第十三話 副主任は、留保を撤回と言わない
教育副主任イザベラ・クレインは、遅い時刻に呼び出された者の顔をしていなかった。
疲労はある。だが、乱れはない。薄い灰の衣は皺ひとつなく、結い上げた髪も崩れていない。呼ばれる前から、いずれ自分の番が来ると知っていた者の整い方だった。
王太子宮の会見室へ入ると、彼女は儀礼どおりに一礼した。
「お呼びと伺いました、殿下」
セドリック第一王子は座ったまま彼女を見た。
「座れ」
短い声だった。
イザベラは着席する。その動きは滑らかだったが、視線だけはほんの一度、記録席のルカと、その隣に置かれた受理簿へ落ちた。
何を見られているかを、すでに分かっている目だった。
「確認したいことがある」
セドリックが言う。
「茶会前日、教育主任ロウェルの緊急上申願いが、書記局整理預りのまま止まり、その後“病欠連絡”によって取り下げ扱いとなった。お前は、その件に関わったか」
イザベラは即答しなかった。
沈黙は短い。だが短いからこそ、考えたことが分かる。
「関わりました」
静かな声だった。
「ただし、申し上げたい順があります」
「勝手に順は作るな」
「では、問われた順にお答えします」
彼女はそう言い直した。
「私は、ロウェル主任の上申を止めました」
部屋が静まる。
王太子の近侍も、壁際の補助書記も、誰も動かない。動かないまま、空気だけが一段冷えた。
「理由は」
セドリックの声は、先ほどまでより低い。
「茶会前日、聖女関連の遅延は、もう一件たりとも増やすべきではないと判断したからです」
イザベラはまっすぐ答えた。
「補助要員の名が未確定であることは問題でした。ですが、現場で調整可能な範囲だと、私は見ました。ロウェル主任は厳格な方です。厳格であること自体は長所ですが、あの時は、紙の正しさを優先しすぎて、行事の成立そのものを危うくすると考えました」
それは言い訳であり、同時に、本気の判断でもある響きだった。
悪意だけで動いた人間の声ではない。
だからこそ厄介だった。
「なら、病欠連絡もお前の指示か」
セドリックが問う。
ここでイザベラは、初めてはっきりと首を振った。
「いいえ」
ルカはそこで視線を上げた。
イザベラの顔色は変わっていない。嘘をつくときの揺れ方ではなかった。
「私は、上申を一度預かるように言いました。ですが、ロウェル主任が病欠で上申を取り下げた、という連絡は出しておりません」
セドリックの視線が鋭くなる。
「では誰が出した」
「分かりません」
「教育副主任のお前が知らぬまま、教育主任の病欠連絡が書記局へ入るのか」
「通常は入りません」
イザベラはそこで、わずかに目を伏せた。
「だからこそ、私もいま、ここへ呼ばれている意味を理解しております」
ルカは机上の細票を見た。
取次受理簿に添えられていた、あの病欠連絡の小票。白い細紙。灰の砂。そこに混じった青い粒。そして、M・D の署名。
「副主任」
ルカが口を開くと、イザベラはその声へまっすぐ顔を向けた。
「教育側から書記局へ出す病欠連絡には、定型がありますか」
「あります」
「どのような」
「教育主任本人の指示でない場合、少なくとも代理記載である旨を明記します。さらに、内務補助印を押します」
「この小票には、ありません」
ルカが細票を示すと、イザベラの目が一度だけそこへ落ちた。
その視線は速かった。だが速いぶんだけ、本物だった。
「ありませんね」
彼女は言った。
「これは教育棟の正式な病欠連絡票ではありません」
セドリックの指先が机を叩く。
「だが、書記局はこれで上申を止めた」
そこでマルセル・ドーレンが、壁際から一歩進み出た。
呼ばれてから、彼はずっとそこに控えていた。顔色は悪い。だが逃げてはいない。
「……止めました」
掠れた声だった。
「教育副主任クレインの使いと名乗る女官が持参し、急ぎであると」
「私は使いを出していません」
イザベラが即座に返す。
「少なくとも、その病欠小票については」
マルセルの唇が硬くなる。
「では、私が止めたのは偽の連絡だったと」
「その可能性が高いです」
部屋の空気が、また一段重くなる。
セドリックは二人を順に見た。怒鳴らない。だが、怒鳴らないからこそ逃げ道がない。
「ルカ」
「はい」
「ここまでを切れ」
求められているのは、感想ではない。順番だ。
ルカは立ち上がった。
「現時点で切れるのは、三点です」
「言え」
「第一に、教育主任ロウェルの緊急上申願いは実在し、殿下の取次受理簿に受理記録があります。つまり、ロウェル主任は上へ上げようと動いていました」
受理簿の行を指で示す。
――教育主任ロウェル 緊急上申願い
――件名 茶会導線補助要員の未承認配置につき
――受理
――書記局整理預り
「第二に、教育副主任クレインは、その上申を一度止めたことを認めています。理由は、聖女関連行事の遅延を避けるため。ここは、副主任自身の判断です」
イザベラは何も言わなかった。否定しない。
「第三に、上申を正式に取り下げたと見せた病欠連絡小票は、教育棟の正式様式と一致しません。内務補助印がなく、代理記載の明示もない。ゆえに、教育棟の正式な病欠連絡としては不自然です」
ルカは一拍置いた。
「つまり、副主任が上申を止めたことと、病欠連絡で上申が消されたことは、同じ線上にありますが、同一人物の同一判断とはまだ断定できません」
セドリックはそこでようやく、少しだけ椅子の背へ身を預けた。
「イザベラ・クレイン」
「はい」
「お前は、ロウェルの上申を止めた。それは認める」
「はい」
「だが、お前は病欠小票を出していない。そう主張する」
「はい」
「では逆に問う。ロウェルが上申を押し通そうとしたことを知っていたのは、誰だ」
イザベラは答える前に、ほんの一瞬だけ躊躇した。
その躊躇は、隠したいからではなく、名を出せば事がさらに大きくなると知っている人間のものだった。
「……教育棟内務補助室の者は知りえます」
「名で言え」
「補助室筆頭、サビーヌ・エラール。補助係のミナ。それから、ロウェル主任の机へ書類を運ぶ者なら」
サビーヌ・エラール。
新しい名だ。だが新しすぎない。
教育棟内務補助室――私的書庫から出た書簡箱の差出元と重なる。
ルカの胸の内で、線がきれいに一本、接続された。
「副主任」
ルカが重ねる。
「ロウェル主任が留保を書いたあと、その票が“白起こし”へ変わる可能性を、あなたは認識していましたか」
イザベラはそこで初めて、眉を寄せた。
「……いいえ」
その答えは速かった。
「教育側仮置票は灰青紙です。白起こしへ移すなら、それは正式な差戻しや再起票として扱うべきで、少なくとも主任と副主任の双方に戻ります。黙って置き換えることは、本来できません」
「本来は、ですね」
ルカの言葉に、イザベラの目がわずかに細まる。
「ええ。本来は」
その言い方は、王宮実務を知る者の諦めにも似ていた。
本来はそうだ。
だが実際は、空気と急ぎと聖女関連の名目で、いくつもの“本来”が踏み越えられた。
セドリックが低く言う。
「お前は、自分の判断で最初の一枚を止めた。その結果、誰かにもっと都合のいい形へ紙を変えられた」
イザベラは否定しなかった。
「……はい」
「責任はあるな」
「あります」
その認め方は、きっぱりしていた。
見苦しい逃げ方をしない。そこだけは、ロウェルの上司であるだけのことはあるのかもしれない。
だが、それで終わらせていい段階ではない。
ルカは袖の内の紙片に、もう一度だけ指先を触れた。
差し替え頁の焼却を指す命令紙片。
王太子宮付の略印。
まだ出す順番ではない。
今は、まず教育棟内務補助室へ線を固定するほうが強い。
「殿下」
ルカが言う。
「次に押さえるべきは、教育棟内務補助室の受領簿と、筆頭サビーヌ・エラールの供述です。ロウェル主任の上申を誰が知り、誰が“病欠”で消したか。その経路をまず固定するべきかと」
セドリックは頷いた。
「同意する」
それから王子は近侍へ向いた。
「教育棟内務補助室を封鎖。夜明けまで誰も出入りさせるな」
「は」
「サビーヌ・エラール、補助係ミナ、関係女官をすべて控え室へ。監査院同席で聴取する」
近侍が一礼して去っていく。
部屋に残るのは、まだ誰も完全には倒れていない人間たちだけだった。
マルセルは青白いまま立っている。
イザベラは背筋を崩さない。
セドリックは怒りを机の内側へ押し込んだまま、紙の順番だけを見ている。
そしてルカは、その全員が、それぞれ別の場所で“正しいつもり”を少しずつ踏み外した結果が、エレノア一人へ落ちてきたのだと、ようやく輪郭として理解し始めていた。
そのとき、扉の外で小さな騒ぎが起きた。
近侍ではない。女官の、鋭い、息を切らした声。
次の瞬間、王太子宮の女官が転がり込むようにして入ってくる。
「殿下!」
「何だ」
「教育棟内務補助室の控え棚が、すでに空です!」
部屋の空気が一気に張り詰める。
「空?」
セドリックが立ち上がる。
「はい、受領簿も補助箱も……それから」
女官は喉を震わせた。
「ロウェル主任が使っていたはずの予備印まで、なくなっております!」




