第十九話 先生は、票を運ばず言葉だけを渡した
人は、顔を隠しても、呼ばれ方までは変えにくい。
だからルカは、名ではなく、呼び方の残り方を追うことにした。
西写字室を出るころには、夜はもう底に近かった。礼拝棟の回廊は冷え、壁の燭火も細くなっている。だが、紙の匂いだけは消えない。蝋と砂と、乾きかけたインクの匂いが、むしろ夜ほど濃くなる。
「“先生”と呼ばれていたのが誰か、写字室の者なら知っています」
ルカが言うと、アデル・ヴェルネはしばらく黙っていた。
その沈黙は抵抗ではなく、答えれば誰かの立場が変わると分かっている者の沈黙だった。
「知っています」
やがて、彼女は低く答えた。
「ですが、先に申し上げます。票を持ち込んだのはイレーヌです。病欠小票の文を整えろと頼んだのも彼女です。先生は……紙を運ぶ方ではありません」
エレノアが静かに問う。
「では、何をする方ですの」
アデルは一度だけ視線を落とした。
「言葉を整える方です。もっと言えば、“どの言葉なら通るか”を教える方です」
その答えは、あまりに本作の敵らしかった。
剣でも、毒でもない。
通る言葉を知る者。
「名は」
アルヴィンが問う。
アデルは答える。
「神殿講読司、セレスティン・オルマー。聖女付きの筆写教師は私ですが、返書や祈祷札の上位の言い回しは、あの方が決めます。若い女官たちは皆、“先生”と呼びます」
新しい名だった。だが、奇妙なくらいしっくりきた。
文字を写す者ではなく、
文字の格を決める者。
「いまどこに」
監査院受領官が問う。
アデルは首を横に振る。
「礼拝棟にはおりません。夜祈りののち、聖具室脇の講読司室へ戻るはずですが……今夜は灯りを見ていません」
また半歩遅い。
ルカはそう思ったが、口にはしなかった。遅くても、順番が残っていれば追える。
「アデル」
ルカが問う。
「イレーヌは、承認票の文を整えようとしたとき、何と?」
アデルは目を閉じるようにして思い出す。
「“先生は、誤記にしておけば責が軽いと”と」
エレノアの表情が、わずかに冷えた。
「軽い?」
「はい。『判断を変えた、では強すぎる。誤記なら後で整えられる』と」
それで十分だった。
“誤記につき撤回し”という異物の正体が、少しだけ輪郭を持つ。
アデルの帳にない。
ロウェルの癖でもない。
だが、“通る言い回し”を教える立場の者が、責を薄めるために選びそうな語だ。
「票は、どこへ運ぶ予定だった」
ルカが重ねる。
今度はアデルがすぐに答えた。
「法務院ではありません」
「何だと」
受領官が低く返す。
「法務院へ出たのは、結果としてそうなったのでしょう。ですが、イレーヌが最初に言っていたのは、“先に取次の白箱へ入れる”でした」
ルカの指が止まる。
取次の白箱。
王太子宮の、正式上覧前の整理票や急ぎ便の仮受けが一時的に入る小箱。
セドリックの手前で、紙の格を整える最後の場所だ。
「つまり、あの承認票は」
アルヴィンが言う。
「最初から法務院へ出す票ではなく、王太子宮の取次を通して、上覧前整理へ滑り込ませるつもりだった」
「はい」
アデルは答える。
「法務院へ直に入れれば、正式票との違いが見える。けれど白箱へ先に入れば、急ぎ補足や上覧前整理の束に紛れさせやすいと」
順番が、また見えてくる。
病欠票を先に宮へ入れる。
ロウェルの上申を止める。
承認票は白箱へ滑り込ませる。
そのあと必要なら、法務院へ“王太子宮経由の急ぎ補足”として流す。
先に宮。
あとで法務院。
最初から、そういう設計だったのだ。
「白箱の持出記録は」
ルカが言う。
監査院受領官が近侍を見る。近侍は短く頷いた。
「取次の白箱は、夜でも受理簿とは別に持出控えがあります」
「今すぐ」
「案内する」
王太子宮の取次室は、昼と夜で顔が違う。
昼は人の往来でざわつく場所だが、夜は積まれた箱と票だけが沈黙している。白箱はその中でも小さく、しかし妙に目立つ。机脇の棚に据えられ、急ぎ仮受けの紙だけをいったん飲み込む箱だ。
取次補助の席は空だった。
イレーヌ・バルダンが座っていたはずの場所も、もう夜の整理だけが残っている。
「持出控えを」
近侍が命じると、残っていた若い取次女官が震える手で帳面を出した。
白箱持出控え。
茶会前日、夕刻。
病欠票 一通。
白箱仮受。
整理先――書記局内上覧前卓。
ルカはそこを押さえた。
そしてその少し下。
――教育側補足票 一通。
――白箱仮受。
――整理先――同上。
――取扱 I・B
I・B。
イレーヌ・バルダン。
これで少なくとも、承認票が最初に向かった先は取次白箱だったと切れる。
「その票は、その後どこへ」
ルカが問う。
若い取次女官は泣きそうな顔で答えた。
「夜半前、レナート次席が……白箱から二通だけ抜きました」
エレノアが息を呑む。
「二通」
「はい。病欠票と、もう一通」
承認票だ。
「理由は」
「“上覧前に整え直す”と」
またその語だ。
整える。
整文。
整え直す。
誰も“偽る”とは言わない。ただ整えるだけだと言い換えて、順番を踏み越えていく。
ルカは帳面をさらに追った。
夜半前。
白箱より二通抜出。
持出者 レナート・セルヴィス。
同席確認 イレーヌ・バルダン。
その横、備考に小さく一行。
――講読司確認済
講読司。
セレスティン・オルマーだ。
「ここです」
ルカが言う。
「承認票は、取次白箱からレナートが抜いた。その時点で、講読司確認済になっている」
「つまり“先生”は」
アルヴィンが低く続ける。
「白票の言い回しを見て通した」
「はい」
だが、それでもまだ足りない。
言葉を整えた。
確認した。
しかし、誰が白票を実際に持ち込み、誰がロウェルの控えを抜き、誰が病欠票を先に滑り込ませたか。その全部が一人ではない。
「イレーヌは、最後にどこへ行くつもりだった」
ルカが若い取次女官へ問う。
女官は怯えながらも答えた。
「北回廊ではありません。南の……私的書庫脇です」
それは第十一話の夜へ、きれいに繋がる。
私的書庫。
そこへ行く予定だった。
だから承認票は、法務院より前に宮の奥で整えられていた。
「そのあと、姿を消した」
「はい……でも」
女官は唇を震わせた。
「私は、外へ逃げたとは思いません。白手袋を受け取りに行く、と」
白手袋。
上覧前の紙に触るための手袋だ。
つまりイレーヌは、最後まで取次補助の立場で動いていた。逃亡というより、次の工程へ進んだつもりで消えたのかもしれない。
そのとき、近侍が取次机の奥の細い抽斗を引き、低く声を上げた。
「これを」
出てきたのは、白手袋の片方だった。
右手だけ。
指先に薄い灰と青砂がついている。
そして手首の内側に、小さな赤い染み。
印泥ではない。
封蝋を扱ったときにつく、乾いた赤だ。
ルカはその手袋を見つめた。
取次白箱。
上覧前整理。
レナート。
セレスティン。
イレーヌ。
全部がようやく一つの部屋へ寄ってきた。
「イレーヌは、まだ宮の中にいます」
ルカは言った。
近侍が鋭く顔を上げる。
「根拠は」
「白手袋を片方落としている。外へ出るなら、わざわざ上覧前の手袋を途中で捨てません。使い終えたあと、どこかで着替える前に途切れた」
エレノアが静かに言う。
「つまり、逃げたのではなく、切り替えた」
「はい」
「誰か別の役を着せられたか、あるいは別の部屋へ匿われたか」
その一言で、近侍が受領官を見る。
受領官は頷いた。
「取次から私的書庫脇までの夜間通行札、白手袋受領箱、南回廊の出入簿を全部押さえる。いまからだ」
足音が一斉に動き出す。
だがその前に、ルカは一つだけ必要なことを問った。
「アデル。講読司セレスティン・オルマーは、今どこに」
アデルは一瞬、躊躇した。
「礼拝棟にはおりません」
「では」
「……聖女様の朝の返書は、夜明け前に一度、奉納箱へ移されます。先生が確認なさるのは、その前です。もし今も紙を整えているなら」
彼女は顔を上げる。
「礼拝棟の奉納控え室です」
奉納控え室。
祈祷札、返書、献納者名簿。
どれも、“聖女の名で通る紙”ばかりが集まる場所だ。
エレノアが小さく言った。
「言葉を整えるには、いちばん都合のいい部屋ですわね」
ルカは頷いた。
病欠票を先に宮へ入れる。
承認票は白箱へ。
取次で抜き、白手袋を受け取り、私的書庫脇へ進む。
そして最後に、聖女の名で通る紙の部屋で文を整える。
その順番が、ようやく一本に繋がった。
そのとき、南回廊の向こうから、鐘ではない金属音が短く鳴った。
鍵が落ちたような、軽い音。
次の瞬間、近侍の一人が振り返る。
「奉納控え室の方角です」
全員が顔を上げた。
また半歩遅れれば、紙が消える。
だが今度は、どこへ向かったかがもう分かっている。
ルカは白手袋を小紙へ包みながら、すでに走り出していた。




