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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第十六話 消えた使用簿は、仮札を置かない


 帳簿を消す者は、たいてい紙そのものより先に、置き場所の癖を知っている。


 王太子宮付書記局へ戻ったとき、夜の静けさはもう保たれていなかった。


 灯りは増え、廊下には近侍と監査院補佐、顔色を失った若い書記たちが立ち尽くしている。整っているはずの場所が乱れるとき、最初に崩れるのは声ではない。人の立つ位置だ。今夜の書記局は、誰も自分のいるべき場所に立てていなかった。


「どの巻がない」


 監査院受領官が問うと、マルセル・ドーレンがすぐに答えた。


「回付済印使用簿の第五巻です。茶会前日から当日午刻までを収めた巻になります」


 まさに、欲しいところだけだ。


 ルカは棚の前へ歩み寄った。


 革背の簿冊が並ぶ中、一冊ぶんだけ綺麗に空いている。埃抜けは新しい。だが不思議なのは、その空白に仮札が差されていないことだった。


 本来、簿冊を棚から抜くときは、代わりに細い木札を差す。誰が、どの時刻に、どの簿冊を持ち出したか。戻すべき場所を示すためでもあり、黙って消すことを難しくするためでもある。


 今、その札がない。


「正式な持出ではない」


 ルカが言うと、アルヴィンが短く頷いた。


「仮札を置かないなら、記録に残すつもりが最初からない」


 若い書記の一人が小さく言った。


「でも、棚の前はずっと……」


 そこまで言って、口を閉じる。


 誰かに咎められるのを恐れたのだろう。だが監査院受領官の視線は、その躊躇ごと拾った。


「ずっと、何だ」


「い、いえ……人は多かったですが、見張りが切れたわけでは」


 それで十分だった。

 部屋から持ち出すのではなく、この場のどこかへ潜らせた可能性が上がる。


 ルカは棚板の縁へ指を触れた。革背が抜かれるときに擦れた粉が、ごく薄く残っている。そこに、また青砂が混じっていた。


 回付済印使用簿の前でも、青砂。

 ここまで重なるなら、もはや偶然ではない。


「再製本箱は」


 ルカが問う。


 マルセルが少しだけ眉を動かした。


「奥です。だが今日、その巻を修繕に回した記録はない」


「だから見ます」


 再製本箱は、壁際の低い棚の下に置かれていた。古い礼状控えや背綴じの緩んだ帳簿が、麻布で一括りにされている。どれも見た目は地味だ。地味だからこそ、一本紛れれば見落とす。


 ルカはしゃがみ込み、束の背を順に見た。


 礼状控え。

 面会順付補助簿。

 献納受領写し綴り。

 その中に一冊だけ、背表紙の札だけが新しく貼り直されたものがある。


「これだ」


 口に出るより先に、指が動いていた。


 引き抜く。重みは帳簿のそれだ。だが背表紙の題簽には“献納受領写し綴り”とある。指先で軽く押すと、貼り札の下に別の凹みがある。


 上から題簽を貼り替えている。


「封を」


 受領官の命で、監査院補佐が受領札を打つ。ルカはその一瞬も惜しむように、帳簿の背へ目を凝らした。綴じ糸は緩んでいない。持ち出して隠したというより、すぐそこの再製本箱へ滑り込ませたのだ。部屋を出る暇もなかったのだろう。


 題簽を剥がす。


 下から現れたのは、見慣れた題字だった。


 回付済印使用簿 五。


 マルセルの喉が小さく鳴る。


「……ここに」


「外へ出せなかった」


 アルヴィンが冷たく言う。


「だから部屋の中で埋めた」


 帳簿を開く。


 茶会前日、午刻、昼刻、暮刻前。

 そこまでは、すでに控えから拾っていた内容と一致する。

 問題は、その先だった。


 暮刻前、茶会雑務補助仮付照会――印使用。

 担当、マルセル・ドーレン。

 脇書、再回付、口頭補足あり。補記者 R。


 その一行の直下だけ、紙の色がわずかに違う。

 削って薄くしたうえへ、極薄の紙を貼り重ねた跡だ。


「削り貼り」


 ルカが言うと、受領官も身を乗り出した。


 灯りを斜めから当てる。貼り継ぎの下に、古い筆圧がうっすら残っていた。文字そのものは見えない。だが、右から左へ強く払うような筆勢が一語、そしてその下に短い縦画が二本。留保、の二字に近い。


「元の行を隠している」


「読めるか」


 アルヴィンの問いに、ルカは首を振った。


「全文は無理です。ですが、少なくとも最初から“再回付、口頭補足あり”だったとは言いにくい」


 そこで、さきほど躊躇っていた若い書記がまた小さく声を出した。


「あの……」


 全員の視線が向く。


「茶会前日の暮刻、レナート次席が一度、その巻を机へ持っていくのを見ました」


 マルセルが鋭く振り向いた。


「今までなぜ言わなかった」


「次席が自分で取りに来ること自体は珍しくないので……でも、そのあと戻したとき、題簽が少し浮いていて」


 その一言で、部屋の空気がまた変わる。


「どのくらいの時刻だ」


 ルカが問う。


 若い書記は必死で思い出す。


「鐘が二つ鳴る前です。ちょうど、青砂を追加で出してほしいとユリウスが呼ばれていた頃で……」


 青砂追加。

 茶会前日暮刻。

 全部が同じ時刻へ寄ってくる。


「つまり、使用簿が最初に動いたのは今夜じゃない」


 ルカは帳簿を閉じずに言った。


「茶会前日暮刻、レナート次席が一度持ち出し、そこで一行が削り貼りされた可能性がある」


 マルセルの顔色がさらに悪くなる。


「……私の目の届く場所で」


「届いていたからこそ、やれたのでしょう」


 ルカの返答に、マルセルは何も言えなかった。


 そこで、もう一つ違和感が引っかかった。


 帳簿の当日午刻の頁へめくる。


 本来ならこの巻はそこで終わるはずだ。だが末尾に、一枚だけ後から綴じ足した薄紙がある。見返しでも索引でもない。紙質が新しい。


 そこには、たった一行だけ書かれていた。


 ――上覧前整理票、返戻済


 署名なし。

 印なし。

 だが、その一行の右端に、青砂が強く擦れている。


「返戻済?」


 アルヴィンが低く読む。


「どこへ返した」


「書いていません」


 ルカはその一行を見つめた。


 正式な簿冊に、こんな曖昧な補足を最後の一枚として綴じる理由はない。

 これは記録ではなく、記録の顔をした逃げ道だ。


「この紙を綴じたのは誰だ」


 受領官が言う。


 若い書記たちは皆、首を振る。

 だが一人だけ、ユリウス・ネイが目を伏せた。


「ユリウス」


 ルカが名を呼ぶと、彼は肩を震わせた。


「……綴じたのは、私です」


 マルセルが目を見開く。


「何だと」


「次席から、後で整理に回す前の覚えだから綴じておけと……正式記載ではなく、抜く前の目印だと」


 部屋の底で、誰かが息を呑む。


「いつだ」


「茶会当日の午刻過ぎです」


 午刻過ぎ。

 まだ断罪前。

 まだ表の事件になる前。


 つまりレナートは、その時点で“上覧前整理票”という別系統の紙を一度返した、あるいは返したことにした記録を、自分用に残していたことになる。


「返戻先は知らないのか」


「知りません……でも、その紙を持ってきたとき、次席は白手袋をしていました」


 またそれだ。


 白手袋。

 宮付の上覧扱い。

 白起こし。

 全部が近づきすぎている。


「白手袋は、次席が常に使うものか」


 ルカが問うと、ユリウスは首を振った。


「いいえ。上覧前の紙を触るときだけです。ふつうは箱ごと保管されていて、夜に勝手に出すことは――」


 そこで止まる。


「勝手に出すことは?」


「許されていません」


 それで十分だった。


 上覧前整理票。

 白手袋。

 返戻済。

 つまりこれは、ただの急ぎ文書ではない。王太子に見せる直前、あるいは見せる予定だった紙の流れだ。


 ルカは帳簿の末尾紙をそっと押さえた。


「この一行が、いちばん先に消したかったものですね」


 受領官が頷く。


「だから今夜、この巻を抜いた」


「はい」


 ルカは続けた。


「そして、帳簿が消えたと気づかれる前に、部屋の中で隠した。外へ出す時間がなかったのは、まだこの書記局内にも、完全には敵の手が回っていないからです」


 その言葉に、若い書記たちの顔色が少しだけ戻る。

 全部が汚染されているわけではない。

 その事実は、この場では十分に意味があった。


 そのとき、扉の外で足音が止まった。

 近侍ではない。

 しかし走りでもない。

 誰かが、もう観念した足取りでここへ来る音だった。


 扉が開く。


 入ってきたのは、サビーヌ・エラールでも、イザベラ・クレインでもない。


 見覚えのない年嵩の女官だった。教育棟の深い青の外衣。頬は青ざめ、手には封のされた小さな箱を抱えている。


「……内務補助室付きのオディールと申します」


 受領官が眉をひそめる。


「何だ」


 女官は震える手で箱を差し出した。


「さきほど、補助室の掃除棚の裏から見つかりました。本当は朝まで待つべきかと……ですが、もう待てない気がして」


 箱が開かれる。


 中に入っていたのは、主催側確認の予備印ではなかった。

 それより小さい、細い楕円印だ。


 教育棟内務補助室 受理済。


 そして、その下に折り畳まれた小票が一枚。


 ルカが開く。


 短い。だが、充分すぎるほど短かった。


 ――ロウェル主任の病欠票は、先に宮へ入れた

 ――留保票の処理は夜半前に

 ――印は戻さず預りとする

 ――サビーヌには位置だけ見せれば足りる


 署名はない。


 ただし、末尾に小さく一文字だけあった。


 I。


 イザベラか。

 それとも、別のIか。


 部屋の空気が、今度こそ本当に止まった。

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