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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第十四話 予備印は、まだ昨日を偽装していない


 教育棟内務補助室は、荒らされたというより、必要なものだけを抜かれたあとだった。


 遅れて駆けつけたルカ・エヴァレットが最初に抱いた印象は、それだった。


 棚は倒れていない。机も椅子も整っている。筆立ては立ったまま、灰砂の壺も蓋が閉まっている。だが壁際の控え棚だけが、そこにあったはずの厚みを失っていた。簿冊が抜かれ、箱が消え、紙の縁が擦れて残した薄い長方形の跡だけが、木の棚板の上に並んでいる。


 焦って壊した部屋ではない。


 どこに何があるかを知る者が、急いで必要なものだけを持ち出した部屋だ。


「この棚に何がありました」


 ルカが問うと、教育棟内務補助室筆頭のサビーヌ・エラールは、青ざめた顔のまま答えた。


「受領簿、病欠小票の綴り、仮置票控え、それから予備印の保管箱です」


 三十代半ばほどだろう。髪は乱れていない。だが、その整え方がかえって無理を感じさせた。崩れてはならないと、自分へ命じている顔だった。


 隣には若い補助係ミナが立っている。こちらは露骨に震えていた。指先が袖を握りしめたまま離れない。


 王太子宮の会見室で聞いた名が、ようやく顔を持つ。


「いつ気づきました」


 アルヴィンが低く問う。


 サビーヌは喉を鳴らした。


「つい先ほどです。副主任が呼ばれたあと、室内の確認をと思い戻ったところで」


「その前に、この部屋から出ていた」


「はい。教育棟側の待機命令で、一時的に別室へ」


 きれいすぎる返答だった。


 あらかじめ用意していたようにも聞こえる。だが、そう聞こえること自体が焦りのせいかもしれない。まだ決めない。


 監査院受領官が部屋の中央へ進み、短く命じた。


「誰も触るな。棚、机、屑籠、窓辺、全部そのまま切る」


 若い補佐が受領札を次々打っていく。


 ルカは控え棚の前へしゃがみ込んだ。棚板の埃抜けは四つ。大きいものが三冊、小さい箱が一つ。報告どおりだ。だが、そのうち一箇所だけ、箱の跡の横に薄く赤い粉が残っていた。


 朱ではない。印泥でもない。乾いた紙の端から落ちる、細かな染料に近い色。


「印箱は、ここですね」


 サビーヌが頷く。


「予備印の箱は、普段は封紙をして収めています」


「封紙は」


「……なくなっています」


 ルカは棚板の角を見た。木肌に、糊を剥がした痕がある。乱暴に引き剥がしたのではない。湯気か水で湿らせ、そっと外したような跡だ。


 急いでいたが、手順は知っている。


「正式な病欠小票の見本は残っていますか」


 ルカが問うと、サビーヌは少しだけ目を見開いた。


「見本、ですか」


「ありますね」


 言い切ると、サビーヌは迷った末に、窓辺の細引き出しから薄い綴りを出した。


 そこには、教育棟で用いる定型票の控え見本が綴じられていた。病欠連絡票は灰青紙で、下部に補助印欄、代理記載欄、受理番号欄が最初から刷られている。


 ルカはそれを、王太子宮へ送られた白い小票の写しと頭の中で並べた。


 やはり違う。


 あの病欠小票は、教育棟の正式票ではない。


「これで一つ確定です」


 ルカが言うと、セドリックの近侍が無言で頷いた。今夜の近侍は会見室から同行している。王太子本人が見ていない場で、紙の順番だけは落とすなということなのだろう。


 そのとき、ミナが小さく声を上げた。


「あ……」


 皆がそちらを見る。


 彼女は床へ落ちていた何かを拾い上げ、震える手で差し出した。


 細く切れた灰青の紐だった。印箱に掛ける封紙紐の一部らしい。端には蝋の欠片がついている。


 受領官がそれを小紙へ包み、ルカへ目配せした。


 ルカは頷き、今度は部屋中央の補助机へ向かった。


 紙束は残っている。だが、机の上だけ妙に清潔だった。砂が掃かれ、吸取紙が新しいものへ差し替えられている。


 掃除された机ほど、何かを隠している。


 ルカは新しい吸取紙の束を持ち上げた。下に、もう一枚だけ、古い吸取紙が残っている。取り忘れだ。


 それを灯りへ傾けた瞬間、息が止まる。


 いくつもの丸い圧痕。

 楕円の印影。

 そして、その左端へ寄せて置こうとした筆致の跡。


「……試し押しだ」


 アルヴィンが低く言う。


 その一言で、サビーヌの顔色がさらに失われた。


 吸取紙には、まだ乾ききっていない新しい主催側確認印の圧痕がいくつも残っていた。正式に紙へ押されたものではない。位置を合わせ、滲みを見、署名欄との間隔を試すための試し押しだ。


 しかも、左寄せで署名を書こうとしている。


 エレノアの手紙が脳裏をよぎる。

 ロウェル主任は、左へ寄せて署名する癖がある。


 つまり誰かが、ロウェルの癖まで真似て、予備印を使った紙を作ろうとしていた。


 今夜、ここで。


「これを誰がやった」


 監査院受領官が問うと、サビーヌは即座に首を振った。


「私は存じません」


「この部屋で、です」


「知りません!」


 声が少しだけ上ずる。


 その隣で、ミナがびくりと肩を震わせた。


 ルカはその反応を見る。


「ミナ」


 名を呼ぶと、彼女は泣きそうな顔で顔を上げた。


「誰かが、この机で印を試していたのを見ましたか」


「……全部は、見てません」


 サビーヌが振り向く。

 その動きに、ミナは怯えた。


「ですが、戻ったとき……筆頭が、いえ」


 言い直した。

 言い直したこと自体が、十分に情報だった。


「誰がいた」


 ルカの声は静かだった。


 静かであるほうが、この手の証言はこぼれやすい。


「白い手袋の方が……」


 ミナの唇が震える。


「内務補助室の方ではありません。宮の方の手袋で……机に紙を置いて、サビーヌ様が、間隔が違うと……」


「ミナ!」


 サビーヌが鋭く制した。


 部屋が一瞬で凍る。


 ミナは口を押さえた。もう遅い。

 今の一言で、サビーヌが少なくともその場にいたこと、そして試し押しの位置まで見ていたことが出てしまった。


 サビーヌはゆっくりと目を閉じ、やがて開いた。


「……私は、止めました」


 その声は先ほどまでより低かった。


「ですが、止まりませんでした」


「誰を」


 アルヴィンが問う。


 サビーヌは答える前に、受領官のほうを見た。


「私が答えれば、記録になりますか」


「なる」


「では、順番どおりに申し上げます」


 彼女は自分の手を強く握った。


「副主任が呼ばれたあと、私は補助室へ戻りました。そこで、机に白い票が置かれ、予備印が出されていました。宮付の白手袋をした男が一人。顔までは見ていません。ですが、サビーヌ、ここで主任の癖に寄せろ、と言われました」


 ルカの胸の奥が冷える。


 そこまで来ているのか。


「あなたは従った?」


「……位置だけは見ました」


 サビーヌは唇を噛んだ。


「ですが、押してはいません。押したのは、その男です」


「名は」


「呼ばれませんでした。ただ」


 そこでサビーヌは目を伏せる。


「その方は、病欠小票のことを“もう通った話だ”と」


 病欠。

 白起こし。

 予備印。

 全部が、ここでつながりかけている。


「その男はまだ宮にいると思うか」


 受領官が問う。


「分かりません」


 サビーヌは首を振った。


「けれど、印箱と控えを持ち出したあと、試し押し紙だけを焼くつもりだったようで……途中で人の足音がして、慌てて出ていきました」


 それで吸取紙だけが残ったのだ。


 つまり敵は、まだ完成品を正式に通していない。

 今のところは。


「完成した紙は」


 ルカが問う。


「見ていません。けれど、白票は二枚ありました」


 二枚。


 一枚は試し。

 もう一枚は本番。

 そう考えるのが自然だった。


 ルカは吸取紙を慎重に包ませ、今度は屑籠を見た。灰青の紙片、封紙紐、削られた鉛筆屑。そこに混じって、小さな薄紙が折れたまま落ちている。


 広げる。


 短い宛先メモだった。


 ――法務院第二聴取室回付後

 ――殿下上覧前


 それだけで十分すぎた。


 完成した白票は、法務院を経由し、王太子の上覧前に滑り込ませるつもりだったのだ。

 まだ間に合うかもしれない。

 いや、間に合わせるしかない。


「受領官」


 ルカが顔を上げる。


「法務院第二聴取室と王太子宮上覧控えを止めます。今すぐ」


「やる」


 受領官は即答した。


「近侍殿、殿下へ」


 王太子の近侍も一歩前へ出る。


「私が先に走る」


 そう言って踵を返した、その瞬間だった。


 廊下の先から、今度は兵士ではなく、法務院の伝令が転がるように飛び込んできた。


「監査院殿! 記録院殿!」


 全員がそちらを見る。


 伝令は息を切らし、顔色を失っていた。


「法務院へ、たった今、新たな補足票が提出されました!」


 ルカの喉が冷たくなる。


「内容は」


「ロウェル主任名で――」


 伝令が唾を呑む。


「主催側確認の留保は誤記であり、補助要員配置を承認する、との票です。しかも、主任の予備印が押されております!」

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