第八話 見本帳は、欠けた順番を知っている
印は、紙より先に人を裏切ることがある。
それが本物か偽物かではない。
誰が、どの順番で、その印を使う立場にいたか。
そこが崩れた瞬間、どれほど整った文書でも嘘の匂いを帯びる。
夜の記録院は静かだった。
第三記録室の灯りだけがまだ落ちず、机の上には、神殿連絡室から持ち出した焦げた回覧簿の写しと、監査院受領官から回された小片が並んでいる。
――主催側確認印、未了につき仮置
――宮付返答待ち
――署名欄、マ……
ルカはその最後の一文字を見下ろしていた。
マ。
マルセルか、マグダレナか、別の誰かか。
今はまだ、名前を当てることに意味はない。必要なのは、この書式の中で「署名欄」に名を置ける人間が誰だったかを知ることだ。
「見本帳はこっちだ」
アルヴィン室長が、古い革表紙の綴りを机へ置いた。
王太子妃教育側内務印見本帳。
茶会、夜会、儀礼昼食会。主催補助に関わる印影と、確認を許される役職名がまとめられている。
ルカはすぐに頁を繰った。
主催側確認印。
主催補佐印。
教育主任確認印。
内務回付済印。
どれも楕円か円形で、印影の大きさも枠も整っている。焦げた小片に残っていた文の並びと照らし合わせると、欠けた箇所は印影そのものではなく、その横に付く手書き署名欄の可能性が高かった。
「印じゃない」
ルカが言う。
「欠けたのは、印欄ではなく仮置責任者の署名欄です」
アルヴィンが短く頷く。
「主催側確認印が未了なら、紙をそのまま流せる者はいない。いったん誰かの仮置きになる」
「その仮置き署名を置けるのが誰か」
「王太子宮付書記局側なら上席書記官、教育側なら内務主任以上だ」
王太子宮付書記官マルセル・ドーレン。
それから、エレノアが前話で口にした教育係側。
「文書は来ています」
机端に置いてあった封書を、ルカは軽く持ち上げた。王太子宮付書記局からの正式な呼出状だ。
急ぎだが、文書で出してきた。そこにマルセルの慎重さが見える。
「行くか」
「行きます」
「ひとりで?」
ルカは少し考えた。
「記録補助を一人だけつけます。会話を全部その場で記録に乗せるために」
アルヴィンはそれでよしとしたらしい。
「紙片はまだ出すな」
「はい」
「先に相手の口から、どこまでが正規で、どこからが正規でないかを言わせろ」
それが正しい順番だった。
王太子宮付書記局は、王宮の奥でもさらに一段静かな場所にある。
深夜に近い時刻だというのに、廊下の燭火は切れておらず、帳簿棚の影が長く伸びていた。昼間よりもむしろ、ここが紙で人を動かす場所だと分かる静けさだった。
通された小応接室で待っていたマルセル・ドーレンは、昼間と同じく整った身なりを崩していなかった。
ただ、その眼の下には薄く疲労が落ちている。
「来ていただけて助かります、ルカ殿」
「文書で呼ばれましたので」
ルカはそう返し、同行した記録補助官が記録板を開くのを待ってから席についた。
マルセルはその手元を見て、ごくわずかに口元を硬くした。
「記録を取るのですね」
「今夜の件は、そのほうが安全です」
「……私にとっても、という意味なら同感です」
その言い方で、ルカは少しだけ相手への見方を変えた。
少なくともこの男は、いま自分の局が疑われる側にいることを理解している。
「お聞きしたいのは三点です」
ルカが言う。
「茶会前日に神殿連絡室へ回った“雑務補助一名仮付”の起案経路。主催側確認印が未了のまま仮置となった理由。最後に、その仮置署名欄へ名を置けた人物です」
マルセルは黙って聞き、すぐには答えなかった。
嘘を選ぶ沈黙ではない。どこまで出すべきかを量る沈黙だった。
「まず一つ目ですが」
彼は机の引き出しから、控え綴りを一冊取り出した。
「茶会前日、王太子宮付書記局から神殿連絡室へ“雑務補助一名仮付”の要請が出ています。これは事実です。理由は、もともと南回廊配膳補助に入る予定だった王宮女官が熱を出したためです」
ルカの横で、記録補助官の筆先が走る。
「氏名後補、だったのは」
「神殿側から代替要員の候補を受ける前提だったからです。本来は、その候補名が返ってきてから、主催側確認印を取って導線へ組み込みます。名が空白のまま実施に流すことはありません」
ここまでは自然だ。
「では二つ目。なぜ主催側確認印未了のまま仮置に」
マルセルは控え綴りのある頁を開いた。
そこには、確かに宮付書記局発の要請控えがあり、返答待ちの欄に線だけが引かれている。
「候補名の返答が遅れたからです。茶会は翌昼。主催側――つまり王太子妃教育側の内務確認が必要でしたが、教育主任が他の確認で席を外していた」
「教育主任とは」
「マグダレナ・ロウェルです」
マ、の線がひとつ引かれた。
ルカは表情を変えなかったが、胸の内では小さく頷く。
エレノアの王太子妃教育を統括していた人物なら、主催側確認印に関わるのは自然だ。
「では、仮置署名欄の“マ……”は」
マルセルはそこで初めて、ルカをまっすぐ見た。
「たぶん、私ではありません」
たぶん、という言い方がむしろ真実味を持つ。
「私が仮置に回す場合は、署名ではなく書記局略号を使います。個人名を仮置署名欄に置くのは、教育側の内務処理です」
「マグダレナ・ロウェル」
「ええ。少なくとも運用上は」
記録補助官がその名を書き留める音が、小さく響いた。
「ですが」
マルセルはすぐに続けた。
「ここで誤解は避けたい。ロウェル主任が不正に関わったと申し上げたいのではありません。むしろ逆です。彼女は、名前のない補助要員を導線へ入れることを嫌う人でした」
その評価は、エレノアの口ぶりとも食い違わない。
「なら、なぜ未了のまま紙が走ったのですか」
「そこです」
マルセルの声が少し低くなる。
「私はその日の夕刻、返答がまだ来ていないことを確認した時点で、紙を仮置き箱へ戻しました。翌朝、確認済みで戻ると思っていた。ですが、茶会当日昼前には、その件そのものが局内の表の流れから消えていたのです」
ルカの指先が止まる。
「消えた?」
「仮置き箱から、です。主催側確認が下りたなら、正式回付へ移ります。差し戻しなら差し戻し記録が残る。どちらでもないまま、表向きの流れからだけ外れた」
「その時点で追わなかったのですか」
ルカの問いに、マルセルは一瞬だけ沈黙した。
「……追うべきでした」
その一言には、言い訳より先に悔いがあった。
「ただ、茶会当日は別件の回付が重なっていた。聖女関連の文書は、法務院からも神殿からも急ぎが多かった。後で確認しようとして、そのままになった。結果として、いま局ごと疑われている」
ここには利害がある。
だからこそ、この男の情報はそのまま信じず、順番で確かめる必要がある。
「青砂についても伺います」
ルカが言うと、マルセルの目が少しだけ動いた。
「宮付書記局の急ぎ文書に使うのですね」
「はい。灰砂では取り違えが起きるため、急ぎ写しだけは青砂です」
「茶会前日の仮付要請も」
「急ぎ扱いでしたから、青砂が使われた可能性はあります」
可能性、という言い方が慎重だ。
「ですが、青砂は宮付だけのものではありません。教育側の急ぎ文書でも臨時に回されることがある」
「教育側にも」
「茶会や夜会の最終調整だけは、箱を分けずに一括で持ち回ることがあります」
それで線がさらに一本複雑になる。
青砂は王太子宮の専売ではない。
だが少なくとも、主催調整文書の近くにいた者の痕跡ではある。
「最後に確認します」
ルカは焦げた小片の写しだけを卓へ出した。原物ではない。写しだけだ。
「この書式に、見覚えは」
マルセルは写しを見て、表情を変えないまま数拍止まった。
「あります」
「どの書式ですか」
「教育側仮置票です。主催側確認印が未了のとき、返答待ちの紙へ付ける暫定票。書記局では使いません」
それで十分だった。
“マ……”は、やはりマグダレナ・ロウェルである可能性が高い。
そして、茶会前日の時点で、王太子宮付書記局から出た空白紙が、教育側の仮置票に乗っていた。
ルカは写しを回収した。
「本日の確認事項は以上です」
「記録は残りますか」
「残ります」
マルセルは小さく息を吐いた。
「なら、一つだけ付け加えたい」
「どうぞ」
「ロウェル主任は、茶会の翌日から王宮教育棟へ出ていません」
ルカは顔を上げた。
「病欠では?」
「表向きはそうです。ですが、私の知る限り、彼女は病欠の際でも必ず代理指示票を置く。今回はそれもない」
それは不自然だった。
「所在は」
「居室は閉じられています。開けるには、教育棟管理官か、王命が要る」
話が終わるころには、夜はさらに深くなっていた。
王太子宮付書記局を出たルカは、冷えた廊下を急ぎ足で戻りながら、頭の中で線を並べ直す。
王太子宮付書記局から、氏名後補の仮付要請。
教育側の仮置票。
マグダレナ・ロウェル。
青砂。
そして神殿連絡室の焼損。
法務院の差し替え頁は、いきなり生まれたのではない。
茶会前日の空白紙から、少しずつ順番をねじ曲げて育てられている。
第三記録室へ戻ると、アルヴィンはまだ机を離れていなかった。
ルカが要点を告げると、室長はすぐに決めた。
「次は教育棟だ」
「ロウェル主任の居室ですか」
「それと、主催側確認印の使用簿」
印の見本ではない。使用簿。
誰が、いつ、その印を持ち出したかを記すほうだ。
「開けられますか」
「監査院預かりの文言を使えば、教育棟管理官は拒めないはずだ」
そのとき、外で控えていた補助官が扉を叩いた。
「室長、ヴァレンティア様から」
渡されたのは、短い手紙だった。
丁寧な字で、必要なことだけが書いてある。
――ロウェル主任の使用する教育側仮置票は、通常、淡い灰青の紙です。
――もし焦げた小片が白紙であるなら、後から別紙へ転記された可能性があります。
――また、主任は右端ではなく左端へ名を寄せて署名する癖があります。
ルカは読み終え、静かに紙を置いた。
ここでもまた、エレノアは自分の知る範囲だけを正確に寄越してくる。
踏み込みすぎず、それでも刺さる情報だけを。
「灰青紙か」
アルヴィンが言う。
「神殿連絡室から拾った小片は白かったな」
「はい。かなり薄い白です」
「なら、焦げた原票そのものじゃない。誰かが転記した写しの可能性が出る」
つまり、
マグダレナ本人の仮置票が焼けたのではなく、
その内容を誰かが別紙に写し替え、さらに焼却を試みた可能性がある。
順番がまた一段見えてくる。
「今から教育棟は閉まっています」
補助官が言った。
「夜番しかおりません」
「だからこそ行く」
アルヴィンは立ち上がった。
「朝になれば、消える紙が増える」
その言葉が終わる前に、廊下の向こうで駆け足が近づいてきた。
今夜は本当によく走る夜だ、とルカは思った。
次の報せは何だ。法務院か。監査院か。王太子宮か。
だが飛び込んできたのは、教育棟の夜番女官その人だった。顔色を失い、息を乱し、ほとんど転がり込むようにして扉口に立つ。
「記録院の方……!」
「どうしました」
女官は喉を震わせ、やっとのことで言葉を出した。
「ロウェル主任の居室が……中から荒らされています。しかも、印箱だけがありません」




