第六話 その印では、押し切れない
暮刻の審問室は、夜会の広間より狭く、静かで、そのぶん逃げ場がなかった。
石壁に沿って燭台が並び、中央には長机が二列、奥の一段高い席にはセドリック第一王子が座している。華やかな場ではない。だからこそ、ここで交わされる言葉は飾りを失い、骨だけになる。
ルカ・エヴァレットは記録官席に着き、机上の紙束を順に並べた。
移送前現況記録。
供述要旨写し。
宮廷行事室の部屋割り控え。
配膳経路控え。
ヴァレンティア家からの副印照会。
そして、保全帯を巻いた神殿連絡補助雇上簿と、その二十三頁から二十五頁の照合写し。
最後の一枚――背の隙間から落ちた命令紙片だけは、今はまだ出さない。
確証の足りない札を早く切れば、相手に回収の時間を与えるだけだ。
対面の法務院席には、ベルナール補佐官とニコラス・ヴェインが並んでいた。二人とも昨夜より整った顔をしている。こういう場では、追い詰められている側ほど身なりを乱さない。
エレノアは被疑当事者席にいた。
灰青の衣のまま、背筋だけがまっすぐに伸びている。疲労は隠せていない。だが、その疲労まで含めて崩さない姿勢に、奇妙な強さがあった。
「始める」
セドリックの声が落ちる。
「本審問は、ヴァレンティア公爵令嬢エレノアに対する行動制限強化の可否、および法務院提出の供述要旨ならびに補助雇上簿写しの採否を暫定的に定めるためのものとする」
王子の声は硬い。短慮で押し切る気配はない。だが、疲れているのは彼も同じだった。おそらくこの数刻で、法務院から何度も判断を迫られているのだろう。
「法務院より説明を」
ベルナールが立ち上がった。
「侍女リディアは、エレノア・ヴァレンティアの指示により焼き菓子盆を聖女ミレイユの待機室へ運んだと認めております。加えて、先の面会記録で名が出たヘレナについても、神殿補助要員として正規に記載された簿冊写しが確認されました」
彼は一拍置き、供述要旨写しへ手を置く。
「よって被疑当事者による関係人への影響可能性はなお高く、王宮内待機のみでは不十分です。法務院としては、接触制限の拡大および行動区域の縮小を求めます」
手際がよい。
論点を絞り、こちらの反駁時間を削る出し方だ。
「記録院から異議があると聞く」
セドリックの視線が、まっすぐルカへ向く。
「あります」
立ち上がると、審問室の空気がわずかに引き締まった。夜会ほどのざわめきはない。その代わり、一人ひとりの視線が鋭い。
「まず、法務院提出の供述要旨は、受理時刻が六刻三十一分です」
ルカは紙を持ち上げる。
「移送前現況記録に記した面会室退室時刻は六刻二十三分。面会室から第二聴取室までは、通常歩行で三分。受領、着席、本人確認、聴取、要旨作成、受理印付与までを八分で完了させるのは、きわめて不自然です」
ベルナールがすぐに口を挟む。
「要旨の事前整理は実務上あり得ます」
「事前整理したのであれば、なおさら問題です」
ルカは淡々と返した。
「面会室退室前に、法務院がどの内容を供述としてまとめる予定だったかを、先に整えていたことになります」
審問室の空気が少し変わる。
速さは便利だ。だが、速すぎると準備が透ける。
「それだけでは、供述自体の信用を失わせるに足りん」
セドリックの言葉は冷静だった。
「はい。ですので、次を示します」
ルカは宮廷行事室の控えを前へ出す。
「供述要旨には、侍女リディアが“聖女の控室”まで菓子盆を運んだとあります。しかし茶会当日の公式部屋割り控えでは、ミレイユ様の待機場所は西小客間であり、“聖女の控室”という呼称は存在しません」
紙をめくる音がした。セドリックの隣に控える書記が、写しを王子へ寄せる。
「当時の正式名称ではない、と」
「はい」
ルカは続けた。
「しかも移送前現況記録では、リディアは南回廊で聖女付きと名乗る侍女ヘレナへ盆を渡したと述べています。供述要旨は、受渡しはなかったと整理しており、ここでも矛盾します」
ベルナールが冷たく言う。
「移送前の動揺した発言と、落ち着いてからの正式供述が異なることは珍しくない」
「そうかもしれません」
ルカは頷いた。
「ですが、その“正式供述”が、当日使われていなかった呼称で整えられているなら話は別です。本人の言葉ではなく、後から通りの良い形に直された可能性が生じます」
ニコラスの目が細くなる。
その反応だけで、こちらが痛いところへ触れているのが分かった。
「ヘレナの存在は、補助雇上簿写しで確認済みだ」
ベルナールが言い、法務院側の紙束から例の写しを取り上げた。
「記録院照合済印もある」
「印は本物です」
ルカがそう言うと、審問室の何人かがわずかに眉を動かした。
ベルナールの口元が、勝ちを急ぐ者のそれに変わる。
「ならば――」
「本物なのは印だけです」
ルカは言葉を重ねる。
「その印が押された原簿二十四頁には、差し替えの疑いがあります」
今度こそ、室内の空気が動いた。
ルカは保全帯を巻いた神殿連絡補助雇上簿を卓へ置いた。
「照合済印は、その時点で提示された抄写一葉と、開かれた原簿頁が一致していたことを示すに過ぎません。真実の保証ではありません。今回の問題は、照合窓口へ持ち込まれた原簿そのものにあります」
セドリックの視線が厳しくなる。
「差し替えの根拠を」
ルカは二十三、二十四、二十五頁の照合写しを並べた。
「二十四頁のみ紙質が異なります。頁番号は後書きで、罫線の上に乗っている。さらに綴じ糸の色が前後頁と違う。たった一葉だけ、後から差し込まれた形跡があります」
王子は席を立たなかったが、視線の角度が変わった。
机上の紙を、ただの説明ではなく物として見始めた角度だ。
「窓口担当も出ています」
ルカが言うと、壁際で青ざめていたサラ・ウェインズが一歩前へ出た。
彼女の声は震えていたが、逃げなかった。
「わ、私は……法務院より持ち込まれた抄写一葉と、その場で開かれていた原簿二十四頁を照合しました。規定どおり、該当行のみ確認し、照合済印を押しました。ただ、簿冊全体の綴じや前後頁までは確認しておりません」
ベルナールが鋭く言う。
「窓口担当の見落としではないか」
サラの肩が揺れる。
だが、その前にルカが答えた。
「見落としではありません。緊急照会の通常運用を突かれただけです」
静かな声だった。だが、それがサラを責める空気を止めた。
「つまり」
セドリックが低く言う。
「法務院は、照合済印付きの写しを根拠として出した。だが、その土台である原簿頁そのものに差し替え疑義がある」
「はい」
「さらに、供述要旨は移送前記録と矛盾し、当日公式記録に存在しない部屋名で整えられている」
「はい」
ベルナールが一歩前へ出る。
「疑義はいくらでも言えます。だが、それでエレノア・ヴァレンティアへの疑いが消えるわけではありません」
「消えるとは申しておりません」
ルカは即座に返した。
「申し上げているのは、行動制限強化の根拠として法務院提出の紙をそのまま採るには、不備と不自然が多すぎるということです」
そこでエレノアが静かに口を開いた。
「殿下」
誰もが彼女を見る。
「私は、無実を今すぐ信じてほしいとは申しません」
声はよく通った。疲れを含んでいるのに、濁らない。
「ですが、差し替えの疑いある簿冊と、移送からほどなく整えられた供述で、私だけでなく侍女まで押し潰されるのは受け入れられません」
彼女は一拍置く。
「少なくとも、法務院単独で彼女の言葉を整えることはお止めください」
その言葉には、自分のためだけではない痛みがあった。
セドリックはしばらく答えなかった。
怒りではない。考えている沈黙だった。
「副印照会は」
王子が問う。
ルカは公爵家からの返書を差し出す。
「ヴァレンティア家帳場責任者の署名付きです。茶会当日、法務院が横流し証拠として出した流通控え番号と一致する正式管理票記録は存在せず、副印押印記録もありません」
「つまり、横流しの紙も家側の控えと繋がらない」
「はい」
ベルナールの眉間に、ようやく露骨な皺が寄った。
ここで紙が三本噛んだ。
供述。
補助雇上簿。
流通控え。
どれもまだ完全否定ではない。だが、どれもそのまま採れなくなっている。
王子は指先で机を一度だけ叩いた。
「法務院提出の供述要旨および補助雇上簿写しは、現時点では暫定判断の主たる根拠として採用しない」
ベルナールの顔色が変わる。
「殿下――」
「聞け」
セドリックの声が一段だけ低くなった。
「私は瑕疵ある紙で押し切れと言っているのではない」
その一言には、昨夜から積もった苛立ちも混じっていた。
彼は短慮に誘導されやすいかもしれない。だが、だからといって自分が愚かだと見られるのは、きっと何より嫌う。
「エレノア・ヴァレンティアへの現行の王宮内待機命令は維持する。だが、追加の行動制限強化は保留。侍女リディアの聴取は、法務院単独ではなく、記録院立会のもと再度行うこと」
法務院席の空気が凍る。
「さらに」
王子の視線が、保全帯付きの簿冊へ落ちた。
「神殿連絡補助雇上簿は、この場から監査院預かりとする。記録院、監査院へ差し替え疑義の正式報告を出せ」
監査院。
その言葉が落ちた瞬間、ベルナールの表情から一瞬だけ余裕が消えた。
ここで初めて、敵の痛いところへ届いたのだと分かる。
「異議があるなら、紙で出せ」
セドリックは最後にそう言った。
「以上だ」
審問終了の告知が落ちる。
張り詰めていた空気が、すぐには緩まなかった。誰もが、今の決定が単なる保留ではなく、次の争点を増やしたことを理解しているからだ。
ルカは紙束をまとめながら、机の端で息をついた。
勝ったわけではない。
ただ、押し切らせなかっただけだ。
それでも大きかった。
リディアの言葉は、まだ死んでいない。
エレノアの行動制限も、これ以上は狭まらなかった。
そして補助雇上簿は、法務院の手から一度離れる。
「記録官殿」
散会後、エレノアが近づいてきた。
人目のある距離は保っている。だが、その声は先ほどまでより少しだけ低い。
「ありがとうございました」
「まだ途中です」
「ええ。ですが、途中まででも止まりました」
彼女はそれだけ言って、ふとルカの手元へ視線を落とした。
「まだ出していない紙がありますわね」
ルカの指が、わずかに止まる。
保全簿冊の下に挟んだ、あの命令紙片のことだ。
「確証が足りません」
「正しい判断です」
エレノアは即答した。
「審問の場で切る札は、刺さると分かっているものだけでよいのですもの」
その言い方に、ルカは少しだけ目を上げた。
彼女は疲れている。だが、その疲れの下で、まだ冷静に盤面を見ている。
「王太子宮まわりをご存じですか」
ルカが声を落として問うと、エレノアはわずかに表情を変えた。
「多少は」
「宮付書記官の内部略印まで?」
「人によります」
そこで彼女は、一瞬だけ視線を巡らせる。近くに法務院の耳がないかを確かめるように。
「部屋を変えたほうがよろしいでしょう」
短いやり取りだけで十分だった。
紙片は、やはり次の線になる。
そのとき、審問室の外で小さなざわめきが起きた。
監査院の受領官が来たのだろう、と最初は思った。
だが違った。
王太子宮の制服を着た中年の書記官が、顔色を変えてこちらへ歩いてくる。整った身なりだが、その歩幅だけが乱れていた。
「ルカ・エヴァレット殿」
名を呼ばれ、ルカは足を止める。
「私は王太子宮付書記官のマルセル・ドーレンと申します」
知らない名ではない。王太子宮内の回覧命令や面会調整を扱う、かなり上位の書記官だ。
「何か」
マルセルは一瞬だけ周囲を見た。法務院の者たちはまだ完全には散っていない。ここで話す内容ではないのだろう。
「宮付書記局より、補助雇上簿に関する件で確認したいことがあります」
確認。
その言い方は便利だ。呼び出しにも、口止めにも使える。
「いつでしょう」
「今夜のうちに」
「文書でいただけますか」
ルカがそう返すと、マルセルの目がほんのわずかに細くなった。
予想外だったのかもしれない。
「……急ぎの件です」
「なおさら文書でお願いします。記録に残りますので」
沈黙が落ちる。
マルセルは取り繕うように微笑んだが、その微笑は目に届いていなかった。
「承知しました」
そう言い残して去っていく背を見送りながら、ルカの胸の奥で冷たいものが形を持つ。
早い。
紙片の略印を出していないのに、もう王太子宮側が動いた。
偶然とは思えなかった。
ルカは袖の内側に隠した紙片へ、無意識に指先を触れた。
薄い。軽い。
だが、今いちばん重い紙だった。
廊下の先では、監査院の黒銀の徽章が見え始めている。
その反対側では、王太子宮の書記官が足早に角を曲がった。
どちらも同じ王宮の内側だ。
それなのに、向かう先はまるで別の国のように遠い。
エレノアが、小さく言った。
「来るのが早すぎますわね」
「はい」
「なら、その紙は当たりです」
彼女はそれ以上問わなかった。
問わないこともまた、信頼の形なのだと、ルカは少し遅れて理解する。
今夜のうちに、王太子宮付書記局。
呼ばれる前に行くべきか。
文書を待つべきか。
あるいは、先に略印の見本帳を押さえるべきか。
順番を一つ誤れば、紙片は消える。
ルカは監査院の受領官へ向けて一礼しながら、同時に次の手を組み始めていた。
そのとき、第三記録室の若い補助官が、またしても息を切らして駆け込んでくる。
「ルカ殿!」
「何です」
「神殿連絡室の保管棚で、火が出たそうです!」




