第二十一話 貸出票は、声の主を先に知っていた
南門寄りの回廊で倒れていた女は、セレスティン・オルマーではなかった。
顔を覆っていた布を外した瞬間、アデル・ヴェルネが小さく息を呑んだ。
「……ルネです」
まだ若い。二十にも届いていないだろう。講読司付きの見習い書記で、普段は写字室の下働きをしている娘だという。薄い講読司の外衣を着せられているが、袖の長さが合っていない。肩も少し余っていた。
倒れていたというより、座らせたまま意識を落とされていた形だった。手首には柔らかい綴じ紐の痕があり、口元の布には甘い鎮静香が残っている。殺す気はなかった。ただ、ここで見つかれば“講読司の女が倒れていた”という印象だけが先に走るよう、そう置かれていた。
アデルがしゃがみ込み、娘の額へ手を当てる。
「熱はありません。眠らされただけです」
近侍が布を受け取る。ルカはその布の端を見た。青砂が一粒、縫い目に噛んでいる。
また青だ。
「持ち物は」
監査院受領官が問うと、兵士が小さな革袋を差し出した。中から出てきたのは、講読司の小鍵、白い手袋の左手、そして薄い木札だった。
木札の表には、細い字でこうある。
――講読札箱 六
――返納前
裏には、走り書きが一つ。
――先生へ戻すこと
ルカはそれを見て、すぐにアデルへ向いた。
「講読札箱は何を入れるものです」
「文の部品です」
アデルは立ち上がりながら答えた。
「病欠、差戻し、返書、赦し、慰撫……用途ごとに短い定型句を札にして箱へ分けています。全部を帳へ書くより早いので」
言葉の部品。
前話で見つけた白い見本札と繋がる。
「六の箱には」
アデルは少しだけ迷った。
「責を薄くする言い回しが入っています。“誤記につき”“不手際ながら”“後日あらためて”……そういう札です」
それで十分だった。
“誤記につき”は、まさにそこから来ていた。
礼拝棟講読司室は、奉納控え室から一つ回廊を挟んだ先にある。扉は閉まっていたが、鍵はかかっていない。中へ入ると、整った棚と低い机が二列、壁際には小箱が数字順に並んでいた。
一から九まで。
そのうち、六の箱だけが開いている。
ルカは箱の中を見た。中身は半分ほど抜かれていた。残っている札には、
――後日に改めて
――不備につき差戻し
――申し開きなく
などがある。だが、
――誤記につき
――撤回し
――上覧前整理により
その三枚だけがない。
「抜かれたのは、これですね」
ルカが言うと、アデルは小さく頷いた。
「ええ。六の箱から、その三枚だけ」
監査院補佐が別の棚から薄い帳面を持ってきた。
札箱貸出票。
頁を開く。日付は茶会前日。夕刻二刻。
――病欠通知用句札 一式
――借出 I.B.
イレーヌ・バルダン。
さらにその少し下、夕刻三刻。
――責軽減句札 六より三枚
――講読司室内閲覧
――立会 C.O.
C.O.
セレスティン・オルマー。
ルカの目が止まる。
「借出ではなく、室内閲覧」
「持ち出しは許されませんから」
アデルが答えた。
「箱は部屋の中だけで開ける決まりです」
つまり、言葉の部品はこの部屋で選ばれた。
“誤記につき”“撤回し”“上覧前整理により”――承認票とその周辺で使われた、あの異物の語群は。
「そのとき、誰がいました」
アルヴィンが問う。
アデルは、机の脇へ視線を落とした。
「セレスティン先生。イレーヌ。そして……もう一人」
エレノアが静かに言う。
「聖女様、ですの?」
アデルは首を振った。
「いいえ。聖女様付きの読誦補助です。神殿内では、先生の補佐として女官に読み方や書き方を教える役。名はレオニー・サール」
また新しい名だ。
だが今回は、唐突ではない。
“先生”の部屋で、言葉の部品を選べる位置。
しかも、写字や読誦の実務をまたぐ者。
「その女は、いつも“先生”と?」
ルカが問う。
「はい」
アデルは答える。
「若い者は皆、講読司の長をそう呼びます。ですが、レオニーは……先生の隣で、札を選ぶ側でした」
それでようやく見える。
セレスティンは言葉の基準を持つ。
レオニーは、その場で必要な札を選ぶ。
イレーヌは、それを運ぶ。
「セレスティン本人は、どこに」
受領官が問う。
アデルは唇を引き結んだ。
「分かりません。ただ、先生は夕刻以降、講読司日誌へ自分の退出記録を残していません」
「日誌を」
出された日誌の末尾は、そこだけ二行空いていた。本来なら夜祈り前後の確認印が入る時刻だ。空白は不自然だが、もっと不自然なのは、その空白の端にごく薄く砂が擦れていることだった。青ではなく、白に近い灰の砂。
消しかけた跡だ。
「退出記録を消した」
ルカが言うと、アデルは目を伏せた。
「……はい。たぶん」
ルカは机の上へ目をやった。小箱の並びの前に、薄い練習札が一枚だけ残っている。表には何もない。裏返すと、そこには細い字で、一行だけ書かれていた。
――責は、言葉へ落とすこと
誰の格言か、言うまでもなかった。
セレスティンの机に置かれた、それはたぶん、教えであり、口癖であり、同時に自分への免罪でもあったのだろう。
エレノアがその札を見て、低く言った。
「文の品位と責任は別……」
アデルは返さなかった。返せなかったのだろう。
「レオニー・サールは今どこです」
ルカの問いに、アデルはすぐに答えた。
「夜祈りの後、聖女様付きの返書束を奉納控え室へ戻す役目です。ですが、今夜はまだ戻っていないはずです」
近侍が顔を上げた。
「奉納控え室から出ていないのか」
「なら、まだ礼拝棟内にいる可能性が高い」
監査院受領官が短く言う。
そのとき、床に横たえられていたルネが、かすかに呻いた。アデルがすぐに膝をつく。
「ルネ。分かりますか」
娘のまぶたが震える。焦点の合わない目が、部屋を見回し、それから机の上の六の箱で止まった。
「……先生、が」
掠れた声だった。
「何です」
「六……三枚、だけ……抜いて……“順番は、票の外で直す”って……」
ルカの背中を冷たいものが走る。
票の外で順番を直す。
つまり完成票を作る前から、言葉の部品と持込経路で勝負を決めようとしていたのだ。
「誰が言った」
アデルが問う。
ルネは少しだけ首を振る。
「先生、じゃない……もう一人の、先生……」
部屋が一瞬、完全に止まった。
エレノアが小さく呟く。
「やはり」
セレスティンだけではない。
若い者たちが“先生”と呼ぶ相手が、もう一人いる。
「名前は」
ルカが問うと、ルネの唇が震えた。
「……レオニー様が、そう呼んでた……“主任先生”って」
主任先生。
講読司の長ではない。
それより上か、あるいは聖女付きの教育を司る別の役。
アデルが青ざめた顔で言う。
「神殿講読司の主任は……一人しかいません。ですが、礼拝棟では、聖句講読だけを統べる別の役がいます」
「誰だ」
アルヴィンの声が低く落ちる。
アデルは答えた。
「聖句主任、エルマ・ルーセン」
また新しい名。
だが今度は、ただ増えたのではない。
“先生”が二重だったという形で、今までの曖昧さへ筋を通す名だった。
「その者は、どこに」
「夜祈りのあと、奉納前の最終講読に立ち会います。今夜も……おそらく奉納控え室の奥、講読席裏に」
外で、また短い金属音がした。
今度はさきほどより近い。
奉納控え室ではない。この部屋のさらに奥だ。
礼拝棟の奥。講読席裏。
ルカは六の箱と貸出票、そしてルネの掠れた証言を、一つの線として胸の内に留めた。
セレスティンは言葉の基準を持つ。
レオニーは札を選ぶ。
イレーヌは運ぶ。
だが順番そのものを“票の外で直す”と言ったのは、もう一人の“先生”。
鐘より速く、紙より先に、順番を支配していた者だ。
「行きます」
ルカが言うと、近侍も受領官も、もう止めなかった。
全員が同じことを理解していた。
ここで遅れれば、今度こそ“先生”の声だけが残って、紙は消える。




