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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第十八話 筆写教師は、白票の言い回しだけを教えた


 筆で整えられた文は、ときに偽りより先に礼儀正しくなる。


 だから厄介だった。


 紙そのものは粗く、順番も歪んでいるのに、文だけは妙に整っている。

 そういう票は、書いた人間ではなく、整えた人間を探したほうが早い。


「聖女様付きの筆写教師……名は」


 第三記録室でそう問うたとき、サビーヌ・エラールはもう抵抗する顔をしていなかった。抵抗しても、順番ごと剥がされると分かった顔だった。


「アデル・ヴェルネです」


 乾いた声だった。


「礼拝棟の西写字室にいます。祈祷札、返書、献納者への礼状……聖女様の名で出る紙の言い回しを整えたり、写字の指導を」


 その役目は、あまりに自然すぎた。


 病欠小票の文を整える。

 白票の言い回しを整える。

 “誤記につき撤回し”のような、内容は濁しつつ責任だけ動かす言葉を整える。


 筆写教師なら、それができる。


「まだ部屋にいると思いますか」


 ルカが問うと、サビーヌは首を振った。


「夜の写字は、祈りの前後です。ですが……イレーヌが票を持ち込むなら、あの部屋でした」


 アルヴィンが短く言う。


「行くぞ」


 礼拝棟の西写字室は、聖堂の裏手に近い静かな回廊にあった。


 壁のくぼみに置かれた灯りは低く、石床へ映る影もやわらかい。王宮の紙の匂いとは少し違う。蝋と砂に混じって、香木と古い革表紙の匂いがする。


 エレノアも同行していた。

 灰青の外衣をきちんと留め、顔色の悪さだけをどうしても隠しきれていない。だが、その目は疲れの向こうで冴えていた。


「アデルは、どんな人物ですか」


 ルカが歩きながら問うと、エレノアは少し考えて答えた。


「穏やかな方です。少なくとも、表では。言葉に厳しい。内容ではなく、言い回しの歪みを嫌う方でした」


「内容ではなく」


「ええ。『書き手の責任と、文の品位は別です』と、よく」


 その言葉が、今は妙に不気味だった。


 写字室の扉は半ば開いていた。


 中には灯りがあり、人の気配もある。隠れるつもりはなかったらしい。


 アデル・ヴェルネは、写字机の脇で立ち上がった。


 三十代後半ほどだろうか。痩せた指先に薄いインクの染みがある。白に近い薄鼠の衣を着て、髪はきちんと後ろへ束ねていた。驚いてはいたが、取り乱してはいない。


「こんな時刻に……何事でしょう」


 その声は柔らかい。

 だが柔らかい声ほど、答えを整える時間を自分に与える。


「記録院です」


 ルカが名乗ると、彼女の視線が一瞬だけエレノアへ向いた。

 そこにあったのは敵意ではなかった。むしろ、見たくないものを見てしまったような揺れに近かった。


「筆写室の確認をしたい」


 監査院受領官が前へ出る。


「聖女付き返書、病欠小票、承認票の整文に関してだ」


 アデルは否定しなかった。

 否定できないのだと、ルカは思った。


「病欠小票の文は、整えました」


 彼女は静かに言った。


 思ったより早い白状だった。

 だがその早さは、潔白の早さではなく、“そこはもう隠せない”と見切った早さだ。


「どういう依頼で」


 ルカが問う。


「宮付取次補助女官イレーヌから。急ぎで、教育主任の不参を知らせる白票だと。正式票ではなく、まず先に文だけ整えてほしいと」


「内容は」


「『体調不良につき本日不参』です。そこへ『上申は後日に改める由』を添えました」


 取次受理簿に添えられていた病欠小票と一致する。


「あなたは、それを教育棟の正式票と認識していたのですか」


「いいえ」


 アデルはためらわず答えた。


「正式票なら灰青紙ですし、内務補助印欄もあります。白票でしたから、あくまで取次前の文案だと思いました」


 エレノアが小さく息を吐いた。


 ここまでは予想の範囲だ。

 問題は、その先だった。


「では承認票は」


 ルカが問うと、アデルの指先がわずかにこわばった。


「……私は、文だけを見ました」


「どういう意味です」


「白票を二枚、イレーヌが持ち込みました。一枚は病欠小票と同じように、短い補足のため。もう一枚は……」


 そこで彼女は、初めて明確に視線を逸らした。


「ロウェル主任が、留保を誤記として承認へ直す、そういう趣旨の票でした」


 部屋が静まる。


「整えたのですか」


「断りました」


 アデルは即座に答えた。


「断った?」


「はい。内容そのものが、別の責任を動かす票だと分かりましたから。私は返書や祈祷札の文を整えることはあります。ですが、他者の判断を覆す票の文面には触れません」


 その線引きは、たしかに彼女らしかった。


「だが、票は整って法務院へ出た」


 アルヴィンの言葉に、アデルは唇を結ぶ。


「私が断ったあと、イレーヌは部屋を出ませんでした。白票を机へ置いたまま、『少しだけ言い回しの見本帳を貸してほしい』と。私は奥の棚へ取りに行きました。戻ったときには、机の上の票の位置が変わっていて、青砂壺が一つ減っていた」


「他に誰かいた」


 アデルは少しだけ迷った。


「いました」


 エレノアの視線が鋭くなる。


「どなたです」


「顔は、見ていません。聖女様の夜祈りに使う薄布を垂らしたままで……ですが、女の方でした。イレーヌを“急ぎなさい”と叱るような声で」


 聖女付きの女官か、あるいはそれに紛れられる者か。

 まだ決めるには早い。


 ルカは写字机へ近づいた。


 整然としている。

 だが、整然としている机ほど、触られたあとの違和感がよく出る。


 青砂壺は三つ。

 一つだけ半分以下に減っている。

 吸取紙の束は新しい。

 だがその下へ、また一枚だけ古い紙が残っていた。


 灯りへ傾ける。


 圧痕があった。


 ――留保は誤記につき撤回し

 ――補助要員配置を認む


 そして、その下に、左へ寄せるように何度も引き直した署名の試し。


 ロウェルの癖を真似ようとした線だ。


「ここで書いた」


 ルカが言うと、アデルは目を閉じた。


「戻ったとき、吸取紙はもう差し替えられていました。ですが、一枚だけ取り忘れがあったようです」


「あなたは押印も見たか」


「見ていません。けれど、予備印の枠を紙へ当てる乾いた音は聞こえました」


 それで充分だ。


 写字室で文が整えられ、署名位置が試され、予備印が当てられた。

 完成工程の一部はここで行われた。


「言い回しの見本帳を」


 ルカが求めると、アデルは棚から一冊の薄い綴りを出した。


 礼状、返書、病欠連絡、差戻し票、再起票。

 公式文の語句を用途別に並べた私用帳だ。違法ではない。むしろ、こういう整文帳があるからこそ、文章は似た形に収まっていく。


 頁を繰る。


 病欠通知。

 体調不良につき、本日不参。

 上申は後日に改める由。

 どちらも、アデルが整えた小票と一致する。


 さらに後ろ。

 判断変更の文。

 再考のうえ認む。

 条件付承認。

 差戻しの上認可。


 だが、どこにも

 誤記につき撤回し

 は、ない。


 ルカは頁を閉じた。


「この言い回しは、あなたの帳にない」


「ありません」


 アデルは答えた。


「私は、そういう語を勧めません。判断を“誤記”へ落とすのは、書き手の責任を曖昧にするから」


 エレノアが小さく頷いた。


「やはり」


 つまり、病欠小票の文はアデルが整えた。

 だが承認票の核心部分――留保を誤記に変える文――は、ここでは整えられていない。


 そこだけ、別の手だ。


「机の上へ白票を置いた人物は」


 ルカが改めて問う。


「イレーヌです」


「それを急がせた女は」


 アデルは少しだけ眉を寄せた。


「声だけなら、聖女付き筆写補助の……いえ」


 言い直しかけて、止まる。


「何です」


「確信が持てません。ただ、聖女様の祈祷札を届けに来る時の歩き方に似ていた」


 それは曖昧だ。

 曖昧だが、無意味ではない。


 そのとき、エレノアが写字机の脇へ歩み寄った。


 彼女の視線が止まったのは、古い練習帖の一冊だった。

 聖句の書き写しではない。短い礼状や返書の書式練習を綴じたものだ。


「これを」


 彼女が手に取る。アデルは止めなかった。


 頁を開くと、整った字が並ぶ。

 若い手だ。まだ硬いが、真面目に揃えようとしている。

 ミレイユが書いたのか、別の女官かはまだ分からない。


 だが一頁だけ、エレノアの指が止まった。


 そこには、文章ではなく署名位置の練習だけがあった。

 左寄せ。

 半字空け。

 印影の左端に合わせる。


 繰り返し。

 繰り返し。

 繰り返し。


「……こんな練習、させませんわ」


 エレノアの声が低くなる。


 アデルがはっと顔を上げた。


「違います。これは私の課題では――」


「では、誰に」


 ルカの問いに、アデルは唇を震わせた。


「イレーヌが持ち込んだ見本です。『書き写しの位置だけ見てほしい』と。私は断りました。ですから、その頁には触れていません」


 またイレーヌ。


 逃げた本人は、紙のあちこちに痕だけを残している。


 そのとき、監査院受領官が机の下を覗き込み、短く声を上げた。


「ここにもある」


 出てきたのは、切り捨てられた白票の下半分だった。

 上はない。

 だが下部だけで十分だった。


 予備印の試し押し。

 そしてその横に、細い朱で小さく書かれた一行。


 ――取次へ先、上覧後に整文


 ルカの胸が冷える。


 上覧後に整文。


 つまり、この票は完成票ではなかった。

 いったん取次へ滑り込ませ、上へ見せたあとで、さらに文を整え直すつもりだった。


 そこまで急いでいたのだ。


「……順番が逆転している」


 アルヴィンが低く言う。


「普通は整文してから上げる。こいつらは、先に滑り込ませてから直すつもりだった」


「だから承認票が、留保のあとから来すぎている」


 ルカは呟くように言った。


 病欠票も。

 承認票も。

 全部、上へ行く順番だけを優先して、文と印と責任の整え方が後ろへ回っている。


 そのとき、写字室の外で足音が止まった。

 今度は急ぎではない。

 むしろ、追い詰められて覚悟を決めた者の足取りだ。


 扉が開く。


 入ってきたのは、イレーヌ・バルダンではなかった。


 白い外套の若い女官。顔色は真っ青で、手には夜間通行札を握っている。


「近侍殿に……これを」


 差し出された札の裏に、短く走り書きがあった。


 ――イレーヌは北回廊へは行っていません

 ――“先生”の部屋で待てと

 ――でも、先生は今、礼拝棟にはおりません


 署名はない。

 ただし末尾に、小さな聖具室の受領印。


 先生は、ここにいない。


 ルカは写字室の灯りの中で、白い票の切れ端と、その走り書きを並べた。


 筆写教師の部屋は、工程の場所だった。

 だが、そこが最後の場所ではない。


 エレノアが静かに言った。


「“先生”が、筆写教師その人とは限りませんわね」


 その一言で、空気がまた変わる。


 そうだ。

 紙を整える者。

 文字を教える者。

 そして“先生”と呼ばれる者。

 それは、まだ別かもしれない。


 ルカは走り書きの末尾を見つめたまま、次の手を組み始めていた。

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