第七話 燃え残った回覧簿
神殿連絡室へ近づくにつれ、煙の匂いは火事のそれから、濡れた紙の匂いへ変わっていった。
石造りの廊下に水が細く流れ、扉の前には神殿側の下働きたちが青ざめた顔で立ち尽くしている。炎そのものはすでに落ち着いていた。だが、鎮火したあとのほうが、かえって人は何を失ったかを思い知らされる。
ルカ・エヴァレットは濡れた敷布を避けて室内へ入った。
思ったより焼けていない。
それが最初の印象だった。
石壁と床は煤けている。だが天井まで炎が走った気配はない。焼損は室の南側、書架ひとつぶんにほぼ限られていた。隣の棚は煤をかぶってはいるが、焼け落ちてはいない。窓辺の卓も無事だ。燭台は倒れておらず、炉の灰も散っていない。
自然に広がった火ではなかった。
「けが人は」
ルカが問うと、入口脇にいた神殿連絡室の女官が首を振った。
「おりません。煙が出たのが早かったので、水桶ですぐに叩きました」
声が震えている。だが気丈に持ちこたえていた。
その隣で、監査院受領官が濡れた手袋を外しながら言う。
「焼けたのは補助記録棚だけだ。主簿箱と鍵棚は無事。火が回る前に止まっている」
ルカは焼けた棚へ近づいた。
下段が激しく黒くなっている。逆に上段は煤こそ濃いが、炎に舐められた跡は浅い。火元は下からだ。しかも棚の前床だけが不自然に焦げ、そこに黒だけではない細かな粒が混じっていた。
しゃがみ込み、指先で拾う。
青い。
ほんのわずかだが、濡れた煤の中に、砕けた空色の粒が混じっている。
またこれだ、とルカは思う。
回廊。面会室。簿冊の備考欄。ニコラスの裾。
毒の沈みかもしれないと考えていたあの色が、今度は焼け跡の床にまで落ちていた。
「ここには何がありました」
神殿の女官は濡れた袖を握りしめた。
「補助要員の回覧受領簿と、仮付申請束、それから差替修補の届出綴りです」
順番に、燃やされたのだと分かる品揃えだった。
正規の名簿そのものではない。
だが、どの紙がどの経路で来て、どの時点で仮に付され、正式番号が振られたか――それを示す周辺記録ばかりだ。
差し替え頁がどこから来たのかを辿るなら、まさに必要な棚だった。
「主簿箱は」
「こちらです」
案内された鉄張りの低箱は、扉こそ水をかぶっていたが、封は無事だった。監査院受領官立会いのもとで開けると、中から出てきたのは月別の受入主簿、照会返答控え、送達通知の綴り。火が回る前に守られたらしい。
ルカはひとつずつ濡れを避けながら確かめる。
主簿は生きている。
消されたのは、本簿ではなく周辺だ。
だからこそ、誰かは急いで火をつけたのだろう。全部を焼く時間はなく、必要なところだけを狙った。
「鎮火前に持ち出されたものは」
監査院受領官が尋ねると、女官は首を横に振った。
「見ておりません。ただ、煙が上がる前、誰かが南棚の前にいた気がします。わたくしは隣室で神殿便の受領をしていて……戻ったときにはもう」
証言としては弱い。だが、弱いから価値がないわけではない。
ルカは濡れた床から視線を上げ、主簿箱の一番上に置かれた送達通知綴りへ手を伸ばした。
頁を繰る。
茶会前日。
神殿連絡室受領。
茶会雑務補助一名仮付の件。
発信元――王太子宮付書記局。
指先が止まる。
記載された欄は簡略だった。正式番号付与は保留。氏名欄は空白。添付原紙あり、とだけある。承認欄も空いたままだ。
空白のまま走った紙。
それ自体が異様だった。
「これは通常運用ですか」
ルカが問うと、女官ははっきり首を振った。
「いいえ。仮付でも、せめて神殿側の受入印か、王宮主催側の確認が入ります。何もないまま回るのは、おかしいです」
「主催側の確認というと」
「茶会なら、王太子妃教育側か、主催補佐の内務確認です」
つまり、誰かが本来踏むべき順番を飛ばしている。
その紙が、ヘレナという名の差し替え頁へ繋がった可能性は高い。だが、ここで一足飛びに断定するにはまだ足りない。
頁をもう一枚めくると、今度は今日付の送達通知が出てきた。
監査院預かり通知。
送達先――王太子宮付書記局、法務院、神殿連絡室控え。
ルカはそこを見て、ようやくひとつ理解した。
王太子宮側が審問直後に早く動いた理由だ。
紙片の略印に気づいたからではない。
少なくともそれだけではない。
宮関連の簿冊が監査院預かりとなれば、宮付書記局へ通知が飛ぶ。マルセル・ドーレンがあの早さで接触してきたのは、その正規通知を受けた可能性が高い。
それでもなお疑わしい線は残る。だが、少なくとも不自然さの種類は切り分けられた。
「焼けた棚の中で、何か残ったものはありますか」
女官は少し考え、煤けた水桶のそばを指さした。
「消火のとき、重石の下にあった綴りだけ、少し」
運ばれてきたのは、端が焦げ、紙縒りも半ば解けた薄い綴りだった。表紙の文字は滲んでいるが、辛うじて読める。
回覧受領簿。
ルカは濡れを逃がすよう慎重に頁を開く。ところどころ文字は流れていたが、茶会前日の頁はまだ読めた。
王太子宮付書記局より、茶会雑務補助一名仮付の件、封緘文書受領。
神殿連絡室仮保管。
正式番号保留。
氏名後補。
その下に、本来あるべき次の欄――王宮主催側確認――だけが、黒く焼け焦げて欠けていた。
偶然でこんな燃え方はしない。
必要な欄だけを焼こうとしたような欠け方だった。
ルカはその頁の欠けた縁を見た。紙の端が丸く縮れている。炎に直接舐められたのではない。火種を押し当てたような、小さく集中的な焼け方だ。
「これを持ち出します」
監査院受領官がすぐに頷く。
「受領記録を切る。焦げ縁もそのまま保全だ」
そのとき、室の外で足音が止まった。
神殿の小使いが、濡れないよう封書を持ち上げて立っている。
「記録院ルカ・エヴァレット殿へ。王太子宮付書記局から文書です」
ルカが受け取ると、封の表面に細かな青い粒が散っていた。
今度は煤に混じっていない。はっきりと見えた。細かく、角があり、砂のようだ。糖でも粉末染料でもない。紙の上でインクを乾かすために振る、写し砂。
しかも、王太子宮付の急ぎ文書でよく使われる青砂だった。
胸の奥で何かが噛み合う。
回廊に落ちていた青。
面会室の床。
簿冊の備考欄。
ニコラスの裾。
そして今、この封書の上。
同じ色だ。
毒かもしれないと思っていたあの青は、少なくとも一部は、紙に振られる写し砂の可能性がある。
つまり、誰かが大量の急ぎ文書を扱っていた痕跡でもありうる。
封を切る。
中身は丁寧な文面だった。
神殿連絡補助簿および本日審問関連簿冊につき、王太子宮付書記局として事実確認を行いたい。今夜のうちに説明を求める――。
言葉は柔らかい。
だが、急ぎなのは露骨だった。
「早いですね」
監査院受領官が横から見て言う。
「はい」
ルカは封書を畳む。
「ですが、この早さ自体は、監査院預かり通知の経路で説明がつきます」
受領官は一度だけ目を細めた。
余計な飛躍をしていないか、測る目だった。
「では、問題は別か」
「別です」
ルカは焦げた回覧簿へ視線を戻す。
「火が出た理由と、王太子宮付書記局が関わっていることは、まだ同じとは限りません。ただ、茶会前日に“氏名後補”のまま仮付申請が走っていたのは事実です」
そこへ、もう一つ足音が近づいた。
振り向くと、第三記録室の補助官が立っていた。後ろには、灰青の外衣をまとったエレノアの侍女ではない、王宮側の女官が控えている。
「ヴァレンティア様が、短くなら話せると」
ルカは少しだけ考え、それから監査院受領官へ向き直った。
「回覧簿と送達通知綴りは受領記録を。火床の青砂も別包で」
「任せろ」
小謁見回廊脇の待機室で会ったエレノアは、前より顔色が悪かった。
審問を越え、さらに神殿連絡室の火まで重なったのだ。疲弊しないはずがない。
それでも、ルカが焦げた回覧簿の写しを差し出すと、彼女の目はすぐに文字を追った。
「……氏名後補」
その一語に、鋭く反応する。
「何かありますか」
「あります」
エレノアは即答した。
「茶会当日の雑務補助は、三日前までに座次と導線に合わせて確定します。前日仮付が絶対に不可能というわけではありませんが、その場合でも主催側確認欄が空のまま走ることはありません」
彼女は焦げ欠けた欄へ指を止める。
「ここにあったのは、たぶん私か、私の教育係側の確認印です」
ルカは一瞬、息を止めた。
「欠けた欄に?」
「ええ。そうでなければ、王宮主催の茶会で南回廊の導線に人を一人足す許可は下りません」
それは大きかった。
つまり、焼かれた欄には、単なる空白ではなく、誰の確認がなかったか、あるいはあったことにされたか が乗っていた可能性がある。
「見覚えは」
「焦げていなければ分かるかもしれませんが、これでは」
エレノアは悔しさを顔に出さなかった。
ただ、その沈黙が短く尖っていた。
「けれど、氏名後補のまま仮付が走り、主催側確認欄が焼けている。そこだけでも充分に異常です」
「はい」
「そして、その異常を消すために、周辺棚だけが燃えた」
彼女は紙を返した。
「次に見るべきは、主催側確認印の見本帳です。王太子妃教育側の内務印が残っていれば、空白で走ったのか、偽の確認があったのかが分かるはずです」
ルカは頷いた。
やはり彼女の知識は、記録院では拾えない角度を刺してくる。
「もう一つ」
エレノアが、今度は王太子宮付書記局からの封書を見た。
「この青砂、宮付書記局の急ぎ文書で使うものですわ」
「ご存じなのですか」
「色まで指定されていましたもの。普通は灰の砂ですが、宮付の急ぎ写しだけは青を使うのです。取り違え防止のために」
これで線がさらに一本引けた。
青い粉は、少なくとも全部が毒ではない。
宮付急ぎ文書を扱った痕跡でもある。
「リディアの袖にも付いていました」
ルカが言うと、エレノアの目がわずかに細まった。
「では彼女は、文書の近くにいたか、誰かが文書を持ったまま触れたか……」
「その可能性があります」
「供述を整えるときに?」
「あるいは、その前に」
短い沈黙が落ちる。
エレノアはゆっくりと息を吐いた。
「毒ではなく、紙の砂」
「はい」
「けれど、それで安心はできませんわね」
「はい」
むしろ厄介だった。
青い粉が書類の痕跡なら、毒物線と文書線が絡み合う。
誰かが意図的に紛らわせたのか、偶然重なったのか。その切り分けが必要になる。
待機室の外で、人の気配がした。
王太子宮側の女官だろう。長くは話せない。
「王太子宮付書記局の呼び出しは」
エレノアが小さく問う。
「今夜のうちに、文書で来ました」
「行かれますか」
ルカは少しだけ考えた。
呼び出しに応じれば、相手は何かを探る。
応じなければ、別の経路で押してくる。
「先に見本帳です」
そう答えると、エレノアはごくわずかに頷いた。
「順番としては、そうでしょうね」
待機室を出ると、廊下の燭火が長く伸びていた。
夜はまだ浅い。だが王宮の内側では、すでに何度も日が変わったような速さで紙が動いている。
主催側確認印の見本帳。
王太子宮付書記局の青砂。
焦げた回覧簿。
そして、氏名後補のまま走った仮付申請。
いま追うべき順番は見え始めている。
そのとき、前方の曲がり角から監査院受領官が早足で戻ってきた。
「ルカ殿」
「何か」
「火床の下から、もう一つ出た」
差し出されたのは、半ば濡れて貼りついた小片だった。
回覧簿の端かと思ったが違う。もっと薄い。送達票の控えだ。
焦げの間から辛うじて読める文字は数語だけだった。
――主催側確認印、未了につき仮置
――宮付返答待ち
――署名欄、マ……
最後の一文字はそこで焼け落ちている。
マ。
マルセルか、別の誰かか。
だが、少なくとも茶会前日の時点で、王太子宮側からの返答待ちがあった。
ルカは紙片を見下ろした。
火はすべてを消していない。
消そうとした順番だけを、かえって残していた。




