第十一話 私的書庫の灯りは、消し残しを嫌う
王太子の私的書庫は、王宮の奥でもひときわ静かな場所にある。
静かであるはずの場所だった。
なのに今夜、その扉の前には折れた鍵片が落ち、中から灯りが漏れている。
監査院受領官が先頭に立ち、ルカとアルヴィン、そして王太子宮付の兵士が二人、石廊下を駆けた。扉の前にはすでに夜番が一人、青ざめて立ち尽くしている。
「開かないのか」
受領官が問うと、夜番は首を振った。
「鍵が途中で折れて……内側から何かで押さえているようで」
ルカはしゃがみ、床に落ちた鍵片を拾った。
王太子宮付書記官用の細鍵だ。無理に捻ったのか、根元から裂けるように折れている。乱暴だ。書庫の扱いに慣れた者の手つきではない。急いでいた者の手だ。
「中の灯りはいつから」
「ほんの先ほどです。巡回で戻ったら……」
受領官は兵士へ短く命じた。
「こじ開けろ。ただし蝶番側からだ。紙を傷めるな」
重い木扉が鈍く軋む。閂まではかかっていないらしい。内側で何かがつっかえているだけだ。二度、三度と押し込まれて、最後に低い音とともに隙間が開いた。
先に流れ出たのは、焦げではなく、蝋と紙と、熱くなった砂の匂いだった。
炎はまだ上がっていない。
ルカは扉の隙間から滑り込んだ。
私的書庫は想像していたより狭い。壁一面の棚、中央の閲覧卓、小さな炉、窓辺の補助机。正式な公文書庫ではなく、裁可前の控えや、王太子個人宛の往復書簡を一時置きするための部屋だと分かる造りだった。
そして、その中央の閲覧卓の上で、紙の端がじりじりと赤く縮れていた。
「水を」
ルカが言うより早く、兵士が水袋を絞る。火は一瞬で死んだ。死んだが、完全には間に合わなかった。卓上の紙束の上半分が焦げ、角が黒く反り返っている。
その向こうに、人影があった。
レナート・セルヴィスだった。
机の脇に片膝をついたまま、片手で胸を押さえている。外套は乱れ、額に汗が浮かんでいた。怪我をしたというより、息が詰まった顔だった。追い詰められた人間の顔だ。
その足元には、倒れた砂壺。青砂が床に散っている。
「動くな」
監査院受領官の声が落ちる。
レナートは顔を上げた。整っていたはずの書記官の顔が、今は見る影もない。だが視線だけはまだ死んでいなかった。
「……来るのが早すぎる」
吐き出すような声だった。
「お前もそう思っていたんだろう」
アルヴィンが冷たく返す。
「だから火をつけた」
「全部じゃない」
レナートは即座に言い返した。
「全部を焼くつもりなら、炉へ投げている」
その言葉に、ルカは卓上の紙束へ視線を落とした。
たしかにそうだ。火は束の端にだけ当てられている。急いで一部だけを焼こうとした形だ。しかも、炉の炭は使われていない。蝋燭の火で角から炙ったような焦げ方だった。
隠したい紙が、この中の上から数枚だったのだろう。
「立てますか」
ルカが問うと、レナートは短く笑った。乾いた、崩れた笑いだった。
「優しいな、記録官」
「答えが早くなるなら」
レナートはその返しにだけ、少し目を細めた。だが素直に立ちはしなかった。
「先に紙を見るべきだ。お前らはそういう顔をしている」
その通りだった。
監査院受領官の許しを待って、ルカは焼けた紙束へ手を伸ばす。熱は残っているが、読めないほどではない。上から順に剥がす。
一枚目。王太子個人宛の来訪予定控え。関係ない。
二枚目。聖女関連の献納目録写し。これも違う。
三枚目で、指が止まった。
教育側仮置票の転記控え。
白紙だ。
灰青ではない。
だが文言は見覚えがある。
――茶会雑務補助一名仮付
――主催側確認未了
――宮付返答待ち
そしてその下、焼け残った行に、黒く塗り潰された痕がある。
塗り潰しの下から、かすかに透ける字は二つだけだった。
留保。
撤回。
ルカの胸の奥が冷えた。
焦げた小片、半券、そしてここにある転記控え。
順番が、ようやく一つの束になる。
「これは、ロウェル主任の原票を写したものか」
アルヴィンが問う。
「おそらく」
ルカは答えた。
「灰青の原票ではなく、白紙へ書き直した転記控えです。塗り潰しの下に、“留保”と“撤回”の両方が残っている」
「両方?」
監査院受領官が近づく。
「最初に留保があり、その後、別の手で撤回が加えられた可能性が高いです」
レナートがそこで目を閉じた。
ほんの一瞬だけだが、その表情には諦めが混じった。
「その紙は、ここにあるべきじゃなかった」
「なぜ私的書庫に」
ルカが問う。
レナートは壁へ背を預けたまま、低く答える。
「王太子に見せるためだ」
室内の空気が凍る。
だが、それだけでは何も決まらない。
見せるために置いたのか。
見せる前に隠したのか。
それとも、見せたあとで消そうとしたのか。
「王太子殿下は、この紙を見たのですか」
ルカは即座に重ねた。
レナートは少しだけ唇を歪めた。
「見ていない」
その答えは速すぎた。
速いが、だから嘘とも限らない。見ていないことだけは事実で、別の部分を隠している声だった。
「なら、ここへ置いた理由は」
「裁可前の控えを一時保管する場所だからだ」
「転記控えを?」
ルカが返すと、レナートは何も言わない。
その沈黙自体が答えに近かった。
通常なら、教育側仮置票の転記が王太子の私的書庫へ来ること自体が不自然だ。
だからこそ、誰かがここを“安全な退避場所”に使ったのだろう。
ルカは次の紙を見た。
今度は、王太子宮付書記局の内部メモ。
簡潔な字でこうある。
――聖女導線優先
――主催側確認遅延の場合、仮付先行
――責は後に整理
署名はない。
だが、末尾にレナートが机の半券で使っていたのと同じ細い筆致の補記がある。
R。
その一文字だけで、紙は一気に生々しくなる。
「責は後に整理、か」
アルヴィンの声は冷えきっていた。
「便利な文言だな」
「便利ですよ」
レナートが、今度ははっきり笑った。
笑っているのに、壊れた音しかしない。
「聖女が絡むと、皆そう言う。先に通せ。責は後で整える。順番よりも空気が優先される」
「だから踏み越えたのか」
監査院受領官が言う。
「ロウェルの留保も、教育側確認も」
「俺だけがやったように言うな」
そこで初めて、レナートの声に熱が乗った。
「俺は紙を回した。そうだ。だが、回せと言ったのは俺じゃない」
「誰だ」
沈黙。
兵士が一歩前へ出る。だがルカは手でそれを制した。
ここで脅しても、口は閉じる。
この男はすでに、どこまで喋れば自分だけが切られるかを計っている。
「確認します」
ルカは転記控えを指先で押さえた。
「ロウェル主任は、少なくとも一度は“留保”を書いた」
「……そうだ」
「あなたが見たのは、原票ですか。転記後ですか」
レナートの視線が揺れた。
そこだ、とルカは思う。
「どちらです」
「……最初に回ってきたのは原票じゃない」
絞り出すような声だった。
「灰青の原票は、俺のところまで来ていない。来たのは、すでに白で起こされた控えだ」
それで大きい。
つまり、ロウェルの留保を書いた原票を、レナート自身が直接握ったわけではない。
誰かが一度、教育側の票を白紙へ転記し、その転記控えで宮付へ回したのだ。
「誰が白紙へ起こした」
レナートは答えない。
「教育棟の中か。書記局の中か」
なおも沈黙。
ルカは視線を落とし、別の紙を一枚引いた。焦げかけた端に、青砂が強くこびりついている。急いで乾かした痕跡だ。
「あなたは、急ぎ文書の処理に慣れている。だから青砂を使った」
「……だから何だ」
「慣れているからこそ、これはあなたの手元で最初に起こされた紙じゃない」
レナートの眉がわずかに動く。
「砂の振り方が違います。最初の書き起こしにしては、多すぎる。急いで乾かし直した、二度目の砂です」
アルヴィンが無言でルカを見る。
推測だ。だが、紙を見ていればそうとしか思えない。
「つまり、誰か別の手が最初に白紙へ起こし、あなたはそれをさらに整理した」
ルカは言った。
「その誰かが、ロウェル主任の留保を“未了”へ弱め、後から“撤回”を加えた可能性がある」
レナートの喉が動く。
ここまで来て、否定しないのなら十分だった。
「……俺は、整えただけだ」
ようやく出た言葉は、それだった。
「整えた?」
「表へ出せる形にした。そうしろと言われた」
「誰に」
今度こそ、長い沈黙が落ちる。
書庫の外では、誰かが走る音がした。遠い。だが、こういう音は時間切れの足音に聞こえる。
レナートはその音に耳を澄ませるように一瞬だけ目を細め、それから吐くように言った。
「……ロウェル主任じゃない」
当たり前だ。
だが、その当たり前を先に口にしたということは、彼の中で今もっとも強く否定したい線がそこだったということだ。
「教育側だな」
監査院受領官が言う。
「教育側の誰だ」
「分からない」
「嘘だ」
「分からない!」
今度はレナートが本気で声を荒げた。
だが怒りではない。追い詰められた人間の悲鳴に近い。
「顔は見ていない。票は封で来た。灰青じゃなく白で。俺はそれを、次席として整えた。上に見せる前の体裁を――」
次席として。
ルカの胸の内で、その語が重く落ちる。
「次席として、誰の裁可前体裁を整えた」
レナートは唇を噛んだ。
言えないのか。
言えば自分より上に触れるからか。
それとも本当に、そこだけは曖昧に命じられていたのか。
そのときだった。
書庫の奥、窓際の補助机から、監査院補佐が声を上げた。
「受領官! こちらに封緘箱があります!」
全員がそちらを見る。
小さな鉄縁の書簡箱だ。鍵は開いたまま。中に入っていた紙束は半分ほど抜かれている。だが底に、まだ一通だけ残っていた。
監査院受領官がそれを取り上げ、差出欄を見て顔を変える。
「……教育棟内務補助室」
宛名は、レナート・セルヴィス。
封は切られている。中の紙を開くと、短い一文だけが残っていた。
――主任不在につき旧票は回収済
――白起こしを正とされたい
署名はない。
だが末尾に、教育側仮置票で使う内務補助室の受領略号が押されている。
ルカは息を止めた。
白起こしを正とされたい。
それはつまり、灰青の原票ではなく、後から白へ起こした票を正式扱いしろという依頼だ。
ロウェルの留保を踏み越えたのは、王太子宮だけではない。教育棟の内側にも、少なくとも一つ、白起こしを通そうとした手がある。
「内務補助室……」
アルヴィンが低く繰り返す。
「ロウェル本人ではなく、その下か」
「少なくとも、教育側の正式系統から出ています」
ルカが言ったそのとき、レナートが初めて明確に顔を歪めた。
この紙は想定外だったのだ。
彼も知らなかったのか、あるいは残っていると思っていなかったのか。
「お前」
監査院受領官がレナートを見下ろす。
「まだ“整えただけ”と言うか」
レナートは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと机の脚へ凭れ、目を閉じる。
その沈黙は、もう否定ではなかった。
「監査院」
ルカが言う。
「この書簡箱と残紙、転記控え、内部メモを一括保全で。レナート次席の供述は今ここで取れます」
「取る」
受領官は即答した。
「記録院立会でだ」
そこでようやく、私的書庫の中の時間が少しだけ前へ進んだ気がした。
だが終わりではない。
むしろここからだ。
教育棟内務補助室。
白起こし。
主任不在につき旧票回収済。
つまり、ロウェルの不在は偶然ではなく、その不在を前提に紙が動かされている。
ルカは保全された書簡を見下ろした。
差し替え頁。
回付済印。
仮置票。
青砂。
火災。
印箱消失。
そして今、教育棟内務補助室。
線は太くなっている。
だが、まだ一番上には届かない。
そのとき、書庫の外でまた新しい足音が止まった。
今度は慌ただしくない。むしろ、慎重に整えた歩幅だった。
扉口に現れたのは、王太子の近侍だった。
顔色は硬いが、声は儀礼どおりに整っている。
「ルカ・エヴァレット殿」
「はい」
「殿下がお呼びです」
室内の空気が変わる。
監査院受領官が近侍を見る。近侍は一歩も引かなかった。
「今夜、ただちに。私的書庫に関する件で、直接お話があると」
王太子本人が動いた。
レナートが閉じていた目を、そこでゆっくり開く。
その目には、恐れと、わずかな安堵が同時に浮かんでいた。
どちらに転ぶか、まだ決まっていない顔だった。
ルカは一礼した。
「記録院立会は」
「認めるとのことです」
近侍の返答は速い。
それでかえって、事態の重さが分かる。
王太子は今夜、隠すためではなく、見極めるために呼んでいる。
少なくとも表向きには。
ルカは袖の内で、指先を一度だけ握った。
逃げ場のない場所へ、また一つ進むことになる。
だが、ここで行かなければ、順番は相手に取られる。
私的書庫の灯りは、まだ消えていなかった。
その残り火の向こうで、ようやく王太子自身が、紙の焼け跡を見ようとしている。




