第四話 その供述は、早すぎる
虚偽の供述は、ときに内容より先に速さで綻ぶ。
「もうまとめたそうです」
若い伝令の声は、まだ息が整っていなかった。
名簿保管室で補助簿を閉じかけていたルカは、顔を上げる。
「何をです」
「リディアの供述要旨を。法務院が、ついさっき第三記録室へ回してきました」
早すぎる、とルカは思った。
つい先ほど、面会室で移送の時刻を打ったばかりだ。第二聴取室へ連れていき、着席させ、聴取官が問い、侍女が答え、それをまとめて受理印を回す――そこまでやって、もう記録院に写しが届くには、あまりに早い。
ルカは補助簿を閉じた。
「室長は」
「戻れと」
伝令はそこで唾を飲んだ。
「しかも内容が……かなり悪いと」
第三記録室へ戻ると、室内の空気はすでに固かった。
アルヴィン室長の机の上には、一通の供述要旨写しが置かれている。薄い灰色の紙。法務院の迅速案件に使われる簡略書式だ。早く、広く回すための紙。だからこそ危険だった。一度これで筋が通ったように見せられると、後から細部を覆すのが難しくなる。
「読め」
室長はそう言っただけだった。
ルカは紙を手に取る。
供述者、ヴァレンティア家侍女リディア。
供述要旨。
――エレノア・ヴァレンティアの指示により、茶会当日、焼き菓子を聖女の控室まで運搬した。南回廊を経由したことは事実であり、途中の受渡しはなかった。袖口に付着した青色粉末については、当該菓子の糖衣による可能性を否定しない――
そこまで読んだところで、ルカは目を止めた。
途中の受渡しはなかった。
面会室で移送前に記録した供述と、正面から食い違っている。リディアは確かに言ったはずだ。南回廊で、宮廷側の侍女ヘレナに盆を渡したと。
それなのに、こちらは最初から最後までリディアが運んだ形に整えられている。
しかも。
ルカは紙の下部にある受理時刻を見た。
受理印――六刻三十一分。
彼が面会室で移送開始時刻を打ったのは六刻二十三分だ。そこから法務院第二聴取室まで移し、着席させ、本人確認をし、聴取を行い、要旨をまとめ、受理印まで回して六刻三十一分。どう考えても足りない。
「八分か」
アルヴィンが低く言う。
ルカは頷いた。
「面会室から第二聴取室まで歩いても、それだけで三分はかかります」
「同意確認、着席、書記呼出し、聴取官への引継ぎを入れれば」
「実際の聴取時間は、ほとんどありません」
室長は供述要旨写しの端を指で叩いた。
「速さだけでは弱い。法務院は、事前にメモを取っていた、要旨はあとで整えた、と言い張れる」
「はい」
「もっと明確に噛ませる必要がある」
ルカはもう一度、供述要旨へ目を落とした。
聖女の控室。
その言葉が妙に引っかかっていた。
「エレノア様へ見せます」
アルヴィンが一瞬だけ目を細める。
「理由は」
「供述内容そのものより、言葉の選び方に不自然さがあります」
「本人の言葉ではない、と?」
「その可能性があります」
「……行け。だが急げ。法務院はこの写しを殿下にも回す」
面会室へ再び入ると、エレノアはまだ同じ灰青の衣のままだった。
少し前よりも、静けさが濃くなっている。リディアを連れていかれたあとの部屋は、必要なものだけ抜かれた保管箱に似ていた。
彼女はルカの手元の紙を見て、すぐに察したらしい。
「もう出たのですね」
「はい」
ルカが供述要旨写しを差し出すと、エレノアは受け取り、視線を走らせた。
読む速度は速い。だが読み飛ばしてはいない。必要な箇所だけを正確に拾っている。
やがて、彼女の指先が一行の上で止まった。
「……聖女の控室」
ルカはその反応を見逃さなかった。
「何かありますか」
エレノアは紙から顔を上げる。
「ございます」
声は静かだが、はっきりしていた。
「あの日、ミレイユ様には、まだ専用の控室はありませんでした」
ルカは息を止めた。
「なかった?」
「ええ。礼拝棟の改修が終わっておらず、聖女付きに固定の部屋が与えられたのは茶会のあとです」
エレノアは供述要旨を卓へ置く。
「当日、ミレイユ様が待機していたのは西小客間。宮廷内ではそう記されていました。後になってから、あの部屋を“聖女の控室”と呼ぶ者が増えたのです」
紙の上の一語が、急に重みを持つ。
今のこの供述要旨は、茶会当日の現場の言葉ではなく、後から定着した呼び名で塗り直されている可能性がある。
「リディアが当日、その名で認識していたとは考えにくい?」
「考えにくい、ではなく、まずありません」
エレノアはほとんど断言した。
「彼女はその部屋へ入っていないはずです。南回廊で盆を渡したのなら、なおさら。自分が入ってもいない部屋を、後から広まった呼び名で供述する理由がない」
ルカの頭の中で、線が一本増えた。
速すぎる受理時刻。
移送前供述との矛盾。
そして、当日の人間なら使わない部屋名。
これなら速さだけより強い。
「当日の部屋割りを確認します」
「宮廷行事室に残っているはずです」
エレノアはすぐに続けた。
「茶会の座次、控室割り、配膳経路の控えも。王太子妃教育では、主催側の控えを必ず残しましたから」
そこで彼女は一瞬だけ言葉を切った。
王太子妃教育――その語だけが、少し遅れて痛みを連れてくる。
学んできたことが、いまは自分を守るためにしか使えない。その皮肉を、彼女自身が誰より理解しているのだろう。
だがエレノアは顔色ひとつ変えずに言った。
「もし法務院が先に“聖女の控室”という語で話を通そうとしているなら、部屋割り控えで刺せます」
「はい」
「それと」
彼女の視線が、供述要旨の下部へ落ちる。
「途中の受渡しはなかった、とありますね」
「面会室での記録と矛盾します」
「ええ。ですから相手は、リディアに語らせたのではなく、語らせたい形を先に整えたのでしょう」
ルカは紙を受け取り直した。
その言い方は冷静だった。だが、冷静であること自体が、この短時間でどれほどの怒りを抑え込んでいるかの証拠に思えた。
「照会を打ちます」
「急いでください」
「はい」
「法務院は、順番で押し切るつもりです」
エレノアはまっすぐルカを見た。
「なら、こちらも順番で潰しましょう」
宮廷行事室は、華やかな表舞台の裏で催しの順番と配置だけを扱う、地味な部署だ。
その地味さゆえに、普段は軽んじられる。だが今のルカには、そこで保管される一枚の控えがどんな宝石より価値がある。
行事室の老書記は、突然現れた記録官へあからさまに迷惑そうな顔をしたが、再審査暫定命令の写しを見せると、しぶしぶ帳簿棚の奥から綴りを運んできた。
「茶会の部屋割りと配膳経路の控えです」
「当日のものを」
「分かっておりますよ」
ぶっきらぼうに返された綴りを開く。
紙の匂い。薄い砂。整った罫線。こういう記録は好きだった。感情が少ないぶん、嘘をつかせるには手間がかかる。
頁を繰る。
茶会当日、主催補助控え。
西小客間。
東控えの間。
南回廊中継卓。
聖女待機室――記載なし。
ルカは指を止めた。
あった。
少なくとも当日の公式控えに、“聖女の控室”という部屋名は存在しない。
「その頁を写しますか」
老書記が尋ねる。
「原本照合印付きで必要です」
ルカが言うと、老書記は嫌そうな顔を深めたが、引き出しから印箱を出した。
「最近は、皆やたらと急ぐ」
愚痴ともぼやきともつかない声だった。
その言葉に、ルカは返事をしなかった。
急いでいるのは、自分たちではない。相手だ。こちらは、その急ぎ方に追いつくために急がされているだけだ。
原本照合印付きの写しを受け取り、さらに配膳経路控えも確認する。
そこにははっきりと、南回廊中継卓の記載があった。つまり、盆が途中で誰かの手に渡ること自体は、当日の運用として不自然ではない。
次の一手が見え始める。
ルカが行事室を出たところで、廊下の向こうから見覚えのある黒衣が近づいてきた。第三記録室の補助官だ。
「探しました」
「何かありましたか」
「室長より。すぐ戻れと」
補助官は息を整えながら続ける。
「殿下が、本日暮刻に暫定審問を開くそうです」
ルカの足が止まる。
「今日のうちに?」
「はい。法務院が供述要旨を根拠に、エレノア様の行動制限強化を求めたと」
あまりに速い。
だが、速いからこそ分かる。相手は今日のうちに流れを固めたいのだ。リディアの供述が冷える前に。矛盾が揃う前に。王太子の判断が動く前に。
「提出記録は」
「暮刻一刻前までに揃えろと」
補助官が低く言う。
「室長は、供述の速度と部屋名の矛盾だけでは足りんかもしれないと」
ルカは手元の写しを見た。
西小客間。
南回廊中継卓。
聖女の控室――記載なし。
足りない。
だが、足りなくても出さなければならない。
「副印照会は」
「いま公爵家へ記録院名義で走らせています」
そこは間に合っている。
ルカは短く頷いた。
「戻ります」
第三記録室へ戻ると、アルヴィンは机の上をすでに戦場のように整えていた。
移送前現況記録。
供述要旨写し。
宮廷行事室の部屋割り控え。
配膳経路控え。
名簿保管室から借り出した聖女付き侍女名簿。
「見つけたか」
「当日の正式控えでは、西小客間です」
ルカが写しを差し出すと、室長は一度見ただけで要点を掴んだらしい。
「“聖女の控室”は後付けの語か」
「少なくとも、当日の公式名称ではありません」
「よし」
アルヴィンは即座に紙を並べ替える。
「供述の速さ、移送前記録との矛盾、部屋名の不一致。三本で出す」
「副印照会が間に合えば、流通控えにも刺せます」
「間に合わせるしかない」
室長はそこで、供述要旨の末尾を指で叩いた。
「だが、もう一つ気になる」
ルカも同じ箇所に目を落とす。
――袖口に付着した青色粉末については、当該菓子の糖衣による可能性を否定しない。
青い粉。
面会室で見た。回廊でも見た。だが、移送前に法務院側はそれを正式にはまだ知らないはずだった。少なくとも記録院の正規記録には、青い粉についての採取報告は上げていない。
「法務院が、面会室の時点で袖口の青い粉を問題にしていた可能性があります」
ルカが言うと、室長は頷いた。
「つまり」
「リディアを移送する前から、袖を見ていた。あるいは、付いていることを知っていた」
「偶然には見えん」
アルヴィンは短く言った。
「その一文も入れる。誰が、いつ、それを認識したのか不明だとな」
紙の上で、戦う順番が組み上がっていく。
叫び合いではない。
罵り合いでもない。
ただ、相手が急いで整えた紙の綻びへ、別の紙を順に噛ませていく。
それがこの物語の戦い方だった。
そのとき、室の外で足音が止まった。
次いで、扉が叩かれる。
「ヴァレンティア家より急使です」
入ってきた使者は、公爵家の紋入り封筒を両手で捧げ持っていた。かなり急いで来たのだろう、肩で息をしている。
ルカの胸の奥が、わずかに熱を持つ。
副印照会だ。
アルヴィンが封を切り、中の紙を開く。数行読んだその目が、わずかに細まった。
「来たか」
「何と」
室長は紙をルカへ差し出した。
そこには、公爵家帳場責任者の署名付きでこう記されていた。
――茶会当日、王家下賜品に関しヴァレンティア家が受領した正式管理票控えに、当該流通控え番号と一致する記載なし。加えて、同日付で副印を押した記録も存在せず――
流通控えが、家側の記録と繋がらない。
つまりあの横流し証拠は、少なくとも正式な受領管理票ではない可能性が極めて高い。
ルカは紙を握りしめた。
これで一つ崩せる。
いや、まだだ。
「暮刻審問に出します」
「もちろんだ」
アルヴィンはすでに別紙へ要点をまとめ始めている。
「部屋名、移送時刻、供述矛盾、副印不一致。これでようやく卓に載せられる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、今度は別の伝令が飛び込んできた。
「室長!」
「何だ」
「法務院が追加資料を提出しました」
伝令は青ざめていた。
「追加?」
「はい。茶会当日、聖女ミレイユ様付き侍女ヘレナの出入りを証明する臨時雇上簿の写しを――」
ルカの指先が止まる。
そんな名は、名簿保管室の補助簿に存在しなかったはずだ。
伝令はさらに続けた。
「しかも、その写しには、記録院照合済みの印が押されている、と」




