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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第十七話 I の一文字は、副主任をまだ名指さない


 頭文字は、ときどき署名より先に、経路を隠すために置かれる。


 第三記録室へ戻ったときには、夜はもう深く、窓の外は王宮の輪郭さえ曖昧にしていた。

 机の上には、教育棟内務補助室付きのオディールが持ち込んだ小票が置かれている。


 ――ロウェル主任の病欠票は、先に宮へ入れた

 ――留保票の処理は夜半前に

 ――印は戻さず預りとする

 ――サビーヌには位置だけ見せれば足りる


 そして末尾の、一文字。


 I。


 ルカはその字を見下ろしたまま言った。


「これを、すぐイザベラの I だと決めるのは危険です」


 アルヴィンが頷く。


「同感だ。署名にしては軽すぎる」


 そこへ、扉が静かに叩かれた。

 入ってきたのはエレノアだった。灰青の外衣の上から薄い肩掛けを羽織っている。顔色はまだ良くない。だが、目だけははっきりしていた。


「失礼します」


「お休みになったほうがよろしい」


 アルヴィンが言っても、エレノアは首を振った。


「I の一文字についてなら、私にも心当たりがあります」


 ルカは小票を彼女へ向けた。

 エレノアは一読して、その末尾の一文字で指を止める。


「やはり」


「何か」


「署名ではありませんわ」


 即答だった。


「教育棟の内務補助室では、急ぎの使いを便の種類で分けます。A 便、B 便、そして I 便。I は内庭回廊を通る最短便の印です。王太子宮や礼拝棟へ、正式な受領箱を経ずに、先に人の手へ渡したい紙に使うことがあります」


 ルカの胸の内で、何かがすっと噛み合った。


 署名ではなく、経路。


「つまり、この小票は」


「“I 便で先に宮へ入れた”という意味ですわ」


 アルヴィンが小票を見直す。


「病欠票は、正式票でもないのに、正式簿より先に王太子宮へ入った」


「はい」


 ルカは立ち上がった。


「なら、押さえるのは署名帳ではなく、便札帳です」


 教育棟内務補助室は、つい先ほどまでのざわめきが嘘のように静まっていた。

 監査院の受領札が棚や引き出しに下がり、部屋そのものが証拠になっている。


 サビーヌ・エラールとミナは、壁際の椅子に座らされていた。どちらも眠っていない顔だ。だが、眠っていない理由は別々に見える。サビーヌは考え続けた顔で、ミナは怯え続けた顔をしている。


「便札帳を」


 ルカが言うと、サビーヌの瞼がわずかに動いた。


「それも、もう無いと言うつもりですか」


 アルヴィンの一言が先に落ちる。


 サビーヌは答える前に、一度だけ息を呑んだ。


「……あります」


 彼女が示したのは、控え棚ではなく、壁際の細い抽斗だった。

 取り出された薄い帳面には、色ごとの紐札控えが綴じられている。灰札は通常便、青札は礼拝棟急ぎ、そして象牙色の札が I 便だった。


 ルカは茶会前日の頁を開く。


 夕刻。

 A 便一件。

 B 便二件。

 その下に、象牙色の控え札が一枚。


 ――I 便

 ――宛先 宮付取次

 ――内容 病欠票

 ――起票 内補筆頭


 時刻は、夕刻二刻。


 ルカはそこで指を止めた。


 セドリックの取次受理簿にあったロウェルの緊急上申願い受理は、そのさらに後。夕刻三刻だった。


 つまり――


「先に、です」


 ルカが言う。


「ロウェル主任の上申が取次へ乗る前に、病欠票だけが宮へ先回りしています」


 部屋の空気が動いた。


 エレノアが、ほとんど聞こえないほど小さく息を吐く。

 アルヴィンの視線がサビーヌへ向く。


「お前は、主任が上申に動く前から、それを消す病欠票を送った」


「違います」


 サビーヌは即座に言い返した。だが、その速さは潔白の速さではなかった。用意していた否定の速さだ。


「私は、言われた通りに便を切っただけです。内容までは」


「誰に言われた」


 監査院受領官の声が落ちる。


 サビーヌは口を閉ざした。

 その代わり、ミナが怯えたように横目で彼女を見る。


 そこへルカが静かに言った。


「ミナ。I 便を走らせたのは誰です」


 ミナの肩がびくりと跳ねる。


「わ、私……です」


 やはり、とルカは思う。


「出した相手は」


「宮付取次の女官です。白い細票を渡して、急ぎで、と」


「そのとき、ロウェル主任は」


 ミナは唇を震わせた。


「東階段へ上がるところでした。封を持って……主任は、上へ行くのだと思いました」


 それで十分だった。


 ロウェルが上申に動くのを見て、その前に病欠票を宮へ滑り込ませた。

 偶然ではありえない。


「誰が、主任が上へ行くと知っていた」


 ルカが問うと、ミナは泣きそうな顔でサビーヌを見る。


「筆頭が……主任の机へ書類を届けて、そのあとすぐ」


「ミナ」


 サビーヌが低く制した。だがもう遅い。


 ミナは両手を握りしめたまま続ける。


「主任が、これは直接申し上げると……そう言ったのを、筆頭が聞いていました」


 部屋が静まり返る。


 サビーヌは目を閉じた。

 その沈黙は、否定より重かった。


「つまりお前は」


 アルヴィンが言う。


「ロウェルの上申を知った。知ったうえで、病欠票を先に宮へ入れた」


「私は、そうしろと」


「誰に」


 サビーヌは目を開いた。

 その瞳は乾いていた。泣く段階はもう過ぎている顔だった。


「教育副主任ではありません」


 先に、そこを切った。


 ルカは表情を変えない。

 そう来るなら、そのあとに来る名の重さが増すだけだ。


「副主任は、上申を預かれとは言いました。ですが病欠票を先に回せとは、言っていません」


「では誰だ」


 サビーヌはわずかに視線を落とした。


「……宮付の女官です」


 新しい名ではない。

 むしろ、今まで何度もすれ違っていたはずの存在だ。


「名は」


「イレーヌ・バルダン。王太子宮付取次の補助女官です」


 I。


 ルカは小票の一文字を見下ろした。


 イザベラではなく、I 便。

 そしてその先で受け取るイレーヌ。


 頭文字は人を指しているのではなく、経路と受け手の都合が、あとから重なって見えただけだった。


「イレーヌは何と」


 ルカが問う。


「主任が上へ行くなら、先に病欠で止めるしかない、と」


 サビーヌの声は掠れていた。


「そうしないと、聖女関連の導線がまた止まり、宮付が責めを負う。副主任も主任も守れなくなると」


 守る。

 その言葉が、かえって冷たかった。


 誰かを守るためだと称して、別の誰かを沈める。

 まさに今まで繰り返されてきたやり方だ。


「病欠小票は誰が書いた」


「私ではありません」


「イレーヌか」


 サビーヌは首を横に振る。


「受け取ったときには、もう白い小票で……宮付側の手で整えられていました。私は、便札を切ってミナに渡しただけです」


 これで経路がさらに切れた。


 教育棟内務補助室は、上申の存在を知り、I 便を切った。

 だが病欠小票そのものは、宮付側で整えられた可能性が高い。


 ルカは便札帳の次の頁をめくった。


 そこにもう一枚、象牙色の控え札がある。


 ――I 便

 ――宛先 宮付書記局

 ――内容 仮置票返戻照会

 ――起票 空欄


 時刻は、病欠票のさらに少し後。


 起票欄だけが空だ。


「これは」


 ルカが示すと、サビーヌの顔が凍る。


「知りません」


「ミナ」


 ミナは首を振った。


「私は走っていません」


 なら、別の誰かが走ったのだ。


 病欠票のあと、すぐに仮置票返戻照会が宮付書記局へ飛んでいる。

 ロウェルの上申が受理される前後に、教育棟と宮付の間で二本の I 便が動いた。


 偶然ではない。

 事前に順番を組んでいたとしか思えない。


 そのとき、エレノアが静かに言った。


「ロウェル主任は、留保を書いたあと、必ず原票の控えを左の薄箱へ移します」


 皆が彼女を見る。


「教育棟の講義前、何度も見ました。右の箱が未処理、左の薄箱が上へ上げる控えです」


 サビーヌが息を呑んだ。


 それだけで、彼女がその箱の位置を知っていると分かる。


「ロウェル主任の机に手を入れたのは、上申が出る前ですね」


 ルカの言葉に、サビーヌはもう否定しなかった。


「……主任が封を持って立ったあとです」


 絞り出すような声だった。


「私は左の薄箱から控えを抜きました。イレーヌへ渡せば、宮付で止められると言われて」


 やっと、そこまで出た。


 ロウェルの上申は偶然止まったのではない。

 机の上で見張られ、控えを抜かれ、病欠票を先に入れられ、取次で潰されたのだ。


 順番が、あまりに整いすぎている。


 ルカは帳面を閉じた。


「受領官」


「分かっている」


 監査院受領官は即座に言った。


「教育棟内務補助室筆頭サビーヌ・エラールの任意供述固定。I 便二件の控え保全。王太子宮付取次補助女官イレーヌ・バルダンを、いまから押さえる」


 近侍も一歩前へ出た。


「宮付の者なら、こちらで所在を切ります」


 その瞬間、扉の外でまた足音が止まった。

 今夜は、本当に紙が人を引き寄せる夜だった。


 入ってきたのは、王太子宮の近侍ではない。

 息を切らした若い女官だ。顔色は白く、声も整っていない。


「近侍殿! 監査院殿!」


「何だ」


「イレーヌ・バルダンが、取次席から消えました!」


 部屋の空気が張り詰める。


「いつ」


「つい今しがたまでいました。ですが、回付箱の確認中に……席だけが空いて」


 逃げた。


 あるいは、もう別の線に乗せられた。


 ルカの胸の内で、冷たいものが沈む。

 相手はまだ、こちらより半歩早い。


 だが、今夜は初めて、順番そのものが文字で残った。

 I 便。

 病欠票。

 仮置票返戻照会。

 そして、イレーヌ・バルダン。


 線はもう、消しきれない。


 エレノアが小さく言った。


「逃げたのなら、逆に追えますわ」


 ルカは頷いた。


 そうだ。

 逃げる者は、もう“紙の外”へ出た。

 紙の外へ出た人間は、かえって痕跡を残す。


 受領官が近侍へ向いた。


「宮付取次の持出簿と、夜間通行札の控えを。すぐに」


 近侍は一礼し、踵を返す。


 そのとき、サビーヌが消え入りそうな声で言った。


「……イレーヌは、ひとりではありません」


 誰も動かなかった。

 動かないまま、その続きを待つ。


 サビーヌは顔を上げない。


「取次席へ、票を先に入れるとき……いつも“先生”と呼ばれている方が」


 先生。


 その呼び名が、今までの線のどれとも違う形で落ちた。


「誰だ」


 アルヴィンの問いに、サビーヌはやっとのことで答えた。


「聖女様付きの、筆写教師です」

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