第六十九話 殿下の返答より先に、席だけが寄せられていた
並びは、ときどき返答の代わりを装う。
どこに立ったか。
誰の列へ戻ったか。
その見え方だけで、本人同士の言葉はもう済んだのだと、周囲が勝手に納得してしまう。
王太子宮の小応接は、朝の光を薄く受けていた。
高窓はあるが広くない。壁は淡い灰。机は一つ。応接用としては簡素だが、記録院の小応接よりは少しだけ柔らかい。
だが、今そこにある空気は柔らかくなかった。
セドリック第一王子は、机の上に置かれた差し替え札を見ていた。
――正面第二列 王太子宮側随伴受け
――公女位予定者 内向き照会済
その横へ、ルカが今朝までの控えを順に置く。
青三。
東脇室受け。
口上後置。
席意確認。
セドリックは視線を上げた。
「これが、今朝の構えか」
「はい」
ルカが答える。
「エレノア様の承諾も、殿下の返答もないまま、周囲が先に並びだけを整えていました」
エレノアは王子の正面ではなく、少し外した位置に立っていた。
それだけで、この場の距離がまだ元へ戻っていないことが分かる。
「私は、この札を見たことがない」
セドリックは差し替え札を指で押さえた。
「今朝、控え束の端に混ざっていた。誰も説明していない」
「はい」
ルカは短く言う。
「そのうえで、東脇室には“内向き照会済”の札が用意されていました」
セドリックの眉間に、わずかに皺が寄る。
「内向き照会、とは誰に対してだ」
「殿下か、殿下の側近筋です」
「私は聞いていない」
その即答は速かった。
言い逃れではない。むしろ、自分の名を使われたことへの反発のほうが先に出た返しだった。
ロウェルが壁際で低く言う。
「でしょうね。聞いていたら、こういう札はもっと丁寧に隠すわ」
セドリックはその言葉に反応しなかった。
代わりに、エレノアを見る。
「あなたにも、何も」
「ええ」
エレノアは答える。
「私は今朝、青三の導線へ置かれる前でした。ですが、もしそのまま通されていれば、殿下の側と内で照会が済んだ顔だけが残ったでしょう」
セドリックの表情が、そこで少しだけ硬くなる。
「失効した婚約の続きを、席で先に作るつもりだったと」
「はい」
ルカが答える。
「しかも、あとから否と言った側が、場を乱した顔になる並びです」
小応接がしんとする。
セドリックはしばらく何も言わなかった。
怒っている。
だが、その怒りはエレノアへ向いていない。自分の知らぬところで、自分の側の列が使われたことへの怒りだった。
「王太子宮の内向き盆を確認したか」
やがて彼は近侍へ問う。
「いえ、まだ」
「今すぐ持て」
近侍が一礼して出る。
戻るまでの短い空白のあいだ、セドリックは差し替え札を見下ろしていた。
王子としてというより、あの夜に断罪を口にした当人として、また一つ、自分の前で勝手に並びが作られていたことを受けている顔だった。
「私は」
そのまま低く言う。
「撤回はした。失効とも定めた。保留とも言った」
エレノアは黙って聞いている。
「それでも周囲には、“戻したい側の並び”がまだあるということか」
「はい」
ルカは答えた。
「戻したいのではありません」
エレノアが静かに言う。
「戻したように見せたいのです」
セドリックが顔を上げる。
「違いは大きいな」
「ええ。前者なら、まだ本人の返答を待ちます。後者は、返答の前に場のほうを整えます」
その一言が、机の上の札よりも重く落ちた。
やがて近侍が戻る。
手にしているのは、小さめの内向き照会盆だった。東脇室にあったものと似ているが、王太子宮側のほうは縁がやや厚い。
セドリックが自ら受け取り、底板を外す。
そこには細い紙が二枚、差してあった。
一枚目。
――高位女性席予定者、内向き受け可
二枚目。
――正面第二列、仮寄せ止まり
――殿下口上は後
ルカの視線が止まる。
「同じです」
エレノアもそれを見ていた。
「こちらでも、口上は後置」
「はい」
ルカが言う。
「つまり両側です。東脇室では“内向き照会済”。王太子宮側では“内向き受け可”。双方の盆に、口より先の札が入っている」
ロウェルが乾いた声で言う。
「本人同士が何も言ってないのに、周りだけでもう半分話を済ませてるのよ」
セドリックは二枚の紙を机へ置いた。
「誰が、これを私の盆へ差した」
近侍が即答できず、顔を伏せる。
「分かりません。ただ、朝の控え束は、礼法係と女房局の手を一度通っています」
やはり、そこだ。
ルカは東脇室の札と、王太子宮側の紙を並べる。
青三。
東脇室受け。
席意確認。
公女位予定者。
内向き照会済。
高位女性席予定者、内向き受け可。
正面第二列、仮寄せ止まり。
殿下口上は後。
「仮寄せ止まり」
エレノアが読む。
「本決まりではない顔だけを先に置く言い方ですわね」
「ええ」
ルカは答える。
「正式には戻していない。けれど、仮に寄っている。だから、そのあと自然に本位置へ進めやすい」
セドリックはそこで、はっきりと嫌悪を浮かべた。
「私の口より先に、私の側へ人を寄せるな」
それは怒鳴り声ではなかった。
だが、小応接の空気を変えるには十分だった。
近侍が深く頭を下げる。
「は」
「礼法係、女房局、主催卓へ回せ。今朝付けで、王太子宮側随伴受け、内向き受け可、正面第二列仮寄せの札運用を停止する」
「承知しました」
近侍が出ていく。
それで終わりではない。
だが、今朝の構えに対して、初めて当事者本人の否定が正式に落ちた。
エレノアはセドリックを見た。
「殿下」
「何だ」
「いま止められたことは、記録に値します」
その返しに、セドリックの目がわずかに動く。
「だが、それで済むとは思っていない」
「ええ」
エレノアは頷く。
「私もです」
しばらく沈黙が落ちる。
断罪の夜とは違う沈黙だった。
今は、誰か一人を落とすためではなく、誰の返答もないまま前へ進んでいた並びを止めたあとに来る沈黙だ。
「記録官」
セドリックが言う。
「はい」
「この札と盆の差し紙、全部記録へ取れ。今日の朝に、誰がどちらの側へ、どの語で手を入れたかを一本にする」
「承知しました」
「それから」
王子の視線が、机上の紙群からほんの少し外れる。
「クラリス・ヴェルンを呼べ」
ついにその名が、この場で口にされた。
ロウェルが壁際で小さく息を吐く。
エレノアは何も言わない。だが、その沈黙はただ待つだけのものではなかった。
鈍い金の綴紐。
CとVの花押。
青三。
東脇室。
正面第二列。
内向き受け可。
全部が、ようやく一人の現行名へ寄り始めている。
「ただし」
セドリックは続けた。
「今はまだ、私の前で“配慮でした”と言わせるだけでは足りない」
ルカは顔を上げる。
「どうされますか」
「この札が、誰の承諾もないまま両側へ入ったという事実を先に固める。逃げられぬ形でだ」
その判断は正しかった。
いま呼んでも、相手は善意と配慮の言葉で煙を巻くだろう。
だが、盆と札が両側に入っていた事実はもう動かない。
エレノアが静かに言う。
「並びは、止まりました」
「ええ」
ルカが答える。
「ですが、止めた並びを誰が作ったかまでは、まだ言わせていません」
セドリックは短く頷いた。
「なら次は、言わせる」
小応接の窓の外では、朝の光が少しだけ強くなっていた。
今朝、場はまた本人たちの返答より先に何かを決めようとした。
だが今度は、その並びが閉じ切る前に当事者の口へ届いた。
それだけでも、前とは違う。
そして次は、その並びを誰が当然のように作り続けていたのかを、もう一段深く切らなければならない。




