的欄――空白。
記録そのものが、ない。
「無断ですか」
「少なくとも、局の帳面上は」
マルセルの声は乾いていた。
もう、この局の中で何を守れるかを量る段階に入っているのだろう。
「レナート次席の机を見せてください」
ルカがそう言うと、書記たちの空気がはっきりと揺れた。
他人の机は、役所では半分その人間自身だ。
それを開けるのは、ただの確認ではない。
だが監査院受領官は即座に言った。
「監査院立会で封を切る。異論があるなら、文書で述べろ」
異論は出なかった。
レナートの机は、窓際から二番目にあった。
整っている。きちんとしすぎているとも言えた。筆架も、砂壺も、封蝋入れも、すべてが中央線に沿うように置かれている。
だからこそ、一箇所だけが目立つ。
引き出しの奥に、紙束を置いていたはずの長方形の埃抜けがある。だがそこに紙束はない。代わりに、薄い革紐だけが残っていた。
束を持ち出した痕だ。
監査院受領官が封を切り、引き出しを改める。
上段には通常の面会回付。
中段には急ぎ便の控え。
下段には、青砂壺が一つ。
ルカはその壺を手に取った。
半分以上減っている。茶会前日以後に使われた量としては多い。しかも、壺の口に付いた砂は、普通より粒が粗い。急いで別袋から継ぎ足したような荒さだった。
「継ぎ足しですか」
ユリウスが小さく答える。
「は、はい。本来は壺ごと渡すのですが、足りないと言われて……予備袋から」
その予備袋が、どこまで他部署へも回るものなのかはまだ分からない。だが少なくとも、青砂の運用を追えば、紙の往来を一段辿れる。
「下段の束は」
ルカが革紐を持ち上げる。
マルセルが低く言う。
「急ぎ便控えの私綴りに使う癖がありました」
つまり、レナートは正式簿とは別に、自分用の順序帳を持っていた可能性がある。
その時だった。
監査院補佐が、机の側板の内側に指をかけたまま止まった。
「ここ、二重です」
全員の視線が集まる。
側板の薄板がわずかに浮く。隠し板と呼ぶほど大げさではない。だが、紙を二、三枚差し込むには十分な隙間だった。
慎重に引き出すと、中から折り畳まれた薄紙が三枚落ちた。
一枚は、宮付の内規メモ。
もう一枚は、急ぎ便宛先控え。
そして最後の一枚に、ルカの指が止まる。
見覚えのある灰青だ。
教育側仮置票の紙。
だが完全な票ではない。上半分だけが切り取られている。
残っている文字は少ない。
――主催側確認
――留保
――返送……
そして左端に、流れるような筆致で残る一文字。
マ。
エレノアの手紙が脳裏をよぎる。
ロウェル主任は、左へ寄せて署名する。
ルカは紙片を灯りへ傾けた。
そこには別の筆圧も重なっていた。上からなぞるように、短く強い線で書かれた文字の凹み。
見えたのは二語だけ。
――留保撤回
――再送
室内の空気が凍った。
「……勝手に書き換えたのか」
アルヴィンの声は低かったが、怒りが底で鳴っていた。
「いや」
ルカは紙片を見たまま答える。
「撤回そのものは別筆です。ロウェル主任の手ではない」
それが意味するのはひとつだ。
一度は出た留保が、誰か別の手で「撤回」に変えられた。
しかも、その半券がレナートの机から出た。
「レナート次席はどこだ」
監査院受領官の声が、今度は明確に鋭くなった。
マルセルはもう誤魔化さなかった。
「……王太子の私的書庫へ出入りする鍵を持っています」
「今夜もか」
「はい。持ったままです」
私的書庫。
王太子宮付書記官しか通常は入れない場所。
回付前の書簡、私信、裁可前の控え。公の帳面に乗る前の紙が、一時的に滞留する場所だ。
そこなら、正式な流れから外れた紙を一時的に隠すこともできる。
ルカは灰青の半券を慎重に包んだ。
これで足りるとはまだ言えない。
だが、足りないままでも進むべき線はもう明確だった。
「監査院」
ルカが言う。
「私的書庫の立入は」
受領官は一瞬だけ考え、それから答えた。
「王太子の裁可が要る」
「今から取れますか」
「夜半だ。だが、火災と差し替え頁と教育棟の印箱消失が重なっている」
そこで受領官は、冷たく言い切った。
「取らせる」
その言葉が落ちた直後、王太子宮付書記局の外で足音が乱れた。
廊下の向こうから、兵士が二人、息を切らせて駆け込んでくる。
「監査院殿! 記録院殿!」
「何だ」
「私的書庫の前で、鍵が折られております! しかも中から灯りが――」
誰も最後まで聞かなかった。
紙を抱えたまま、ルカはもう走り出していた。




