第十五話 その承認票は、留保のあとから来すぎている
偽りの承認は、たいてい一つだけで崩れない。
印だけでは足りない。
紙だけでも弱い。
文言だけなら言い逃れが利く。
だが、順番まで噛み合わなければ、どれほど整った一枚でも、正式な顔を保てなくなる。
法務院第二聴取室の前まで来ると、もう夜というより朝の匂いがした。
眠気と焦りが混ざった廊下の空気。壁際に積まれた受理箱。急ぎ便の封蝋。灯りは落ちていない。むしろこの時間のほうが、法務院の紙はよく走るのだろう。
ルカ・エヴァレットは、監査院受領官とアルヴィン室長を伴って扉の前に立った。
「提出票を確認したい」
受領官が告げると、応対に出た法務院書記は露骨に顔を曇らせた。
「いま、補足票は審査卓へ――」
「だからだ」
受領官の声は冷たい。
「受理直後だからこそ確認する。監査院預かり案件との関連がある」
書記は抵抗しきれないと見たのか、渋い顔のまま奥へ引っ込んだ。
ほどなくして持ち出されたのは、問題の一枚だった。
ロウェル主任名義。
主催側確認の留保は誤記にして、補助要員配置を承認する――そう記された補足票。
紙は白。
薄いが粗くない。
端にわずかな青砂。
下部には、主催側確認の予備印。
そして左へ少し寄せて置かれた署名。
見た目だけなら、丁寧に作られていた。
だが、丁寧に作られたものほど、どこかに作意が出る。
「触れても」
ルカが問うと、監査院受領官が頷いた。
紙を持ち上げる。
まず重み。正式票よりわずかに軽い。
次に繊維。教育棟で見た灰青票とは違い、これは王宮共通の白事務票だ。
そして、左寄せの署名。確かに癖は真似ている。だが、真似たからこそ妙に整いすぎていた。
「どうだ」
アルヴィンの問いに、ルカはすぐには答えず、紙を灯りへかざした。
水印がある。
教育棟内務補助室で使う正式票ではない。王宮共通の補足申述票に近い水印だ。
「正式な主催側確認票ではありません」
ルカが言うと、法務院書記が眉をひそめた。
「補足票として出されている。正式票そのものではない」
「はい。だからこそ問題です」
ルカは紙を下ろした。
「これは“ロウェル主任の承認そのもの”ではなく、“承認したとする補足”です。主催側確認の留保を覆すには、本来、灰青の教育側票か、正規の差戻し再起票が要ります」
書記は何か言い返しかけたが、受領官の視線に口を閉じた。
「印はどうだ」
アルヴィンが問う。
ルカは下部の予備印を見た。
印影そのものは、本物に近い。少なくとも粗雑な贋作ではない。だが、完全に同じではなかった。教育棟補助室で吸取紙へ残っていた試し押しと、この印影を頭の中で並べる。
同じ印箱から押された可能性は高い。
だが押し手が慣れていない。
「滲みが深い」
ルカは小さく言う。
「通常より強く押しています。主任本人か、日常的に押している者の手ではありません」
「断定できるか」
受領官が問う。
「印だけではできません。ですが、教育棟補助室の吸取紙に残っていた試し押しの圧痕と、ほぼ同じ深さです。慣れていない手が、位置と濃さを合わせようとしている」
そこへ、背後から静かな声が落ちた。
「ロウェル主任は、印をそんなふうには押しません」
全員が振り向く。
灰青の外衣をまとったエレノア・ヴァレンティアが、法務院の廊下に立っていた。付き添いの女官が一歩後ろで息を詰めている。王宮内待機の命に反してはいないのだろう。だが、この場所まで来るのは簡単ではなかったはずだ。
「なぜここに」
アルヴィンが低く問うと、エレノアは淡々と答えた。
「ロウェル主任の承認票が出たと聞きました。なら、私が見たほうが早いと思いました」
法務院書記が露骨に嫌な顔をした。だが受領官は止めなかった。
「続けろ」
エレノアは票へ視線を落とした。
「主任は印泥を嫌う方でした。濃く出すより、枠が潰れない程度に押すことを優先します。教本にもそう書き込んでおられた」
そこで彼女は署名欄を見た。
「左へ寄せる癖は真似ています。ですが、寄せる位置が違う」
ルカはわずかに目を上げた。
「どこが」
「主任は、印影の左端へ揃えるように名を入れます。これは印影から半字ほど離れている。真似るために“左寄せ”だけを意識した位置です」
なるほど、とルカは思う。
形ではなく、運用の癖として知っている人間の指摘だ。
「文言も不自然です」
エレノアはさらに言った。
「“留保は誤記”と、主任は書きません」
それは大きかった。
「なぜそう言い切れますか」
「主任は、自分の判断を“誤記”で済ませるのを嫌う方でした。留保を書いたなら、書き間違いではなく判断です。もし覆すなら、“再考のうえ条件付きで認む”と書く。誤記とだけは書きません」
法務院書記が苛立ったように言う。
「言葉の好みでしかない」
「いいえ」
エレノアはそちらを見ずに返した。
「教育票は、言葉がそのまま責任になります。主任ほどの方が、自分の責任を“誤記”という曖昧な語へ落とすことはありません」
それは、文言線としてかなり強い。
ルカは票を裏返した。
受理欄。
法務院受理印。
受理時刻――七刻五十七分。
また速い。
そして順番がおかしい。
「受領経路は」
ルカが問うと、書記が渋々答える。
「教育棟内務補助室より、急ぎ補足票として」
「誰の持込です」
「名は……」
そこで書記は詰まる。受理欄の持込者署名が、またしても潰れていた。今度は水ではない。上から砂を強く擦ったような、ざらついた潰れ方だ。
青砂だ、とルカは思う。
「受理箱の別紙記録を」
受領官が命じると、書記は舌打ちを呑み込みながら薄い受理控えを差し出した。
そこに書かれていたのは、たった一行。
――王太子宮経由 補足緊急扱い
王太子宮経由。
教育棟から直接法務院へ来たのではない。
どこかで一度、王太子宮の手を通っている。
「順番が逆です」
ルカが言うと、セドリックの近侍が目を上げた。
「何が」
「教育側の承認票なら、本来は教育棟から主催側整理、必要なら王太子宮、そして法務院です。ですがこれは“補足緊急扱い”で王太子宮経由になっている。つまり、教育票でありながら、最初から宮付の急ぎ文書として走らせている」
エレノアが小さく息を吐いた。
「主任の承認なら、そんな急ぎ方はしません」
「はい」
ルカは頷く。
「留保を覆すなら、なおさら正式票で戻します」
印。
紙。
文言。
順番。
四つとも揃った。
ここで終わらせるには惜しい。
もう一枚だけ、刺せるものが欲しい。
「教育棟補助室の受領簿は空でした」
受領官が低く言う。
「だが、まだ受理控え箱そのものを見ていない」
法務院書記の顔が引きつる。
「箱はもう夜間閉鎖――」
「開けろ」
受領官の一言で終わった。
奥から運ばれてきた夜間受理箱は、まだ封緘も新しい。開けると、中には数通の急ぎ票が入っていた。その上から三番目に、同じ白紙の控えがある。
だがこちらは未提出だ。
おそらく下書きか、複製の失敗票。
ルカはそれを抜き取った。
文面はほぼ同じ。
だが一箇所だけ違う。
――主催側確認の留保は誤記につき撤回し、
“撤回し、”の後に続くべき文が消えている。
そして欄外に、ごく小さく書き込みがある。
――上覧前に整文
整文。
またその語だ。
レナートの「整えただけ」が脳裏をよぎる。
「これが先です」
ルカは言った。
「完成票の前段です。まだ上覧前に文を整えるつもりだった」
受領官が票を覗き込む。
「なら、法務院へ出た完成票は、少なくともこの場より先で整えられた」
「はい。受理箱の中に下書きが残っている以上、完成票は持込直前まで別で触られていた可能性が高い」
法務院書記が青ざめた。
「そんなことを言われても――」
「あなたを責めているのではありません」
ルカは冷静に言った。
「責めるべきは、完成前の偽票を“王太子宮経由の急ぎ補足”として走らせた順番です」
エレノアが、その下書き票を見下ろして小さく言った。
「……“誤記につき撤回し”」
その声は低い。だが、そこにだけわずかな感情が混じった。
「主任は、私の課題の添削でさえ“誤記”と“誤判断”を厳密に分けました。こんな書き方をするくらいなら、紙ごと破ります」
その一言が、妙に重かった。
エレノアが学んできた時間、その教師がどういう人間だったか。その実感が、そのまま反証になる。
ルカは完成票と下書き票を並べた。
「監査院」
「分かっている」
受領官は即座に答える。
「この二枚、正式受理前後の関係で保全を切る。法務院は、この票を主たる根拠にできない」
「それと」
ルカは受理控えの“王太子宮経由”の一行を指した。
「この経路を、今すぐ王太子宮へ戻して確認します。誰がこの票を急ぎ補足に載せたのか」
そこまで言ったときだった。
廊下の向こうで、急いだ足音が止まる。
今度は王太子宮の近侍ではない。
教育棟の女官でもない。
息を切らした若い書記官が、法務院の廊下へ飛び込んできた。
「監査院殿! 記録院殿!」
「何だ」
受領官が振り向く。
若い書記官は、青ざめた顔で言った。
「王太子宮付書記局の回付済印使用簿が、今しがた一冊、なくなりました!」
ルカの指先が止まる。
回付済印使用簿。
レナートの口頭補足と、再回付の追記があった、あの簿冊だ。
「いつだ」
「ほんの今です。監査院立会のため出そうとしたところで、棚に――」
言葉はそこで途切れた。
全員が意味を理解したからだ。
相手も、まだ死んでいない。
むしろこちらが何を押さえにいくかを、同じくらいの速さで読んでいる。




