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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第十二話 王太子は、見ていない紙に裁可できない


 王太子に呼ばれる廊下は、勝った者にも冷たかった。


 夜の王宮は静かだ。だが、その静けさは休息のためではない。昼のあいだに言いそびれた命令や、表へ出せなかった判断が、夜になってからようやく形を持つための静けさだ。


 ルカ・エヴァレットは、王太子宮の奥へ通されながら、袖の内の紙片がわずかに肌へ当たるのを感じていた。


 私的書庫で拾った、あの命令紙片。

 差し替え頁の焼却を指す走り書き。

 まだ出していない。出すべき順番ではないからだ。


 通されたのは、夜会の広間でも審問室でもない、小さな執務用の会見室だった。


 燭台は少なく、卓は一つ。壁際に書記机があり、王太子の近侍と、記録を取るための補助書記が一人だけ控えている。儀礼のための場ではなく、言い逃れを削るための部屋だった。


 セドリック第一王子は、すでに席についていた。


 外套は脱いでいる。だが軍服の襟元は乱れていない。疲れているのは分かる。それでも、疲れをそのまま他人に見せることを、自分に許さない顔だった。


「座れ」


 短い声だった。


 ルカとアルヴィンが一礼して席につくと、セドリックはまっすぐルカを見た。


「記録院の報告は一通り読んだ。だが、紙の数が多い」


 その言い方に皮肉はない。ただ率直だった。


「だから、いまは順番で話せ。何が事実で、何が疑義で、私がまだ見ていないのは何だ」


 ルカは小さく息を整えた。


「では、最初に申し上げます」


「言え」


「殿下は、教育側仮置票の白起こし転記控えをご覧になっていません」


 部屋が静まる。


 セドリックの目が細くなった。


「断言する根拠は」


「私的書庫にありましたが、焼却しかけられていました。裁可済みの束には綴じ込まれておらず、正式に上がった経路を踏んだ形跡もありません」


 セドリックの表情は変わらない。だが、指先だけが机を一度だけ叩いた。


「つまり、私の執務空間に置かれていたが、私の判断を経てはいないと」


「その可能性が高いです」


「可能性か」


「はい。現時点では」


 セドリックはそこで、短く息を吐いた。


「続けろ」


「茶会前日、王太子宮付書記局から神殿連絡室へ、“雑務補助一名仮付”の要請が出ています。氏名は後補。これは正規の経路です」


「そこまでは聞いた」


「ですが、主催側確認は未了でした。教育主任マグダレナ・ロウェルが、少なくとも一度は留保を書いています」


 ルカは、教育棟で拾った吸取紙の写しを差し出した。


 ――主催側確認 留保

 ――氏名後補のまま導線へ加えること不可

 ――返送先 王太子宮付書記局


 セドリックの視線が、その三行へ止まる。


「原本ではないな」


「はい。吸取紙に残った筆圧です」


「だが、ロウェルが拒んだ可能性は高い」


「はい」


 セドリックは紙を置いた。


「……ロウェルなら、そうするだろうな」


 その一言は、思いのほか低かった。


 王太子妃教育を受けた者と、教育を課した側との距離を、ルカは知らない。だが少なくともセドリックは、マグダレナ・ロウェルという人間が、名もない補助要員を導線へ通すような教師ではないと理解しているらしかった。


「にもかかわらず、紙は先へ回りました」


 ルカが続ける。


「王太子宮付書記局の使用簿には、茶会前日暮刻、再回付、口頭補足あり、と追記があります。補記者はR。レナート・セルヴィス次席です」


「レナート……」


 初めて、セドリックの声音に明確な硬さが混じる。


「本人は、何と言っている」


「“整えただけ”と」


 アルヴィンが横から答えた。


「原票ではなく、すでに白起こしされた控えが自分のところへ来たと」


 セドリックは黙った。


 近侍も、壁際の補助書記も、誰も動かない。こういう沈黙は、怒鳴り声よりずっと重い。


「……誰が白起こしした」


 王子が問う。


「そこは、まだ確定していません」


 ルカは答える。


「ただし、私的書庫から出た書簡箱に、教育棟内務補助室からレナート次席宛の書簡が残っていました」


 その写しを差し出す。


 ――主任不在につき旧票は回収済

 ――白起こしを正とされたい


 セドリックの指先が止まる。


「主任不在」


「ロウェル主任は茶会翌日から教育棟へ出ていません」


「病欠ではないのか」


「表向きはそうです」


 アルヴィンが答えた。


「ですが、本人の代理指示票はなく、教育棟居室は昨夜の時点で荒らされ、主催側確認印の印箱だけが持ち去られていました」


「印箱まで」


「はい」


 セドリックはそこで初めて、椅子へ深く背を預けた。


 苦い顔だった。驚きより、嫌悪に近い。自分の足元にあるはずの秩序が、紙一枚ずつ静かに裏切っていたことへの嫌悪だ。


「殿下」


 ルカは言葉を選んだ。


「一点、確認したいことがあります」


「何だ」


「茶会前後、殿下は“聖女関連の導線を止めるな”という趣旨の指示を、書記局へ出されましたか」


 近侍がわずかに顔を上げる。補助書記の筆が、そこでほんの一瞬止まった。


 セドリックは目を逸らさなかった。


「出した」


 短い答えだった。


「聖女関連の不手際が続いていたからだ。神殿側からも苦情が上がっていた。だが」


 そこで彼の声が低くなる。


「名もない補助を未確認のまま通せとも、教育側の留保を踏み越えろとも言っていない」


 ルカは頷いた。


 それで十分だった。


 セドリックが何を知っていて、何を知らず、どこで曖昧な命令を出したか。その輪郭が出た。


「なら、その言葉だけが先に歩いた可能性があります」


 ルカが言うと、セドリックは苦いものを噛むように口元を固めた。


「分かっている」


 その一言は、誰より自分へ向けたものに聞こえた。


「曖昧な命令は、便利に使われる」


 王子はそう言い、自分の机の端を一度だけ爪で叩いた。


「だが、それで済ませるつもりはない」


 それから彼は近侍へ向いた。


「王太子宮の取次受理簿を」


「今からですか」


「今からだ」


 近侍はすぐに頭を下げて退出した。


 取次受理簿。


 王太子へ直接上申や面会願いが来たとき、まず外の取次が受け、どの部署で整理されたかを記す帳面だ。ルカが先ほどから欲しかったものでもある。


 セドリックはその間、ルカを見た。


「ロウェルが私に直接来ようとした可能性を、お前は見ているな」


「はい」


「なぜそう思う」


「留保を書いたなら、通常は差し戻しだけで終わります」


 ルカは答えた。


「それでも紙が先に回る気配があったなら、主催側確認者として、上位へ直接上げる動機があります」


「私に」


「はい」


 セドリックの目がわずかに伏せられる。


 そこへ近侍が戻ってきた。抱えているのは、薄い革背の受理簿と、小さな付箋束だ。


 机へ置かれた帳面を、セドリック自ら開く。


 茶会前日。

 午後。

 夕刻。

 行がいくつも並ぶ。


 ルカは席を立たず、視線だけで追う。やがて、セドリックの指が一行の上で止まった。


「……これか」


 彼が、帳面をルカのほうへ回す。


 そこには、整った字でこうあった。


 ――教育主任ロウェル 緊急上申願い

 ――件名 茶会導線補助要員の未承認配置につき

 ――受理

 ――書記局整理預り


 その横に、細い追記。


 ――本人来訪せず

 ――病欠連絡により取下


 ルカの胸の奥で、何かが冷たく沈んだ。


 緊急上申願いは、たしかに受理されている。

 ロウェルは動いていた。

 それが、書記局整理預りのまま止まり、さらに“病欠連絡”で消されている。


「病欠連絡は誰が」


 アルヴィンが問う。


 近侍が別の付箋束をめくった。


「添付の小票があります」


 差し出された細票は、簡略なものだった。


 ――教育主任ロウェル、体調不良につき本日不参

 ――上申は後日に改める由


 署名欄は、またしても滲んでいる。


 だが、今度は読めた。


 M・D。


 マルセル・ドーレン。


 室内の空気が一変した。


 王太子宮付書記官マルセルは、緊急上申願いを知っていた。

 知ったうえで、病欠連絡を添えて止めている。


「……呼べ」


 セドリックの声は静かだった。


 だが、その静けさには、もう逃げ道がなかった。


「マルセル・ドーレンを、今すぐここへ」


 近侍が一礼して出ていく。


 ルカは受理簿の行を見つめたまま、ゆっくり息を整えた。


 これで線が一本、また具体的な名前を持つ。

 ただし、ここでもまだ即断はできない。

 マルセル自身が止めたのか。

 上の指示で止めたのか。

 あるいは、病欠連絡そのものが後から付されたのか。


「殿下」


 ルカが言う。


「一点だけ、先に申し上げます」


「何だ」


「マルセル・ドーレンが、どこまでを知っていたかは、まだ切り分けが必要です」


 セドリックは視線を上げた。


「庇うのか」


「いいえ」


 ルカは首を振る。


「いま必要なのは、誰か一人を急いで吊るすことではなく、どの順番で上申が潰され、白起こしが正扱いになったかを崩さず残すことです」


 王子はしばらく何も言わなかった。

 その沈黙のあと、低く返す。


「……お前は、時々、嫌になるほど正しい」


 褒め言葉ではない。

 だが、拒絶でもない。


 そこへ、外で足音が止まる。


 近侍が扉を開け、王太子宮付書記官マルセル・ドーレンが中へ入ってきた。


 昼間、そして夜半前に見たときより、さらに顔色が悪い。だが礼は崩さない。崩せないのだろう。


「お呼びと伺いました、殿下」


 セドリックは答えなかった。


 代わりに、受理簿を一枚だけ、静かに卓上へ滑らせた。


「これは何だ」


 マルセルの視線が落ちる。

 その一瞬で、顔色が変わった。


 ほんのわずかだ。

 だが、それで十分だった。


「……取次受理簿です」


「見れば分かる」


 王子の声は冷たい。


「私が聞いているのは、教育主任ロウェルの緊急上申が、なぜ“書記局整理預り”のまま止まり、病欠連絡で取り下げられたかだ」


 マルセルは唇を結んだ。


「答えろ」


 王太子の命令に、もはや逃げ場はない。


 それでもマルセルは、すぐには答えなかった。

 答えられないのではない。

 答える順番を選んでいる顔だった。


「……病欠連絡は、私が添えました」


 やがて出た声は、静かだった。


「だが、あれは私の判断ではありません」


 ルカは目を細める。


 やはり、そう来る。


「誰の判断だ」


 セドリックが問う。


 マルセルは、一度だけ目を閉じた。


「王太子妃教育副主任、イザベラ・クレインの使いと名乗る女官から、“ロウェル主任は出られない、上申も不要だ”と」


 副主任。


 新しい名だ。

 だが新しすぎる名ではない。

 教育主任の下で実務を回し、印や講義予定の補助管理にも触れうる立場。


 エレノアの知る教育棟側の人物でもあるだろう。


「名乗る、だと?」


 アルヴィンが問う。


「本人ではないのか」


「夜だった。私は使いの女官から小票を受けた。筆跡も、普段の副主任の事務票と同じに見えた」


 マルセルの声は掠れていた。


「だから止めたのか」


 セドリックの問いに、マルセルは首を垂れた。


「……あの時点では、聖女関連の遅延をこれ以上広げたくなかった。そう、思いました」


 それは自己保身であり、同時に実務者の論理でもあった。


 止めた一枚の上申が、ここまで大きくなるとは思わなかったのだろう。

 あるいは、思いたくなかったのか。


「病欠連絡の小票はどこだ」


 ルカが問う。


 マルセルは、すぐには答えず、受理簿の横にある付箋束へ目をやった。


「控えなら……そこに」


 近侍が無言で束を差し出す。

 ルカが小票を取る。


 白い細票。

 灰の砂。

 だが、そこにわずかに混じった青の粒があった。


 そして筆跡は、確かに整っている。

 だが、エレノアの手紙で見たロウェルの左寄せでも、マグダレナのものでもない。

 もっと中心寄りで、細く、冷たい字だ。


 イザベラ・クレイン。


 その名が、ようやく本当の重みを持った。


 セドリックは立ち上がった。


「教育副主任クレインを」


 王子の声が、夜の会見室を真っ直ぐ裂く。


「今夜のうちに、ここへ連れて来い」

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