第二十話 奉納控え室は、灰青の原票を隠していた
奉納控え室の鍵音は、祈りの前ではなく、祈りのあとに残る。
だからルカは、鍵が落ちたあとの静けさを信用しなかった。
南回廊を駆けるあいだ、礼拝棟の壁は夜の冷たさを深く溜め込んでいた。奉納控え室は、その奥まった角にある。祈祷札、献納者への返書、聖女名義で外へ出る紙。そういう“通る紙”ばかりをいったん預かる部屋だ。
通る紙が集まる場所なら、通したい偽りも紛れ込みやすい。
扉は閉まっていた。だが鍵はかかっていない。
近侍が先に押し開けると、薄い灯りの中に、人影が一つだけあった。
イレーヌ・バルダンだった。
白い外套は脱ぎ、袖をまくっている。机の上には返書束が三つ、奉納控えの薄箱が二つ。その一つへ、彼女は何か細長いものを滑り込ませようとしていた。
「その手を止めろ」
監査院受領官の声が落ちる。
イレーヌの肩が跳ねた。だが振り向いた顔は、泣き崩れる者の顔ではなかった。むしろ、もう遅いと分かっている者の顔だった。
「……来るのが早いのですね」
第十一話のレナートと同じ言葉だった。
この一連の歪みは、いつも相手が“あと少しあれば整えられた”と思う地点で崩されている。
ルカは机へ近づいた。
返書束は、どれも表向きはきちんとしている。宛名、返書札、講読司確認の小印。だが一番右の束だけ、下敷きの厚みが妙だった。紙の束にしては硬いものが一枚、混じっている。
「これは」
ルカが手を伸ばすより先に、イレーヌが動いた。
束を抱え込もうとする。
だが兵士のほうが早かった。机の脇へ腕が伸び、束ごと押さえ込まれる。紙が一枚、はらりと床へ落ちた。
白票ではない。
灰青だった。
ルカの呼吸が一瞬、止まる。
エレノアがその色を見た瞬間、足を止める気配があった。彼女も分かったのだ。
教育側仮置票の色だ。
ルカはしゃがみ込み、床へ落ちたその一枚を拾い上げる。
灰青。
紙質は厚く、端の繊維は教育棟の正式票そのもの。
左へ寄せた署名。
主催側確認印。
そして、文。
――主催側確認 留保
――氏名後補のまま導線へ加えること不可
――返送先 王太子宮付書記局
署名。
マグダレナ・ロウェル。
本物だった。
偽の承認票ではない。
吸取紙の圧痕でも、白起こしでも、転記控えでもない。
教育棟から出た、本来の灰青の原票。
部屋の空気が一瞬で変わる。
アルヴィンの喉が、低く鳴る。
「……ようやく出たか」
エレノアはすぐには声を出さなかった。
その代わり、票の左寄せの署名位置と、印の枠を見て、静かに目を閉じた。
「主任の手です」
短い断言だった。
だが、それで十分だった。
イレーヌは椅子へ凭れたまま、もう束を取り返そうとはしなかった。
「それを、朝の奉納便へ混ぜるつもりだったのですね」
ルカが言うと、イレーヌは乾いた笑いを漏らした。
「混ぜる? 違いますよ。戻すだけです」
「戻す?」
「表へ出すには遅すぎたから。なら、いったん聖女の紙に紛れさせて、あとで整え直すしかないでしょう」
整える。
またその言葉だ。
「この原票が残っていては、整えられない」
ルカの言葉に、イレーヌは視線を上げた。
「だから隠した。ええ。そうです」
開き直ったような声音だった。
「白票は通りやすい。けれど灰青の原票が出れば、全部が崩れる。先生もそう言いました」
「先生は」
エレノアが静かに問う。
「セレスティン・オルマーですの」
イレーヌは少しだけ笑みを消した。
「……先生は、票を隠せとは言いません。言葉を選びなさいとしか」
「“誤記にしておけば責が軽い”」
ルカが言うと、イレーヌの目が揺れた。
「そう。あの方は、そういう方です。責は人に貼るより、紙へ落としたほうが通ると」
アデルが言ったことと繋がる。
セレスティンは、票を運ばない。
だが、通る言葉を渡す。
「では、原票をここへ運んだのは誰」
受領官が問う。
イレーヌはすぐには答えなかった。
その沈黙のあいだに、ルカは原票を裏返した。
そこで、胸の奥が冷えた。
裏面下部に、小さな受理押しがある。
王太子宮取次 仮受。
しかも、その脇に薄く走る手書き。
I.B.
イレーヌ・バルダン。
原票は、王太子宮の取次まで届いていた。
届いたうえで、表へ上がらず、引き戻され、ここへ隠されたのだ。
「……やはり」
ルカの声は低かった。
「この原票は、王太子宮の取次まで行っている」
近侍が一歩前へ出る。
「仮受印が本物なら、白箱へ入る前か、同時に取次が触れている」
イレーヌの唇がわずかに震えた。
「白箱へは入れていません」
「では」
「私が止めました」
今度は、はっきりとした答えだった。
「主任が上へ行くと知って、病欠票を先に宮へ入れた。けれどそれだけでは足りないと思った。だから、主任の灰青票も取次で受けたふりをして引きました。白箱へ乗れば、殿下の目に入るかもしれないから」
順番が、また一つ確定する。
ロウェルの上申は受理された。
その前に病欠票が先行した。
そして、灰青の原票そのものは取次仮受で止められ、白箱へすら乗せられなかった。
「誰の指示で」
アルヴィンの問いに、イレーヌはゆっくりと首を振った。
「病欠票を先に入れろと言ったのは、宮付の空気です。名前ではない。聖女関連を止めるな、遅らせるな、上へ不手際を見せるな――そういう空気です」
それは第十二話でセドリックが認めた、自分の曖昧な指示の悪用とも重なる。
「ですが、灰青票を引いたのは私の判断です」
イレーヌは続けた。
「先生は、文だけ整えた。副主任は、上申を預かった。レナート次席は、白票を整えて回した。けれど、灰青票を白箱へ行かせなかったのは、私です」
部屋が静まる。
全員が、責任の重さを測っている沈黙だった。
ルカは原票の裏をもう一度見た。
I.B. の脇に、さらに細い走り書きがある。
――講読前
講読前。
つまり取次仮受のあと、セレスティンのいる講読司系統へ回す前提だったことになる。
「原票は、取次で止めたあと、講読司へ回すつもりだった」
ルカが言うと、イレーヌは苦く笑った。
「ええ。先生に見せれば、もっと“きれいに”隠せるかもしれないと思った」
「だが、できなかった」
「先生は、原票そのものには触れません」
アデルと同じ線だ。
「ならなぜ、この部屋に」
「奉納便なら、朝まで誰も細かく見ないからです」
イレーヌは視線を落とした。
「先生の部屋では危ない。取次席ではもっと危ない。私的書庫はもう監査院が入った。だから、いったん聖女の返書束に紛れさせるしかなかった」
その答えは、皮肉なくらい合理的だった。
合理的であることが、余計に冷たい。
「イレーヌ」
エレノアが初めて、彼女の名を呼んだ。
その声は高くなかった。
だが、灰青の原票を持つ手は少しだけ強くなっていた。
「あなたは、ロウェル主任の字を見ていたのでしょう」
「……ええ」
「それでも、これを隠した」
「はい」
「なぜ」
イレーヌは、そこで初めてエレノアをまっすぐ見た。
「あなたには分からないでしょうね」
その言葉に棘はなかった。棘がないからこそ、かえって痛かった。
「聖女様のまわりでは、一度“止まった”と見えた紙は、それだけで敗けなんです。正しいかどうかより先に、滞りが見えることが許されない」
エレノアはすぐには答えなかった。
たぶん、それがどれほど卑怯な理屈かを理解しつつ、同時に、宮廷ではそういう空気が現実に人を動かすことも知っているからだろう。
「だから」
イレーヌが言う。
「主任の留保は、間違っていたかもしれないけれど、通してはいけなかった」
間違っていたかもしれない。
その曖昧な言い方に、ルカは逆に本音を見る。
彼女は、ロウェルの判断が間違いだと確信していたわけではない。
ただ、“通すと困る”と思ったのだ。
「受領官」
ルカが言う。
「この原票で、承認票の主たる根拠は完全に崩せます」
「当然だ」
受領官は頷く。
「原票は仮受まで行き、取次補助イレーヌ・バルダンの手で止められた。供述も取れた」
「それと」
ルカは原票の裏の小さな“講読前”を指した。
「ここも重要です。先生――講読司セレスティン・オルマーの系統へ、原票を回す予定があった」
エレノアが小さく言う。
「言葉を整えるだけではなく、原票を見せるつもりでもあったのですね」
「はい」
アデルが言った“先生は票を運ばず言葉だけを渡した”という線は、まだ崩れない。
だが、原票を見せる予定があったなら、少なくともセレスティンは“何の票か”を知る位置にはいたことになる。
「セレスティンは今どこだ」
受領官が問うと、イレーヌは首を振った。
「知りません。ただ……礼拝棟の奉納鐘が二つ鳴る前には、外へ出ません」
「奉納鐘二つ」
近侍が眉を寄せる。
「もうすぐだ」
外で、遠く小さな鐘の音が一つ鳴った。
残りは一つ。
つまり、セレスティンがまだ礼拝棟内にいる可能性が高い。
そして鐘が二つ鳴れば、外へ出る口実が立つ。
「分かれて押さえる」
受領官が即座に決めた。
「原票は記録院で保全。イレーヌは監査院立会でここに固定。近侍は講読司セレスティンの部屋と南門寄りの出入口を切れ」
足音が一斉に動く。
そのとき、ルカは返書束の一つに、まだ違和感が残っているのに気づいた。
右端の束だけ、厚みが不自然だ。
「待ってください」
束を解く。
中から出てきたのは、返書ではない。細い白札が三枚。いずれも宛先なし。だが文頭だけが書かれている。
――誤記につき
――体調不良につき
――上覧前整理により
言葉の切れ端だけ。
整文のための見本札だ。
「……先生は、票を作っていない」
ルカが呟く。
「言葉だけを切り出して、渡している」
エレノアが静かに続けた。
「誰でも繋げられるように」
それで、すべてがまた別の意味を持つ。
セレスティンは、完成文を書かない。
責任を持つ票も作らない。
ただ、通る言葉の部品だけを渡す。
だからこそ、誰がどこで繋げたかが曖昧になる。
そのとき、二度目の鐘が鳴った。
礼拝棟の奥から、低く、短く。
奉納鐘、二つ。
近侍が扉へ向けて走る。
ルカも原票を包みながら立ち上がった。
だが、その一歩を出す前に、廊下の向こうから叫び声が飛び込んできた。
「南門寄りの回廊で、女が一人倒れています!」
全員が凍る。
「誰だ」
「講読司の外衣です! でも顔が――」
伝令の声が裏返る。
「――顔を布で隠していて、まだ分かりません!」




