第三話 連れ去られる前に、時刻を打つ
面会室の空気が、一段冷えた。
法務院の若い書記官は、開け放った扉の前に立ったまま、侍女へ向けて移送命令書を軽く掲げてみせた。礼を欠いた態度ではある。だが、それ以上に悪質なのは、その無造作さが「もう決まったことだ」と告げる形になっていることだった。
「当該侍女を、これより保護聴取のため移送します」
侍女の肩がびくりと震える。
エレノアは立ち上がらない。声も荒げない。ただ、卓の下で重ねた手の指先だけが、わずかに硬くなった。
ルカは差し出された命令書を受け取り、まず日付と時刻を見た。
今朝付けだ。起案時刻は、ヴァレンティア家から面会申請が出たのとほとんど変わらない。いや、申請よりわずかに遅い。つまり相手は、こちらの動きを知ったうえで被せてきている。
「法務院命令です」
若い書記官が言う。
「速やかな引渡しを」
声は落ち着いている。だが、落ち着いているのは自分が有利だと思っている者の声だ。
ルカは書面から顔を上げずに問うた。
「命令番号がありません」
書記官の目が、ほんの一瞬だけ揺れる。
「緊急扱いです。後で正式番号が振られます」
「移送先は」
「法務院第二聴取室」
「担当聴取官名は」
書記官が眉をひそめた。
「そこまで答える必要がありますか」
「移送記録に必要です」
ルカは淡々と返した。
「誰を、どこへ、誰の管理下へ移したか。正式記録へ残します」
そこで初めて、法務院側の立会事務官が口を開いた。
「記録院は移送の妨害をするつもりか」
「妨害ではありません」
ルカは命令書を静かに机へ置く。
「引渡しの前に、時刻と理由と受領者を記すだけです」
若い書記官の顔に、あからさまな苛立ちが滲んだ。
彼らは急いでいる。だからこそ、この場に自ら来たのだ。後から呼び出しでは遅い。侍女が先に何かを話す前に、口の向きを変えたい。
ならば、こちらが取るべき手は一つしかない。
順番を固定する。
「移送前現況記録を取ります」
ルカは席へ戻らず、その場で小型の記録板を開いた。
「氏名、所属、出頭理由、現在時刻、命令執行者名」
「そんなものに意味はない」
若い書記官が言う。
「あります」
ルカは初めて相手を見た。
「記録に残るので」
短い言葉だったが、それで十分だった。
エレノアの背後にいた侍女が、不安そうに主人を見上げる。エレノアは彼女へ視線だけを向け、ほとんど動かないほど小さく頷いた。
話しなさい、ではない。
怯えないで、に近い頷きだった。
「氏名を」
ルカが言う。
侍女は唇を震わせ、それでも答えた。
「……リディアと申します。ヴァレンティア家侍女です」
「本日この面会室へ出頭した理由は」
法務院の事務官が顔をしかめる。
「そこまで聞く必要はない」
「あります」
ルカは筆を止めなかった。
「任意出頭の目的は、移送時に併記します」
リディアは喉を鳴らした。緊張で声が細くなる。
「エレノア様の閲覧申請に伴い、茶会当日の配膳について、お話しするためです」
そこまで言ったとき、若い書記官が鋭く遮った。
「それは法務院で――」
「続けてください」
ルカの声は静かだった。
だが、遮るには遅かった。もう「茶会当日の配膳について話すために来た」という事実は、記録板の上に乗っている。
リディアは一度だけエレノアを見た。
エレノアは微動だにしない。けれど、その青灰の瞳だけが、侍女の言葉を支えていた。
「……当日、わたくしは焼き菓子の盆を南回廊まで運びました」
書記官が一歩踏み出す。
ルカは顔も上げずに言った。
「移送前の現況記録です。続けます」
「それ以上は法務院の聴取権限を侵す」
「侵していません。本人が、何を話すために来たのかを記しているだけです」
リディアは怯えている。だが、ここで黙ればこの先もっと酷い形で言葉を奪われることを、きっと理解していた。
「南回廊で……わたくしは、盆を宮廷側の侍女へ渡しました」
面会室の空気が止まる。
ルカの筆先だけが、羊皮紙を擦る音を立てた。
「名は」
リディアは少しだけ目を閉じた。思い出すというより、言ってしまった以上は最後まで言うしかないと決めた顔だった。
「ヘレナと名乗っておりました。聖女様付きの侍女だと」
若い書記官が顔色を変えた。
「勝手な供述は記録に値しない」
「名乗りの有無は事実として残せます」
ルカは書きながら返す。
「真偽は別です」
「その女が実在するかも分からん話を――」
「だからこそ、先に時刻付きで残します」
ルカはようやく筆を止めた。
「本日この時刻、移送前の面会室で、当人がそう述べた。少なくともそこまでは、正式記録になります」
若い書記官の顎が硬くなる。
彼らが欲しかったのは、真っ白な侍女だ。何も言っていない状態で法務院へ連れていき、そこで順番ごと整え直す。だが今、もうそれは崩れた。名前が一つ、先に刻まれた。
ヘレナ。
聖女付きの侍女。
それが真実かどうかはまだ分からない。だが、法務院側がこの名を消したければ、まずこの記録そのものをどうにかしなければならない。
それは簡単ではない。
「受領者名を」
ルカは若い書記官へ向けた。
「移送命令執行者として」
書記官は露骨に不愉快そうな顔をしたが、ここで名を拒めばそれ自体が記録に残る。少しの逡巡のあと、吐き捨てるように名乗った。
「ニコラス・ヴェイン。法務院補佐官付き書記官だ」
やはり、昨夜保管庫に来たと保管庫番が証言した人物と符合する。
ルカはその名を書き留め、命令書に押された蝋封へもう一度視線を落とした。
端に走る細い傷。
昨夜、空の保管箱に残っていた欠片にも、同じような擦過痕があった。これだけで断定はできない。だが、同じ器具を使う人間、同じ癖を持つ手、あるいは同じ部署の封緘方法――少なくとも偶然と切り捨てるには、少し気になる。
「もうよろしいでしょう」
ニコラスが言う。
「引き渡していただく」
「ひとつ確認します」
ルカは命令書を持ち上げた。
「本移送は、本人の任意同行ではなく、法務院命令による強制を含む移送で相違ありませんか」
リディアがはっと顔を上げる。
ニコラスは一瞬、答えを選んだ。
任意同行と言えば聞こえはいい。だが後で本人が拒否したと記録に出れば不利になる。強制を含むと認めれば、今度は法務院が先に圧をかけた形になる。
「……命令に基づく保護だ」
曖昧な答えだった。
ルカはそのまま書いた。
「本人の明示同意は未確認。法務院命令による保護移送と執行者は説明」
ニコラスが舌打ちしかけ、ぎりぎりで飲み込む。
エレノアはそこでようやく立ち上がった。
大げさな動きではない。だが、部屋の空気が少し変わるには十分だった。
「リディア」
彼女は侍女の名を呼んだ。
命じる声ではない。けれど、崩れそうなものを支えるための硬さがある。
「泣かないで」
リディアの目に涙が溜まる。
それでも、零さないように必死で堪えた。
「あなたが見た順番だけを、忘れずにいて」
リディアは唇を噛み、何度も小さく頷いた。
ルカはその頷きまで記録したい衝動を覚えたが、さすがに筆は動かさなかった。代わりに時刻だけを打つ。移送開始時刻。侍女の出頭目的。移送理由。執行者名。命令番号なし。
順番だけは、もう捻じ曲げさせない。
ニコラスが一礼とも呼べない角度で頭を下げ、リディアへ顎をしゃくった。リディアは一歩だけためらい、しかしエレノアのほうへもう一度視線を向けてから、法務院側へ歩いた。
去り際、彼女の袖が卓の端をかすめる。そこに、ごくわずかな青い粉が落ちた。
ルカの目が止まる。
昨日、回廊でも見たのと同じ色だった。深くも淡くもない、焼き菓子の糖衣に紛れそうな青。
ニコラスは気づいていないのか、それとも気づいていて無視したのか、そのままリディアを連れて部屋を出ていく。扉が閉まる音が、妙に大きかった。
法務院の立会事務官も、居心地悪そうに一礼して退室する。
残されたのは、ルカとエレノアだけだった。
正確には、壁際のもう一人の記録補助官がいたが、気配を殺している。今は数に入らない。
しばらく誰も口を開かなかった。
先に声を出したのはエレノアだった。
「……ありがとうございました」
「まだ何も取り返していません」
「それでもです」
彼女の声には疲労が滲んでいた。昨夜よりも、今日のほうがよほど消耗しているのだろう。断罪の場では気丈でいられても、こうして一つずつ味方を切り離されていく状況は、別の形で人を削る。
「ヘレナという名に心当たりはありますか」
ルカが問うと、エレノアはかすかに眉を寄せた。
「聖女付きの表向きの侍女名簿には、見覚えがありません」
「表向きの、ですか」
「聖女付きは、王宮女官とは別に神殿から世話役がつくことがあります。出入り名簿が完全に一致しないことはある」
それは面倒だった。王宮側の記録だけでは足りない可能性がある。
「ただ」
エレノアは続ける。
「リディアは、人の名を捏ねて作る子ではありません。嘘をつくなら、もっと分かりやすく自分が助かる嘘を選ぶでしょう」
その言い方が少しだけ柔らかく、ルカは視線を上げた。
エレノアは疲れている。それでも侍女の性質を説明するときの声だけは、妙に静かだった。
守るべき相手のことを、ちゃんと見ている人間の声だ。
「副印の件と、睡蓮毒の件」
ルカは卓の上を整えながら言った。
「どちらから当たるべきだと思いますか」
エレノアはほとんど間を置かなかった。
「副印です」
「理由は」
「毒は、すり替えだと言われれば反証に時間がかかります。ですが管理票は違う。押されているか、いないかです」
さすがに切り分けが早い。
「それに、下賜品の控えは、我が家にも控えが残っているはずです」
ルカは顔を上げた。
「家側の控えがあるのですか」
「正式受領物なら、ええ。少なくとも、受領時に副印を押した控えは」
それは大きい。原本が抜かれても、家側の受領控えが生きていれば、流通控えの偽造を別の角度から刺せる。
「ですが、公爵家の帳場へ今すぐ自由に連絡できる立場ではありませんわ」
エレノアは自嘲もなく言った。
王宮内待機の身だ。当然だ。
「記録院経由で照会をかけます」
「法務院が止めに来るでしょう」
「来る前に打ちます」
ルカがそう答えると、エレノアは初めて、ごくわずかに目を細めた。
笑ったわけではない。だが、昨日までよりほんの少しだけ、彼を信用する方向へ傾いた表情だった。
「それが、あなたの戦い方なのですね」
「順番を先に置くだけです」
「充分です」
その短い応答が、妙に深く残った。
ルカは青い粉を小紙片へ受け、折りたたんで封じる。簡易採取だ。正式鑑定には足りないが、何もせずに失うよりましだった。
「リディアの袖についていたものです」
「糖衣かもしれませんし、染料かもしれませんわね」
「ええ。ですが、昨日の回廊にも同じ色が落ちていました」
エレノアの視線が鋭くなる。
「面会室の外で?」
「はい」
「では、リディアに最初から付いていたのではなく、ここへ来るまでか、ここへ来てから付いた可能性もある」
ルカは頷いた。
毒と決めるには早い。だが、偶然にしては続きすぎている。
「記録官殿」
エレノアが言う。
「リディアは怯えています。ですが、怯えているからこそ、余計な作り話はできません。今日の名乗りも、渡した場所も、おそらく彼女の見た順です」
「順番だけは、もう残しました」
「ええ」
そこで彼女は一度だけ目を伏せた。
「それだけでも、昨夜よりはずっとましです」
ルカは返す言葉を持たなかった。
人を慰めるのは得意ではない。たぶん、この先も上手くはならないだろう。だが今の一言に対して、下手な励ましは不要だとだけは分かった。
必要なのは、次の一手だ。
「聖女付きの名簿を確認します」
「王宮側と神殿側、両方を」
「はい」
「それから、ヴァレンティア家の副印控えも」
「先に照会を打ちます」
ルカは記録板を閉じた。
そのとき、面会室の外を足音が通り過ぎた。複数。急いだ歩幅だ。法務院の者か、ただの伝令かまでは分からない。
だが、悠長にしている時間はない。
ルカは一礼した。
「本日の移送記録は、直ちに正規保管へ回します」
「お願いいたします」
「それと」
ルカは少しだけ迷い、結局そのまま口にした。
「ヘレナという名が、偽名でなければいいのですが」
エレノアはまっすぐ彼を見た。
「偽名でも構いません」
その返答は、妙に強かった。
「偽名を使う必要があったということ自体が、次の記録になりますもの」
ルカは一瞬、言葉を失った。
やはりこの令嬢は、守られるだけの人ではない。
彼女は壊されかけながらも、まだ戦い方を考えている。
面会室を出たあと、ルカはその足で記録院の名簿保管室へ向かった。
昼の王宮は、昨夜の断罪が嘘のように整然としている。だが、その整然さの下で、人は平然と記録を削り、侍女を連れ去り、順番を奪う。
ならばこちらも、整然と追うしかない。
聖女付き侍女の登録名簿。神殿出入り役の仮登録一覧。臨時雇上女官の補助簿。
受付の老書記が訝しげな顔で台帳を運んでくる。ルカは礼だけ述べ、すぐに頁を繰った。
ミレイユ付き侍女。
常勤二名。臨時一名。神殿補助二名。
ヘレナの名は、ない。
次に神殿側の補助簿を見る。
そこにも、ない。
最後に、臨時雇上女官の補助簿へ目を落としたとき、ルカの指が止まった。
ヘレナではない。
だが、今朝の移送命令書に副署していた受領補佐名の欄に、見覚えのある筆癖があった。払いの長い、癖のある綴り。昨夜、削られた閲覧台帳にかろうじて残っていた筆圧の向きと似ている。
同じ手かもしれない。
そこまで考えた瞬間、名簿保管室の扉が勢いよく開いた。
「ルカ!」
第三記録室の若い伝令が、息を切らして立っていた。
「室長が至急戻れと。法務院が、侍女の供述をもうまとめたそうです」
早すぎる。
ルカは反射的に台帳を閉じた。
「まとめた?」
「はい。しかも――」
伝令が唾を呑む。
「リディアが、エレノア様の指示で菓子盆を聖女の控室まで運んだと認めた、と」




