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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第七十話 仮寄せは、承諾の代わりにならない

 椅子は、人より先に関係を作ることがある。


 どこへ座らせたか。

 誰の列へ寄せたか。

 その並びだけで、まだ交わされていない返答が、もう済んだ顔を持ち始める。


 王太子宮の記録室は、応接よりも少しだけ冷たかった。


 壁は淡灰。窓は高い。中央の長机には、筆と控え札と、小さな受け皿が二つ。

 ひとつは東脇室から押さえた内向き照会盆。

 もうひとつは王太子宮側の内向き受け盆。


 その両方の脇へ、ルカ・エヴァレットは紙を順に並べていた。


 ――青三

 ――東脇室受け

 ――席意確認

 ――公女位予定者 内向き照会済

 ――高位女性席予定者 内向き受け可

 ――正面第二列 王太子宮側随伴受け

 ――殿下口上は後

 ――仮寄せ止まり


 薄い紙ばかりだった。

 だが、ここまで揃えば、もう偶然では済まない。


 セドリック第一王子は机の上を見下ろしたまま、短く言った。


「入れ」


 扉が開く。


 入ってきた女は、音を立てなかった。


 年は三十代の終わりか、四十に届くかどうか。濃い色を避けた、鈍い灰青の衣。飾りは少ない。だが、飾らないこと自体が選ばれていると分かる身なりだった。

 髪は高くも低くもなく、視線の邪魔にならぬ位置できっちりまとめられている。顔立ちは穏やかだ。穏やかだからこそ、ここまで来るあいだに人を何人も黙らせてきたのだろうと分かる。


 クラリス・ヴェルンは、王子へ一礼した。


「お呼びとのことでしたので」


「座れ」


「ありがとうございます」


 声音は柔らかい。

 しかしその柔らかさの裏に、相手の緊張を先に吸い取ってしまう種類の手際があった。


 ルカは、彼女が手にしている薄綴りへ目を向けた。


 綴紐は鈍い金だった。


 クラリスは視線だけでそれを隠そうとしたが、遅い。

 もうこちらは、その色を知っている。


「東宮女房局上席補佐、クラリス・ヴェルン」


 セドリックが言う。


「今朝の拝謁式に関し、確認したいことがある」


「はい」


「まず、これを見ろ」


 王子は、正面第二列の差し替え札を机の中央へ押し出した。


 クラリスはそれを見た。

 眉一つ動かさない。

 だが、見覚えのない紙を見た顔でもなかった。


「王太子宮側随伴受け。仮寄せ止まり。殿下口上は後。さらにこちらには、公女位予定者、内向き照会済」


 セドリックは東脇室側の札も並べた。


「私は、この札を知らない」


「……そのようですわね」


 静かな返答だった。


「“そのようだ”で済ませるな」


「承知いたしました」


 クラリスは机上の紙を一枚ずつ見た。

 目が速い。

 どれが何を意味するか、見れば分かる人間の目だった。


「これらは、当朝の仮整えです」


 やがて彼女は言った。


「仮整え」


 エレノアが繰り返す。

 王子の正面ではなく、少し外れた席に立ったままだ。


「ええ。高位女性席まわりの導線は、最後の一刻まで揺れます。ですから、場が乱れぬよう幾つかの仮寄せを先に用意しておくことがあります」


「本人に聞く前に」


「本人へ伺うことと、場を崩さぬ準備は別です」


 そこへ、ルカが鈍い金の綴紐の綴りを置いた。


 四年前。

 九年前。

 十年前。


 どれも同じ系統の紙だ。

 どれも端に、蔓のように細いCとVの崩しが残っている。


「そして、その仮整えはいつも鈍い金の綴紐で回る」


 ルカが言う。


 クラリスの目が、そこで初めてほんの少しだけ止まった。


「綴紐管理簿には、上席補佐預りとある。式朝返却不要。古い綴りの添閲欄には、C.V.の崩し花押。今朝の差し替え札の端にも同じ崩し」


 ルカは彼女の手元の薄綴りを見た。


「今日も同じ紐ですね」


 クラリスは、ようやく小さく息を吐いた。


「記録院らしい見方ですこと」


「否定されますか」


「いいえ。上席補佐預りの綴紐であることも、私が添閲した綴りがあることも」


 あっさりと認めた。

 だが、それは降りたのではない。ここから先の言い方を、自分の言葉で整えるつもりの認め方だった。


「では続けます」


 ルカは机上の盆へ指を向けた。


「東脇室には、内向き照会済の札がありました。王太子宮側の盆には、内向き受け可。両側へ入っている。つまり、どちらの返答もないまま、双方が半歩寄った顔を作ろうとしていた」


「そこは、言い過ぎです」


 クラリスが初めて、はっきりと口を挟んだ。


「仮整えは、あくまで乱れを防ぐためのもの。成立を装うものではありません」


「では、なぜ口上を後に置くのです」


 エレノアが問う。


 クラリスが彼女を見る。


「口上が先に立てば、仮整えが仮整えでなくなるからです」


「違いますわね」


 エレノアの声は穏やかだった。

 だが、穏やかさの下に刃がある。


「口上が先なら、私がその場で拒めるからでしょう」


 沈黙。


「青三で通し、東脇室で内向き照会済の顔を作り、正面第二列へ寄せる。そのあとで口上が来れば、拒んだ側が場を乱したように見える」


 エレノアは続ける。


「それは仮整えではありません。断りにくい形を先に作ることです」


 クラリスは視線を逸らさない。


「公女様は、物事をまっすぐご覧になる」


「回りくどい言い方はおやめなさい」


 セドリックが低く言った。


「私は聞いていない。エレノアも聞いていない。にもかかわらず、私の側と彼女の側へ、それぞれ寄せ札が入っていた」


 王子の指が、正面第二列の札を押さえる。


「これは返答の前に、返答が済んだ顔を作る行いだ」


 クラリスは、その言葉を否定しなかった。


 代わりに、少しだけ顔を上げる。


「殿下。王宮は、ときに人の返答を待っていられない朝があります」


 その一言で、部屋の空気が変わる。


 エレノアの目が冷える。

 ロウェルは壁際で、まるでそれを待っていたように口元を歪める。


「待てない、ですか」


 セドリックの声は低いままだった。


「はい。高位女性席が長く空位の顔をさらせば、周囲はそこへ勝手な意味を読みます。失効した婚約がどうであれ、並びが長く空いたままなら、それ自体がまた別の噂を生む」


「だから、席だけ先に寄せる」


「場を保つために」


「誰の場だ」


 返答は一息遅れた。


「王太子宮の、です」


 セドリックが目を細める。


 自分の宮のためだと、彼女は今、はっきり言った。


「私の宮の場を保つために、私の口より先に札を差したのか」


「殿下のためでもあります」


「違う」


 セドリックは即座に切った。


「私のためなら、私に先に言え」


 その一言は、決して大きくなかった。

 だが、紙の上の理屈より重かった。


 クラリスはそこで初めて、完全には整えきれない沈黙を見せた。

 だが崩れない。

 崩れないからこそ、今までこの位置にいたのだろう。


 ルカは机の上の二組の並び札を寄せる。


 通常形。

 差し替え形。


「高位女性席が長く空位の顔をさらせば噂が生まれる。そう仰いましたね」


「ええ」


「つまり今回の仮整えは、単に一行事の滑らかさのためではない。失効した婚約後の公女位の見え方そのものを、王太子宮側で先に整えるためのものだった」


「整える、という言い方なら否定しません」


 クラリスは答える。


「崩れたものがあるなら、場はそれをいつまでも剥き出しでは置けませんから」


 エレノアが、そこで静かに言った。


「なら、なおのこと許せませんわね」


 誰もすぐには言葉を返さない。


「崩れたものをどうするかは、当事者が決めることです」


 エレノアは続ける。


「場が先に覆いをかけて、“もう戻り始めている顔”を作ることではありません」


 クラリスは彼女を見た。

 その視線には、敵意と同時に、少しだけ本物の困惑も混じっていた。


「公女様は、そうやって長く空位を晒しておくことの危うさをご存じない」


「いいえ」


 エレノアは答える。


「私は、危うさを知っています。だからこそ、自分の返答より先に並びで決められるほうを嫌うのです」


 部屋が静まる。


 ロウェルが壁際でぽつりと言う。


「やっと、本音が出たわね」


 クラリスがわずかに視線を動かす。


「何の」


「配慮でも滑らかさでもないわ。あなたが一番嫌がってるのは、“空位の顔”でしょう」


 ロウェルは続ける。


「高位の席が空いて見えること。失効した婚約のあと、王太子宮の横に空白が残ること。それがたまらなく嫌だから、先に並びだけ埋めようとした」


 クラリスは答えなかった。

 だが、その答えない沈黙が、何よりも答えだった。


 セドリックが静かに言う。


「記録官」


「はい」


「ここまでの札と盆の差し紙、綴紐管理簿、花押写しをまとめろ。今の発言も添えろ」


「承知しました」


「それから、東宮女房局上席補佐クラリス・ヴェルンに対し、今朝の拝謁式における仮寄せ札運用、内向き受け盆差し紙、正面第二列差し替えの説明を正式に求める」


 これで、ただの呼び出しではなくなる。

 説明義務が落ちる。


 クラリスは、その言葉を正面から受け止めた。

 逃げなかった。

 だが、逃げないことと負けることは同じではないと分かっている顔だった。


「承りました」


 短い返答だった。


 けれど、その直後に彼女はもう一言だけ足した。


「ただし、殿下」


「何だ」


「高位女性席を長く空位の顔で置いておけば、次にそこへ何が入り込むかは、私どもより先に外が決めます」


 その言葉は、脅しではなかった。

 忠告とも言い切れない。

 もっと嫌な、実務者の現実だった。


 ルカはその一言を聞いて、机上の札よりもそちらのほうが気になった。


 外が決める。


 つまり、クラリスたちは場を守るために並びを作ろうとしただけではない。

 並びを空けたままにした時、別の誰かがそこへ勝手な意味を流し込んでくると知っているのだ。


 セドリックも、それを聞いて黙った。


 エレノアの目は、少しも揺れていなかった。


「それでも」


 彼女は静かに言う。


「私の席へ何を入れるかは、私より先に決めさせません」


 クラリスは一礼し、退いた。


 扉が閉まる。


 残ったのは、机の上の札と、言葉より先に並びを作ろうとした朝の痕跡だけだった。


 ロウェルが小さく息を吐く。


「綺麗に認めたわね。否定できるところだけ否定して、嫌がってる本音だけ落としていった」


「ええ」


 ルカは答えた。


「でも、足りません」


「何が」


 ミナが問う。


 ルカは差し替え札を見た。


「“外が決める”の外です」


 青三。

 東脇室。

 正面第二列。

 空位の顔。

 王太子宮の横の空白。


 誰かが、そこへ勝手な意味を流し込もうとする。

 だからクラリスたちは先に埋めようとした。


 では、その“外”とは何か。


 礼拝棟か。

 聖女席か。

 公爵家筋か。

 それとも、もっと別の儀礼線か。


 今度の相手は、女房局の上役だけではないのかもしれない。


 机の上の並びは止まった。

 だが、並びを空けた時に誰がそこへ入ってくるのかという、もう一つの問いが、新しくそこへ置かれた。

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