表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

5/71

第五話 照合済みの印は、真実を保証しない


 記録院の照合済印は、思っているほど万能ではない。

 それは真実の印ではない。

 ただ、その紙が、その瞬間、持ち込まれた別の紙と一致していた――その事実だけを保証する印だ。

「つまり、偽の原簿を持ち込まれても、窓口の手順どおり照らし合わせれば、印そのものは本物になる」

 アルヴィン室長が低く言った。

 第三記録室の机上には、法務院が出してきた臨時雇上簿の写しが広げられている。

 聖女ミレイユ付き侍女、ヘレナ。

 その名の横に、たしかに記録院照合済印が押されていた。

 ルカは紙の隅を指で押さえた。

 印影は本物だ。輪郭も朱の滲み方も、偽造ではない。だが本物の印が押されていることと、その中身が信用できることは、同じではない。

「照合簿番号があります」

 紙の左下、印影の脇に小さく記された番号を読む。

「照合簿、第四二一。時刻は七刻二分」

「名簿保管室でお前が補助簿を見ていた頃だな」

「はい」

 敵は早い。

 こちらが“ヘレナの名はない”と掴んだ直後に、別系統の簿冊を持ち込み、照合済印付きの写しを作ってきた。偶然ではない。こちらの動きを読んでいる。

「誰が押したかは」

「照合簿に残ります」

 ルカは即座に紙をまとめた。

「窓口へ行きます」

 照合窓口は、記録院本棟の一階奥にある。

 華やかさとは無縁の場所だ。低い仕切り、磨り減った木台、積み上げられた簿冊。ここで扱われるのは劇的な真実ではなく、受理欄、印影、頁番号、照合時刻。地味で、鈍く、だが後から最も重くなるものばかりだった。

 窓口番の若い女官は、ルカが照合簿番号を告げると露骨に顔をこわばらせた。

「第四二一の件ですね」

「担当はあなたですか」

「……はい」

 彼女は二十代半ばほどだろうか。名札にはサラ・ウェインズとある。几帳面そうな目をしているが、今はその目が落ち着かない。

「どういう原簿を照合しましたか」

「神殿連絡室から回された補助雇上簿です。法務院の緊急照会で」

「神殿連絡室?」

 名簿保管室の補助簿とは別系統だ。

 王宮女官の正式名簿ではなく、神殿側から一時的に付く補助要員の控え。あり得ない話ではない。あり得るから厄介だった。

「原簿は今どこに」

「返却前です。照合済み扱いで、副保管棚へ」

 ルカは小さく息を吐いた。間に合う。

「誰が持ち込みましたか」

 サラは口を開きかけてから、周囲を見た。窓口の奥では別の書記が束を綴じている。聞かれたくないのだろう。

「法務院補佐官付き書記官です」

「ニコラス・ヴェイン」

 名前を出すと、彼女はわずかに驚いたように目を上げた。

「ご存じで?」

「昨夜から何度か会っています」

 それだけで十分だったらしい。サラは声を潜める。

「簿冊はたしかに持ち込まれました。開かれていた頁も、写しの箇所と一致していました。ですから、規定どおり照合済印を押しました」

「全文を照合しましたか」

「該当行のみです。緊急照会では通常――」

「分かっています」

 ルカは責めるために来たのではない。

 相手がどこを突いてきたかを知るためだ。

「照合簿を見せてください」

 サラが引き出しから簿冊を出す。

 第四二一。

 申請者、法務院ベルナール補佐官代理、ニコラス・ヴェイン。

 照合対象、神殿連絡補助雇上簿抄写一葉。

 原簿呈示あり。

 頁番号――二十四。

 ルカの視線が止まる。

「抄写一葉?」

「はい。簿冊全体ではなく、該当頁を抜き写した一葉です」

「原簿は」

「その場で開かれていた頁と照らしました。頁番号も一致しています」

 頁番号。

 そこが生きる。

「その原簿、見ます」

 副保管棚から出された神殿連絡補助雇上簿は、古びた青革の背表紙をしていた。

 手に取った瞬間、ルカは重みを測る。綴じの硬さ。表紙の癖。開きやすい頁。長く使われた簿冊には、必ず人の手の癖が染み込む。

 机へ置き、ゆっくり開く。

 二十二。

 二十三。

 二十四。

 ヘレナの名は、そこにあった。

 神殿補助要員。聖女付雑務補助。

 配置日、茶会前日。

 備考欄、南回廊配膳補助。

 書かれている内容だけを見れば、法務院が出してきた写しと一致する。

 だが、ルカの目は文字より先に紙を見ていた。

「……違う」

 小さく呟く。

「何がですか」

 背後からサラが不安そうに聞く。

 ルカは頁の端を持ち上げた。

 紙の色が違う。

 二十三頁と二十五頁は、長く空気を吸った羊皮紙特有の、わずかに黄を帯びた乾いた色だ。だが二十四頁だけ、白い。新しいわけではない。新しく見えないように処理してある。だが、繊維の立ち方と油の抜け方が違う。

 さらに頁の下隅。

「頁番号が、後書きです」

「え?」

「二十四の数字だけ、罫線の上に乗っています。本来は先に頁番号を書き、その後に罫を引く。これは逆です」

 サラの顔色が変わる。

 ルカは綴じ糸を見る。

 背の内側へ目を凝らす。糸の色が違っていた。古い麻糸の鈍い灰の中に、一箇所だけ新しい濃い色の糸が混じっている。頁を差し替えたのだ。全部ではない。たった一葉だけ。

「照合済印は本物です」

 ルカは静かに言った。

「でも、あなたが見た原簿のその頁が、本来の原簿かどうかは別です」

 サラは無意識に一歩下がった。

「そんな……差し替えなんて、簿冊の保管責任者でなければ」

「あるいは、戻される前の一時保管を扱える誰か」

 ルカは頁の上へ視線を落とす。

 ヘレナ。

 都合がよすぎる配置名。都合がよすぎる備考。

 しかも。

 指先で備考欄の端をなぞる。そこに、ごく微かな青い粉が残っていた。紙の繊維の間に入り込んだ、ごく薄い青。

 面会室で見たものと同じ色だ。

 胸の奥が、今度は静かに熱を持った。

「この頁、最近触られています」

 ルカが言うと、サラはもう否定しなかった。

「……どうすれば」

「まず、あなたが見たことを順番どおり残してください」

「私が?」

「照合時、簿冊はすでに開かれていたこと。全文ではなく該当行のみ照合したこと。簿冊全体の綴じまでは確認していないこと。そこに過失はありません」

 彼女は青ざめたまま頷く。

 責められると思っていたのだろう。だがこの件で必要なのは、誰かを吊るすことではなく、どの順番で何が起きたかを固定することだ。

「副保管棚へ戻る前に、この簿冊の保全封を打ちます」

 ルカは記録帯を取り出した。

「それと、二十三から二十五までの三葉を原本照合写しに起こす。差し替えは前後と並べて見なければ弱い」

 そこで窓口の外から足音がした。

 速い。迷いがない。

 次の瞬間、仕切りの向こうへ黒衣の男が現れる。ニコラス・ヴェインだった。

「その簿冊は、法務院が審問用に再提出を求めています」

 顔に笑みはない。だが急いでいる者特有の硬さがある。

 ルカは振り向かない。

「今、記録院保全中です」

「照合は終わった」

「終わったのは抄写一葉との照合です。原簿全体の保全確認は別件です」

 ニコラスの視線が鋭くなる。

「それは越権では」

「簿冊差し替えの疑いがあるなら、記録院の保管案件です」

 初めて真正面から視線がぶつかった。

 ニコラスの目が、一瞬だけ副保管棚ではなく、開かれた二十四頁へ落ちる。ほんの一瞬だ。だが、その一瞬で十分だった。見られたくないものを見るときの目だった。

「何を根拠に」

「頁番号、紙質、綴じ糸」

 ルカは順に置く。

「それに、備考欄の青色付着物」

 その言葉で、ニコラスの表情がごくわずかに変わった。

 青い粉のことを知っている。

 やはり、供述要旨のあの一文は偶然ではない。

「法務院は忙しい」

 ニコラスが低く言う。

「瑣末な綴じの乱れに付き合っている暇はない。殿下の暫定審問は暮刻だ」

「だから急いで差し替えたんですか」

 サラが息を呑む音がした。

 ニコラスは何も答えない。

 だが沈黙それ自体が、さきほどまでより重い意味を持っていた。

「第三記録室へ回します」

 ルカは簿冊を閉じ、保全帯を巻いた。

「審問までに、照合写しと差し替え疑義を提出する」

「出せばいい」

 ニコラスは吐き捨てるように言った。

「だが間に合わなければ、殿下は法務院提出分でお決めになる」

 そう言い残し、踵を返す。

 その去り際、黒衣の裾が仕切りの角をかすめた。そこにまた、ごくわずかな青い粉が落ちる。

 サラがそれを見て、青ざめたまま小さく言った。

「同じ色……」

「見ましたね」

 ルカは小紙片を広げ、粉を受けた。

「今のも、順番どおり書いてください」

 第三記録室へ戻ると、アルヴィンはすでに審問提出用の順序表を組んでいた。

 移送前現況記録。

 供述要旨の受理速度。

 部屋名の不一致。

 配膳経路控え。

 副印控え不一致。

「新しいものがあります」

 ルカは保全帯を巻いた簿冊と、三葉の照合写しを机へ置いた。

 室長の目が鋭くなる。

「原簿か」

「原簿の二十四頁だけが差し替えられています。頁番号の後書き、紙質差、綴じ糸差。備考欄に青色付着」

 アルヴィンは二十三、二十四、二十五を並べ、ほとんど一息で見比べた。

「……よくやった」

 短いが、それで十分だった。

「これで“記録院照合済印がある”という相手の強みを、逆に崩せます」

「はい。印は本物でも、原簿そのものが後からすり替えられていれば意味がない」

「いや」

 アルヴィンは二十四頁の下隅を指で押さえた。

「それだけじゃない。照合済印が本物だからこそ、誰が、いつ、この差し替え頁を原簿として窓口へ通したかが問題になる」

 内へ踏み込める。

 敵は外だけではない。記録の運用経路に手を入れている。

 そのとき、机上の時計が低く鳴った。

 暮刻まで、もう長くない。

「提出順を変えますか」

 ルカが問うと、室長は即座に頷いた。

「供述矛盾より先に、差し替え頁を出す」

「先に?」

「法務院が頼る紙の土台そのものを崩す。そうすれば、後の供述も部屋名も全部“差し替え頁の上に積んだ話”になる」

 順番。

 またそれだ。

 だが、それが正しい。相手が急いで積んだ紙は、土台から崩せば一番早い。

「公爵家照会、副印不一致は二番目へ」

「はい」

「青い粉は補助線に留める。まだ鑑定がない」

「分かっています」

 室長は書類を束ね、記録帯へ指をかけた。

 そこで、扉の外が騒がしくなった。

 走る足音。短い言い争い。次いで、若い補助官が顔色を変えて飛び込んでくる。

「室長!」

「何だ」

「王太子殿下の命で、暫定審問の開始が早まりました」

 アルヴィンの手が止まる。

「どれだけ」

「三十分です」

 室内の空気が、音もなく張り詰めた。

 三十分。

 差し替え頁の提出写しを整え、保全記録を付し、窓口担当サラの補足陳述を添えるには、ぎりぎりだ。

 いや――ぎりぎりを越えている。

 それでも、出すしかない。

 ルカは差し替え頁の写しを掴んだ。

 そのとき、保全帯を巻いた原簿の背から、何かがひらりと落ちた。

 薄い紙片だった。

 綴じの内側へ無理に差し込まれていたのだろう。細く折られ、頁の間ではなく背の隙間に挟まっていた。

 ルカはそれを拾い上げ、開く。

 そこに書かれていたのは、たった一行だけだった。

 ――差替後は旧二十四葉を焼却のこと。閲覧前に回収済みならその限りにあらず

 筆跡は、整いすぎるほど整っていた。

 命令文に慣れた手の字だ。

 だが、その末尾に押された小さな略印を見た瞬間、ルカの指先が止まる。

 ベルナール補佐官のものではない。

 法務院のものでもない。

 それは、王太子宮付書記官が内部指示に使う略印だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ