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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第一話 断罪の日、議事録係だけが沈黙しなかった


 婚約破棄が告げられる夜会では、音が先に死ぬ。


 王宮大広間に満ちていた弦楽は、セドリック第一王子が壇の中央へ進み出た瞬間、糸を切られたように途絶えた。貴婦人たちは笑みの形だけを唇に残し、杯を持つ手を止める。燭火は無数の宝石を照らし、その下で、磨き抜かれた床が人々の視線まで映していた。


 これから誰かが踏み外すのを、皆が待っている。


 ルカ・エヴァレットは壁際の細机に立ち、羽根筆を持つ指先にわずかに力を込めた。


 王宮記録院第三記録室付記録官。


 夜会、謁見、審問、評議。公の場で交わされた言葉を、順に、削らず、飾らず、正式記録として残すのが彼の役目だった。誰が何を言ったか。何が決まり、何が命じられ、何が保留されたか。記録官は目立たず、口も出さず、ただ残す。


 そういう立場だ。


 だが今夜の空気は、最初から妙に乾いていた。花の香りも酒の匂いもあるのに、祝宴の柔らかさだけがなかった。


「諸侯列席のもと、ここに宣言する」


 セドリックの声が、大広間の天蓋へ真っ直ぐ伸びる。


「エレノア・ヴァレンティアとの婚約を、私は破棄する」


 ざわめきが弾けた。


 予想していた者は多かったのだろう。噂は数日前から宮廷じゅうを巡っていた。だが、噂と宣言は違う。王太子の口から正式に落ちた瞬間、その言葉はただの私情ではなく、王家の意志に近い重みを持つ。


 歓喜に近い好奇。安堵。嫌悪。面白がる気配。


 それらすべての視線が、一人の令嬢へ集まっていた。


 エレノア・ヴァレンティア公爵令嬢。


 王太子の婚約者。社交界では高慢、冷酷、嫉妬深い悪役令嬢として恐れられている娘。


 そのエレノアは、大広間の中央でひとり立っていた。


 深紅のドレスは夜会の華としてはあまりに冷たく、咲ききる前に凍った薔薇のように見えた。背筋は伸び、肩は揺れず、扇も持たない両手は静かに前で重ねられている。泣き崩れもしない。取りすがりもしない。顔色は白いが、怯えた白さではなかった。怒りと誇りを薄く塗り重ねて、ようやく保っている白さだ。


 そして、その隣には誰もいない。


 対して、セドリックのそばには、守られるように置かれた少女がいた。聖女ミレイユ。淡い乳白色の衣に包まれた彼女は、青ざめた顔で王子の袖口を見つめている。侍女と近衛騎士が半歩後ろに控え、その周囲だけが庇護のための空間になっていた。


 被害者と加害者。


 今夜、この場に必要とされている役割は、すでにそう決められているようだった。


「理由は明白だ」


 セドリックが言う。


「エレノア・ヴァレンティアは、聖女ミレイユへの継続的な嫌がらせ、王家より下賜した贈答品の不正な横流し、そして茶会における毒物混入未遂に関与した疑いが濃厚である。証言および証拠は、すでに揃っている」


 従者が一歩進み出て、封を施された書類束を掲げた。


 ルカは反射的に机上の受理控えへ目を落とす。


 夜会前、法務院から記録院へ回された複製目録だ。断罪案件として臨時提出された証拠一覧。正規の運用であれば、まず法務院が受理し、記録院へ保管番号付きの控えが回る。その控えと今まさに掲げられた書類束を照らし合わせながら、彼は宣言の記録を取る。


 いつもの仕事だ。


 いつも通りであるはずだった。


 だが、筆を走らせながら、視界の隅に引っかかるものがあった。


 提出番号、七二一。七二二。七二五。


 七二三と七二四が抜けている。


 ルカの指先が止まりかける。


 別件が間に挟まること自体はある。数字が欠けているだけなら、それだけで不正とは言えない。だが今夜の証拠一式は、法務院よりこの断罪案件として一括提出されたはずだ。綴じが一つ、封が一つなら、本来は連番で揃うのが自然だった。


 彼は次の紙を追う。


 毒物鑑定書。


 法務院式の書式。だが右下の受理印が、記録院の正規印と微妙に違う。輪郭がわずかに太い。日付刻印の位置が半字ぶん左へずれている。朱の滲み方も、普段使う印泥のものではない。


 粗い贋作とまでは言えない。だが、毎日何十通も印影を見ている人間の目には、よく似せた別物にしか見えなかった。


 さらに立会人署名欄。


 署名日は本日五刻。


 対して仮収蔵目録では、同じ鑑定書が四刻半には書庫仮収蔵済みになっている。


 順序が逆だった。


 ルカはまばたきを一つだけした。


 書き違いかもしれない。転記ミスかもしれない。役所の紙に小さな齟齬が混じること自体は、そう珍しくもない。だが、婚約破棄と断罪の根拠として読み上げられる証拠が、都合よくいくつも乱れているのは、さすがに不自然が過ぎる。


「……聖女ミレイユの私室に届けられた菓子からは、睡蓮毒の痕跡が検出された」


 読み上げは続く。


「配膳経路にはヴァレンティア家の侍女が関与しており、また王家下賜品の一部が外部商会へ流れた証言も得られている」


 貴族たちのざわめきは、もはや断罪への賛同に近い熱を帯びていた。


 悪役令嬢が、ついに裁かれる。


 誰もがそれを見に来ている。誰もが、それで話が美しく収まると信じている。


 ルカはわずかに視線を上げた。


 エレノアはまだ立っていた。頬は青ざめている。けれど、視線だけは折れていない。自分に向けられた悪意や好奇を受け止めながら、なお倒れないために必要な強さだけを、彼女は辛うじて身の内に残しているように見えた。


「何か申し開きはあるか、エレノア」


 セドリックが問う。


 広間が待つ。


 泣くか、縋るか、見苦しく否定するか。


 そうすればこの断罪は、もっと分かりやすく完成するのだろう。


 だが、エレノアは静かに口を開いた。


「ございます」


 その一言だけで、数人が意外そうに顔を上げた。


「ただし、情に訴えるつもりはありません」


 声は澄んでいた。震えはない。無理に強がっている声でもない。そういう場ではないと、自分で決めている声だった。


「殿下が私を裁かれるのであれば、しかるべき手続きに則ってください。私は、いま読み上げられた証拠すべての閲覧を許されておりません。証人との対面も、反証提出の猶予も与えられていない」


 わずかに顎を引く。


「王家との婚約を解くほどの決定を、審査も記録も欠いたまま下されるおつもりですか」


 広間が一瞬だけ静まった。


 無実だとは叫ばない。


 可哀想だとも訴えない。


 ただ、手続きの瑕疵だけを指摘する。


 その応じ方が、噂に聞く高慢さとは違っていた。少なくとも、愚かではない。自分の不利を理解したうえで、最後まで格式を失わない者の言葉だった。


 そのとき、エレノアの後ろに控えていた若い侍女が半歩前へ出かけた。顔色を失い、今にも何かを叫びそうな表情で。


 エレノアは振り向かない。


 ただ、重ねた手の指先をほんのわずかに下げた。


 下がりなさい。


 そう命じたのだと、ルカには分かった。


 自分を庇わせないために。


 ルカはもう一度、受理控えへ目を落とす。


 毒物鑑定書、受理記録なし。


 受理印不一致。


 署名日と仮収蔵時刻の逆転。


 加えて、贈答品流通控えの提出経路欄には、法務院の受理官名が記されていない。空欄だ。


 美しくない書類だった。


 整合性の取れていない紙は、正式記録へ流し込んではならない。


 そう叩き込まれてきた。


 しかし同じくらい強く教え込まれてきたこともある。記録官は場を乱さない。発言は職分を越えない。判断は上がする。下役が公の場で口を挟めば、それ自体が秩序を乱す行為になる。


 黙っていれば安全だった。


 このまま筆を走らせればいい。セドリック第一王子が婚約破棄を宣言し、法務院提出の証拠に基づき断罪が進行したと、そのまま残せばいい。


 そうすれば今夜は終わる。


 そして、不備のある証拠が、正式な記録として王宮の台帳に残る。


 記録は、事実より長く生きる。


 一度刻まれた文言は、その場にいた人間の記憶よりも強く残る。後から誤りが見つかっても、「当夜、正式提出済み証拠あり」と記されていれば、それが先に真実の顔をする。


 だから記録官は、ただの筆記係ではないはずだった。


 机の端で、隣の年長記録官が低く囁く。


「……書け。余計なことはするな」


 声は小さい。だが、命令ではなく警告だった。ここで口を挟めばどうなるか、年長者として分かっている声音だ。


「殿下のお言葉を止めれば、お前の首だけでは済まん」


 ルカは返事をしなかった。


 従者が証拠書類を法務院卓へ置く。綴じ紐の端から、赤い封蝋の欠片がひとつ転がり落ちた。受理印は薄く欠け、押し直したような歪みがある。


 その瞬間、迷いが切れた。


 このまま書けば、虚偽が正式になる。


 それだけは駄目だった。


 ルカは立ち上がった。


 椅子が床を擦る音が、大広間じゅうに痛いほど響いた。


 視線が突き刺さる。


 楽が止んだ後の物音は、いつも罪深く聞こえる。


「誰だ」


 セドリックの声が落ちる。


 ルカは前へ出ず、その場で一礼した。膝の裏が強張っているのが分かる。背に冷たい汗が伝った。ここで名を呼ばれれば、もはやただの記録係には戻れない。


「記録院第三記録室付、ルカ・エヴァレットです」


「何の用だ」


 苛立ちだけではなかった。警戒と、不快と、公式の場を乱された者の怒りが混じっている。王子は、自分がいま王家の名に近い重みで宣言していることを理解している。だからこそ、その途中に入る声を無視できない。


 広間のあちこちで、扇の陰から嗤いを含んだ視線が向けられる。


 下役が出過ぎた真似をした。


 そういう目だ。


 ルカは受理控えを持つ指に力を込めた。


「ただいま提示された証拠の一部について、正式受理の記録が確認できません」


 しん、と音が消えた。


 今度はざわめきすら起きない。ただ沈黙だけが一度で大広間を満たした。


 法務院補佐官が弾かれたように顔を上げる。表情が変わるのが、遠目にも分かった。


「何だと」


 セドリックが低く問う。


 ルカは淡々と続けた。


「毒物鑑定書の受理欄が空白です。保管印の書式も記録院式と一致しません。加えて、立会人署名の日付と仮収蔵時刻の前後が逆転しています」


「馬鹿な」


 補佐官が一歩前へ出た。


「些末な記載揺れだ。証拠能力を損なうものではない。場をわきまえろ、記録官」


 最後の一言には、露骨な圧があった。


 下がれ。黙れ。今ならまだ無かったことにしてやる。


 そう言っている。


 だが、ルカは視線を上げなかった。


「正式証拠として採用するには、受理記録が必要です」


 ただ、事実だけを置く。


「贈答品流通控えにも受理官名の記載がありません。少なくとも、今この場で断罪の根拠として確定させるのは規定に反します」


 短い。冷たい。逃げ道を残さない言い方だった。


 補佐官の顔から、血の気が引く。


「貴様――」


「記録院の意見として言っているのか」


 セドリックが遮った。


 その問いは鋭かった。ここでルカが「個人の所感です」と言えば終わる。越権で処理される。逆に「記録院の総意です」と言えば、上司の許可もない発言として別の罪になる。


 広間の視線がさらに重くなる。


 隣の年長記録官が青ざめているのが視界の端に見えた。


 ルカは一瞬だけ沈黙し、喉の奥で息を整えた。


「記録院に回付された受理控えとの照合結果です」


 言葉を選ぶ。


「正式記録に記す以上、私は確認できない受理を、確認済みと書くことはできません」


 個人の感想ではない。


 記録官としての職責だと、そう返した。


 セドリックの目が細められる。怒りはある。だが同時に、無視できないとも理解している顔だった。ここで強引に押し通せば、断罪そのものが瑕疵を帯びる。王太子として、それは避けたいはずだ。


 その間にも、貴族たちの空気は変わり始めていた。


 つい先ほどまで処刑台を見る目をしていた者たちが、今は断罪そのものの綻びへ食いついている。獲物が変わったのだ。悪役令嬢から、失態を見せた法務院へ。


 その中で、ルカは初めて真正面からエレノアの視線を受けた。


 青灰色の瞳。


 高慢と呼ぶには、あまりに張りつめていた。凍っているのに、その内側にはまだ熱が残っている。そんな目だった。


 彼女は助けを求めなかった。


 ただ、ほんの一瞬だけ、その瞳が揺れた。


 驚きか、警戒か、それとも、まだ終わらないかもしれないと知った者の揺れか。


 ほんの刹那だったが、その微かな変化だけで、彼女がここまで一人で踏み堪えていた時間の長さが見えた気がした。


 セドリックは書類束を見た。法務院補佐官を見た。ミレイユが不安げに王子を見上げる。その指先は袖口を掴み、白くなっていた。


 やがて王子は、短く息を吐く。


「……法務院、説明しろ」


 補佐官は口を開いた。だが、すぐには言葉が出ない。


 それだけで十分だった。


「本件の断定は保留とする」


 広間が大きくどよめく。


「記録院および法務院は、提出証拠の受理手続きと原本照合を直ちに行え。エレノア・ヴァレンティアは王宮内待機。正式な再審査まで、身柄拘束は行わぬ。ただし、自由な外出は禁ずる」


 完全な撤回ではない。


 疑いは消えていない。


 それでも、即時断罪は止まった。


 誰かが舌打ちした。誰かは安堵の息を漏らす。誰かは面白がるように扇を口元へ寄せた。夜会はもはや祝宴ではなく、綻びの見物席へ変わっていた。


 ルカは一礼し、机へ戻った。


 戻った途端、指先が遅れて震えた。いまさらだった。口を開いた瞬間に、すべては終わっている。今後、法務院に睨まれるかもしれない。上司から叱責もあるだろう。最悪、記録院から外される可能性もある。


 それでも、書けないものは書けなかった。


 夜会が解かれた後、ルカは記録院保管庫へ向かった。


 王宮の奥は静かだ。石廊下に夜会の熱は届かず、灯りの届かない曲がり角は、昼よりも古く見える。壁際の燭台が落とす影は長く、足音ひとつがやけに響いた。


 保管庫の扉を開けると、紙と蝋と木棚の匂いがした。


 ランプを掲げ、仮収蔵棚を探る。


 七二一。七二二。


 そして、七二五。


 箱はある。封もされている。目録も挟まっている。


 だが、手に取った瞬間、軽すぎると分かった。


 背中に冷たいものが走る。


 封を改め、綴じ紐をほどく。


 中にあるべき原本が、ない。


 毒物鑑定書も、立会署名の原紙も、王家下賜品の流通控えも、肝心なものだけが抜かれていた。残されているのは複製目録と、底に転がる小さな封蝋の欠片だけ。


 誰かが、先に手を入れている。


 ルカは無意識に息を殺した。


 そのとき、廊下の奥でごく微かな音がした。靴音というには軽すぎる。衣擦れか、扉に触れた指先の気配か。


 振り向く。


 ランプの火が揺れる。


 だが、誰の姿もない。半ば閉じていた外扉だけが、今しがた触れられたようにわずかに動いていた。


 保管庫の静けさが、急に生き物じみて思える。


 ルカは空になった箱を見下ろした。


 今夜止めたのは、断罪そのものではない。せいぜい、落ちる刃を一度止めただけだ。


 誰かがその刃を研ぎ、証拠を差し替え、記録を奪った。


 そしてその誰かは、いまも王宮の中にいる。


 このままでは、偽りが正式な顔をして戻ってくる。


 ルカは箱の底に残った封蝋の欠片を拾い上げた。


 赤い欠片の裏には、爪で引っかいたような細い傷が一本、深く残っていた。

面白かったらぜひコメント下さい。

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