第五話 照合済みの印は、真実を保証しない
記録院の照合済印は、思っているほど万能ではない。
それは真実の印ではない。
ただ、その紙が、その瞬間、持ち込まれた別の紙と一致していた――その事実だけを保証する印だ。
「つまり、偽の原簿を持ち込まれても、窓口の手順どおり照らし合わせれば、印そのものは本物になる」
アルヴィン室長が低く言った。
第三記録室の机上には、法務院が出してきた臨時雇上簿の写しが広げられている。
聖女ミレイユ付き侍女、ヘレナ。
その名の横に、たしかに記録院照合済印が押されていた。
ルカは紙の隅を指で押さえた。
印影は本物だ。輪郭も朱の滲み方も、偽造ではない。だが本物の印が押されていることと、その中身が信用できることは、同じではない。
「照合簿番号があります」
紙の左下、印影の脇に小さく記された番号を読む。
「照合簿、第四二一。時刻は七刻二分」
「名簿保管室でお前が補助簿を見ていた頃だな」
「はい」
敵は早い。
こちらが“ヘレナの名はない”と掴んだ直後に、別系統の簿冊を持ち込み、照合済印付きの写しを作ってきた。偶然ではない。こちらの動きを読んでいる。
「誰が押したかは」
「照合簿に残ります」
ルカは即座に紙をまとめた。
「窓口へ行きます」
照合窓口は、記録院本棟の一階奥にある。
華やかさとは無縁の場所だ。低い仕切り、磨り減った木台、積み上げられた簿冊。ここで扱われるのは劇的な真実ではなく、受理欄、印影、頁番号、照合時刻。地味で、鈍く、だが後から最も重くなるものばかりだった。
窓口番の若い女官は、ルカが照合簿番号を告げると露骨に顔をこわばらせた。
「第四二一の件ですね」
「担当はあなたですか」
「……はい」
彼女は二十代半ばほどだろうか。名札にはサラ・ウェインズとある。几帳面そうな目をしているが、今はその目が落ち着かない。
「どういう原簿を照合しましたか」
「神殿連絡室から回された補助雇上簿です。法務院の緊急照会で」
「神殿連絡室?」
名簿保管室の補助簿とは別系統だ。
王宮女官の正式名簿ではなく、神殿側から一時的に付く補助要員の控え。あり得ない話ではない。あり得るから厄介だった。
「原簿は今どこに」
「返却前です。照合済み扱いで、副保管棚へ」
ルカは小さく息を吐いた。間に合う。
「誰が持ち込みましたか」
サラは口を開きかけてから、周囲を見た。窓口の奥では別の書記が束を綴じている。聞かれたくないのだろう。
「法務院補佐官付き書記官です」
「ニコラス・ヴェイン」
名前を出すと、彼女はわずかに驚いたように目を上げた。
「ご存じで?」
「昨夜から何度か会っています」
それだけで十分だったらしい。サラは声を潜める。
「簿冊はたしかに持ち込まれました。開かれていた頁も、写しの箇所と一致していました。ですから、規定どおり照合済印を押しました」
「全文を照合しましたか」
「該当行のみです。緊急照会では通常――」
「分かっています」
ルカは責めるために来たのではない。
相手がどこを突いてきたかを知るためだ。
「照合簿を見せてください」
サラが引き出しから簿冊を出す。
第四二一。
申請者、法務院ベルナール補佐官代理、ニコラス・ヴェイン。
照合対象、神殿連絡補助雇上簿抄写一葉。
原簿呈示あり。
頁番号――二十四。
ルカの視線が止まる。
「抄写一葉?」
「はい。簿冊全体ではなく、該当頁を抜き写した一葉です」
「原簿は」
「その場で開かれていた頁と照らしました。頁番号も一致しています」
頁番号。
そこが生きる。
「その原簿、見ます」
副保管棚から出された神殿連絡補助雇上簿は、古びた青革の背表紙をしていた。
手に取った瞬間、ルカは重みを測る。綴じの硬さ。表紙の癖。開きやすい頁。長く使われた簿冊には、必ず人の手の癖が染み込む。
机へ置き、ゆっくり開く。
二十二。
二十三。
二十四。
ヘレナの名は、そこにあった。
神殿補助要員。聖女付雑務補助。
配置日、茶会前日。
備考欄、南回廊配膳補助。
書かれている内容だけを見れば、法務院が出してきた写しと一致する。
だが、ルカの目は文字より先に紙を見ていた。
「……違う」
小さく呟く。
「何がですか」
背後からサラが不安そうに聞く。
ルカは頁の端を持ち上げた。
紙の色が違う。
二十三頁と二十五頁は、長く空気を吸った羊皮紙特有の、わずかに黄を帯びた乾いた色だ。だが二十四頁だけ、白い。新しいわけではない。新しく見えないように処理してある。だが、繊維の立ち方と油の抜け方が違う。
さらに頁の下隅。
「頁番号が、後書きです」
「え?」
「二十四の数字だけ、罫線の上に乗っています。本来は先に頁番号を書き、その後に罫を引く。これは逆です」
サラの顔色が変わる。
ルカは綴じ糸を見る。
背の内側へ目を凝らす。糸の色が違っていた。古い麻糸の鈍い灰の中に、一箇所だけ新しい濃い色の糸が混じっている。頁を差し替えたのだ。全部ではない。たった一葉だけ。
「照合済印は本物です」
ルカは静かに言った。
「でも、あなたが見た原簿のその頁が、本来の原簿かどうかは別です」
サラは無意識に一歩下がった。
「そんな……差し替えなんて、簿冊の保管責任者でなければ」
「あるいは、戻される前の一時保管を扱える誰か」
ルカは頁の上へ視線を落とす。
ヘレナ。
都合がよすぎる配置名。都合がよすぎる備考。
しかも。
指先で備考欄の端をなぞる。そこに、ごく微かな青い粉が残っていた。紙の繊維の間に入り込んだ、ごく薄い青。
面会室で見たものと同じ色だ。
胸の奥が、今度は静かに熱を持った。
「この頁、最近触られています」
ルカが言うと、サラはもう否定しなかった。
「……どうすれば」
「まず、あなたが見たことを順番どおり残してください」
「私が?」
「照合時、簿冊はすでに開かれていたこと。全文ではなく該当行のみ照合したこと。簿冊全体の綴じまでは確認していないこと。そこに過失はありません」
彼女は青ざめたまま頷く。
責められると思っていたのだろう。だがこの件で必要なのは、誰かを吊るすことではなく、どの順番で何が起きたかを固定することだ。
「副保管棚へ戻る前に、この簿冊の保全封を打ちます」
ルカは記録帯を取り出した。
「それと、二十三から二十五までの三葉を原本照合写しに起こす。差し替えは前後と並べて見なければ弱い」
そこで窓口の外から足音がした。
速い。迷いがない。
次の瞬間、仕切りの向こうへ黒衣の男が現れる。ニコラス・ヴェインだった。
「その簿冊は、法務院が審問用に再提出を求めています」
顔に笑みはない。だが急いでいる者特有の硬さがある。
ルカは振り向かない。
「今、記録院保全中です」
「照合は終わった」
「終わったのは抄写一葉との照合です。原簿全体の保全確認は別件です」
ニコラスの視線が鋭くなる。
「それは越権では」
「簿冊差し替えの疑いがあるなら、記録院の保管案件です」
初めて真正面から視線がぶつかった。
ニコラスの目が、一瞬だけ副保管棚ではなく、開かれた二十四頁へ落ちる。ほんの一瞬だ。だが、その一瞬で十分だった。見られたくないものを見るときの目だった。
「何を根拠に」
「頁番号、紙質、綴じ糸」
ルカは順に置く。
「それに、備考欄の青色付着物」
その言葉で、ニコラスの表情がごくわずかに変わった。
青い粉のことを知っている。
やはり、供述要旨のあの一文は偶然ではない。
「法務院は忙しい」
ニコラスが低く言う。
「瑣末な綴じの乱れに付き合っている暇はない。殿下の暫定審問は暮刻だ」
「だから急いで差し替えたんですか」
サラが息を呑む音がした。
ニコラスは何も答えない。
だが沈黙それ自体が、さきほどまでより重い意味を持っていた。
「第三記録室へ回します」
ルカは簿冊を閉じ、保全帯を巻いた。
「審問までに、照合写しと差し替え疑義を提出する」
「出せばいい」
ニコラスは吐き捨てるように言った。
「だが間に合わなければ、殿下は法務院提出分でお決めになる」
そう言い残し、踵を返す。
その去り際、黒衣の裾が仕切りの角をかすめた。そこにまた、ごくわずかな青い粉が落ちる。
サラがそれを見て、青ざめたまま小さく言った。
「同じ色……」
「見ましたね」
ルカは小紙片を広げ、粉を受けた。
「今のも、順番どおり書いてください」
第三記録室へ戻ると、アルヴィンはすでに審問提出用の順序表を組んでいた。
移送前現況記録。
供述要旨の受理速度。
部屋名の不一致。
配膳経路控え。
副印控え不一致。
「新しいものがあります」
ルカは保全帯を巻いた簿冊と、三葉の照合写しを机へ置いた。
室長の目が鋭くなる。
「原簿か」
「原簿の二十四頁だけが差し替えられています。頁番号の後書き、紙質差、綴じ糸差。備考欄に青色付着」
アルヴィンは二十三、二十四、二十五を並べ、ほとんど一息で見比べた。
「……よくやった」
短いが、それで十分だった。
「これで“記録院照合済印がある”という相手の強みを、逆に崩せます」
「はい。印は本物でも、原簿そのものが後からすり替えられていれば意味がない」
「いや」
アルヴィンは二十四頁の下隅を指で押さえた。
「それだけじゃない。照合済印が本物だからこそ、誰が、いつ、この差し替え頁を原簿として窓口へ通したかが問題になる」
内へ踏み込める。
敵は外だけではない。記録の運用経路に手を入れている。
そのとき、机上の時計が低く鳴った。
暮刻まで、もう長くない。
「提出順を変えますか」
ルカが問うと、室長は即座に頷いた。
「供述矛盾より先に、差し替え頁を出す」
「先に?」
「法務院が頼る紙の土台そのものを崩す。そうすれば、後の供述も部屋名も全部“差し替え頁の上に積んだ話”になる」
順番。
またそれだ。
だが、それが正しい。相手が急いで積んだ紙は、土台から崩せば一番早い。
「公爵家照会、副印不一致は二番目へ」
「はい」
「青い粉は補助線に留める。まだ鑑定がない」
「分かっています」
室長は書類を束ね、記録帯へ指をかけた。
そこで、扉の外が騒がしくなった。
走る足音。短い言い争い。次いで、若い補助官が顔色を変えて飛び込んでくる。
「室長!」
「何だ」
「王太子殿下の命で、暫定審問の開始が早まりました」
アルヴィンの手が止まる。
「どれだけ」
「三十分です」
室内の空気が、音もなく張り詰めた。
三十分。
差し替え頁の提出写しを整え、保全記録を付し、窓口担当サラの補足陳述を添えるには、ぎりぎりだ。
いや――ぎりぎりを越えている。
それでも、出すしかない。
ルカは差し替え頁の写しを掴んだ。
そのとき、保全帯を巻いた原簿の背から、何かがひらりと落ちた。
薄い紙片だった。
綴じの内側へ無理に差し込まれていたのだろう。細く折られ、頁の間ではなく背の隙間に挟まっていた。
ルカはそれを拾い上げ、開く。
そこに書かれていたのは、たった一行だけだった。
――差替後は旧二十四葉を焼却のこと。閲覧前に回収済みならその限りにあらず
筆跡は、整いすぎるほど整っていた。
命令文に慣れた手の字だ。
だが、その末尾に押された小さな略印を見た瞬間、ルカの指先が止まる。
ベルナール補佐官のものではない。
法務院のものでもない。
それは、王太子宮付書記官が内部指示に使う略印だった。




