第二話 消えた原本と、公爵令嬢の依頼
保管箱の中は、驚くほど整っていた。
だからこそ、異様だった。
複製目録は揃っている。綴じ紐も切られていない。箱の底には剥がれた封蝋の欠片が残り、見た目だけなら、少し前まで何も問題なく収まっていたようにしか見えない。
その中から、原本だけが抜かれている。
ルカは箱を閲覧机へ移し、ランプを寄せた。
毒物鑑定書の原紙。立会人署名入りの報告書。王家下賜品の流通控え本紙。
昨夜の断罪を支えたはずの紙のうち、夜会で指摘した不自然さを裏づけるものだけが、きれいに消えていた。慌てて持ち去ったのではない。必要なものだけを選び、痕跡をできるだけ少なくして抜いている。
最初から、何を消すべきか分かっている手つきだった。
ルカは箱の底に残っていた封蝋の欠片を指先で裏返した。赤い蝋の裏に、細い傷が一本、深く走っている。爪で引いたようにも見えるし、金具の縁に引っかけたようにも見えた。
欠片を脇へ置き、今度は棚脇の閲覧台帳を開く。
原本を閲覧、照合、持出するなら、必ず記録が残る。誰が、いつ、どの権限で、どの箱に触れたか。それだけは、記録院の人間なら新人でも叩き込まれる。
該当頁を開いたルカは、そこで眉を寄せた。
七二一、七二二には記載がある。仮収蔵担当の署名も押印も揃っている。だが、七二五だけが空白に見えた。
いや、とルカは目を近づける。
空白ではない。羊皮紙の表面がわずかに毛羽立っていた。上から刃で削られている。慎重ではあるが、完全ではない。書かれた文字の圧だけが薄く残っていた。
記録ごと消したのだ。
背中を冷たいものが走る。
夜会の最中、誰かがここへ来て、箱に手を入れ、台帳まで削った。証拠の場所だけでなく、消し方まで知っている。場当たりではない。手順を知る人間の仕事だ。
「……ルカ殿?」
入口のほうで声がした。
振り向くと、夜番の保管庫番が眠気を押し殺した顔で立っていた。五十を過ぎた小柄な男で、長く保管庫を守っている人物だ。几帳面で、余計なことは言わない。
「まだおられたのですか」
「七二五の閲覧記録が削られています」
ルカがそう言うと、番人は台帳を覗き込み、すぐに毛羽立ちに気づいた。顔色が変わる。
「これは……」
「夜会の間に誰か来ましたか」
番人は少し迷い、それから声を潜めた。
「法務院の方が一度。殿下の宣言前です。急ぎの照合だと」
「名は」
「ベルナール補佐官付きの書記官でした。若い男で、通行札を見せてきたので……」
ベルナール。昨夜、大広間でルカを恫喝した法務院補佐官の名だ。
「七二五を持ちましたか」
「箱の番号までは見ておりません。ただ、仮収蔵棚の前にいたのは確かです」
「別帳の記録は」
番人は口ごもった。
「夜会対応で出入りが重なって……本来なら、もっと厳密に残します」
責めても意味はない。いま必要なのは失点探しではなく、順序だった。
「外扉の鍵は」
「私と保管責任者、それから緊急時用に記録院長官室」
「今夜、錠前に違和感は」
「閉めたとき、少し渋かった気がします」
ルカは無言で頷いた。
線は引ける。だが、まだ線でしかない。法務院付きの書記官が夜会前に保管庫へ入り、夜会後には原本が消え、台帳が削られている。十分に不自然だが、断定には足りない。
足りないからこそ、次に行かなければならない。
夜が白み始めるころ、ルカは第三記録室へ戻った。
机の上には、昨夜の夜会記録の草稿が置かれている。婚約破棄宣言。証拠提示。記録院記録官による異議。断定保留。
あの数行が、すでにいくつもの敵を作っている。
「遅い」
低い声が飛んだ。
室の奥にいたのは、第三記録室の室長アルヴィンだった。痩せた顔に疲労の色を貼りつかせた男で、感情を表へ出さないことで知られている。厳格だが、軽々しく部下を差し出す人物でもない。
「保管庫へ行っていました」
「知っている。夜番から報告は上がった」
アルヴィンは草稿を指先で叩いた。
「まず確認する。昨夜のお前の発言は、記録院の命令ではないな」
「はい。照合結果をもとに、記録官として述べました」
「そうだろうな」
叱責が来ると身構えていたが、室長は短く息を吐いただけだった。
「法務院から抗議が来ている。下役の越権だと」
「……はい」
「同時に、王太子殿下から原本照合を急げとの言付けも来た」
そこで初めて、アルヴィンはルカをまっすぐ見た。
「いまのお前は睨まれている。だが同時に、外せない」
ありがたい立場ではない。
「保管庫から原本が抜かれていました。台帳も削られています」
ルカが言うと、室長の目が細まる。
「夜会前に、ベルナール補佐官付きの書記官が入ったと」
「証言だけでは弱い」
「分かっています」
「だが、軽視もできん」
アルヴィンは考え込み、それから小さな封書を机上へ滑らせた。
「再審査の暫定命令だ。記録院からはお前が照合担当となる」
「私が」
「昨夜止めたのがお前だからだ」
室長の声は淡々としていた。
「もう一つ。ヴァレンティア公爵家から正式な申請が来ている。提示証拠の目録閲覧と、被疑側の補足申述だ。面会室で立ち会え」
ルカは一瞬だけ黙った。
エレノア・ヴァレンティアと、直接会うことになる。
「法務院は反対していますか」
「当然だ。しかも今朝、侍女の先行聴取を法務院側が申し入れてきた」
ルカは顔を上げた。
「侍女を先に押さえるつもりです」
「分かっている。だから先に会え」
室長の目が少しだけ鋭くなる。
「感情で動くな。証拠でしか話すな。だが、順番は守れ。順番を押さえたほうが勝つ」
それは、記録官にとって最も理解しやすい命令だった。
面会室は、小謁見回廊脇の静かな部屋だった。
装飾は控えめで、窓から入る昼の光が卓上を白く照らしている。大広間ほど華やかではない。だからこそ、人の疲れが隠れない場所だった。
ルカが入ると、エレノアはすでに席についていた。
昨夜の深紅ではなく、今日は灰青の昼衣をまとっている。髪飾りも少ない。それでも部屋の空気は彼女を中心に張っていた。華やかだからではない。崩れないからだ。
だが、昨夜より明らかに痩せて見えた。眠っていないのだろう。目の下の薄い影だけが、その事実を冷たく告げている。
背後には若い侍女が一人。昨夜、前へ出かけた娘だった。目元が赤い。泣いたのだと分かる。
壁際には法務院の立会事務官が一人、無言で控えていた。無言であること自体が監視の形をしている。
エレノアはルカを見ると、ゆっくり立ち上がった。
「記録官ルカ・エヴァレット殿」
礼は最小限だが、軽んじてはいない。
「エレノア・ヴァレンティア様」
ルカも一礼する。
「昨夜は」
エレノアが言いかけ、ほんの少しだけ言葉を選んだ。
「……助けていただいた、と申すのは正確ではありませんわね」
「私は手続き上の不一致を述べただけです」
「ええ。ですから、その一点について礼を申し上げます」
感情を飾らない、真っ直ぐな言い方だった。
「そして、時間がありません」
その言葉に、ルカはすぐ気づく。
「侍女の件ですね」
エレノアは小さく頷いた。
「法務院が先に聴取を申し入れているのでしょう」
壁際の事務官が、そこで初めて口を開いた。
「進行中の案件です。被疑当事者が口を差し挟むべきではありません」
「差し挟んでおりません」
エレノアはそちらを見なかった。
「順番の確認をしているだけです」
その返しは静かだったが、冷たかった。
侍女がぎゅっと唇を噛む。若い。怯えているのに、声を出すまいとしているのが余計に痛々しい。
エレノアは一度だけ、その侍女を見た。そこで初めて、ほんのわずかに彼女の表情が揺れた。
「昨夜、彼女を止めました」
低い声だった。
「私を庇わせれば、すぐに共犯にされると分かっていましたから」
侍女が顔を伏せる。
「ですが、このまま法務院に先に取られれば、同じことです。脅されれば、若い娘の言葉など、いくらでも順序を変えられる」
そこで一度、エレノアは息を止めるように唇を閉じた。
「私の名がどう記されようと、もう構いません」
その言葉は静かすぎて、かえって痛かった。
「けれど、彼女まで偽りの記録に沈めることだけは、させたくないのです」
ルカは少しだけ目を伏せた。
昨夜、大広間で見た品格は、ここでも崩れていない。だが今の一言で、その品格の奥にあるものがようやく見えた。強いのではない。強くなければ、周囲ごと潰される立場にいるだけだ。
「申請があれば、先に任意陳述を取れます」
ルカは言った。
「日時、場所、立会人を定め、記録院に正規保管させる。手順上は可能です」
壁際の事務官が眉をひそめる。
「法務院の聴取が先だ」
「その規定はありません」
ルカは視線を向けずに答えた。
「被疑側補足申述の一部として、関係人の任意陳述を先行記録することは可能です」
事務官が何か言い返しかけたが、ルカは続けた。
「その発言も、必要であれば記録します」
部屋が静まる。
牽制としては十分だった。
エレノアは侍女へ目配せした。娘が震える手で小箱を差し出す。中には、銀鎖に通された小さな印章が入っていた。
「ヴァレンティア家の副印です」
エレノアが言う。
「王家下賜品のような重要物品は、王家印に加え、受領先の家でも副印を押して管理します。昨夜の流通控えに、この副印がありましたか」
ルカは一瞬間を置いた。
受理官名の空欄ばかりを見ていて、副印まで確認していない。
「覚えていません」
「でしょうね。あの場でそこまで見ろというのは酷ですもの」
エレノアの声音に嘲りはなかった。ただ事実だけを置く。
「ですが、副印がなければ、我が家の正式管理票ではありません。少なくとも、私の管理下から出た記録ではない」
ルカは小さく頷いた。
それだけでも、流通控えの真贋に新しい綻びが生まれる。
「それと、もう一つ」
エレノアは続けた。
「睡蓮毒は、甘味に混ぜると青い沈みが出ます。王宮厨房がそのまま通すとは思えません」
「ご存じなのですか」
「王太子妃教育では、毒見役任せにしないための基礎知識を学びます。茶会を主催する側なら、当然です」
そこに虚勢はなかった。むしろ、そうした務めを本気で学んできた者だけが持つ平坦さがあった。
「では、菓子のほうがすり替えられた可能性がある」
「あるいは、鑑定書のほうが」
エレノアはそこで言葉を切る。立会人の前で断定はしない。その線引きができるところが、やはり彼女らしかった。
ルカは初めて、彼女の視線を真正面から受けた。
青灰色の瞳は、昨夜より少しだけ疲れていた。だが折れてはいない。
「記録官殿」
エレノアが言う。
「私は、無実を信じてほしいとは申しません。まだ証拠がないのですから」
その言い方に、ルカはわずかに息を止めた。
「けれど、偽りが先に整えられていくのを、ただ見ているつもりもありません」
その言葉は、依頼であると同時に宣言だった。
彼女もまた、戦うつもりでいる。
そのときだった。
廊下側の扉が、遠慮なく叩かれた。
法務院の立会事務官が顔をしかめる。返事を待たずに扉が開き、紺の外套を着た男が入ってきた。若い書記官だ。保管庫番の証言どおりなら、昨夜ここへ来た相手かもしれない。
「失礼」
男はそう言いながら、失礼の形をしていなかった。
「法務院より通達です。当該侍女を、これより保護聴取のため移送します」
侍女の顔から血の気が引いた。
エレノアの指先が、卓の下でわずかに強張る。
「保護聴取?」
ルカが問う。
「記録院による任意陳述申請が先です」
「受理前でしょう」
若い書記官は薄く笑った。
「こちらは法務院命令です」
差し出された封書には、赤い蝋封が押されている。
ルカはその封に目を止めた。
蝋の端に、細い傷が一本、深く走っていた。
昨夜、保管箱の底に残っていた欠片と、同じ傷だ。
胸の奥が一気に冷えた。
偶然ではない。
この封を扱った手が、昨夜の保管箱にも触れている。
「確認します」
ルカは封書を受け取った。
書記官が止めようとするより先に、蝋封の縁へ視線を落とす。爪ではない。細い金具の擦過痕だ。保管庫の封を外したときと同じ癖が、ここにも残っている。
書記官の表情がわずかに動く。
その一瞬で十分だった。
「この移送命令も、記録に残します」
ルカは静かに言った。
「侍女の身柄移送が、被疑側補足申述の直前に行われたことも含めて」
「好きにすればいい」
書記官は言ったが、その声は薄く強張っていた。
「ただし、時間はない。今すぐ引き渡してもらう」
侍女がかすかに息を呑む。
エレノアは立ち上がらなかった。縋らなかった。ただ、その娘を振り返り、静かに言う。
「泣かないで」
それは命令ではなく、祈りに近かった。
「あなたが見た順番だけを、忘れずにいて」
若い侍女は唇を震わせ、それでも頷いた。
ルカはその頷きを見た。
まだ間に合う。
いまここで、この移送そのものを記録へ載せる。順番を固定する。誰が、いつ、どの理由で、どの娘を連れていったか。あとから言葉を捻じ曲げるなら、その前に時刻を打つしかない。
ルカは封書を握りしめた。
赤い蝋の傷が、掌の中で硬く尖っていた。




