第七十一話 空位には、外の意味が先に入る
空いた席は、長く空いたままではいられない。
誰も座っていなくても、そこへは意味が流れ込む。
見た者が勝手に読み、離れた場所の人間ほど、自分に都合のよい名前をそこへ置く。
クラリス・ヴェルンが退いたあと、王太子宮の記録室にはしばらく沈黙が残った。
机の上には、まだ差し替え札と内向き照会盆が並んでいる。
――正面第二列 王太子宮側随伴受け
――公女位予定者 内向き照会済
――高位女性席予定者 内向き受け可
――仮寄せ止まり
――殿下口上は後
どれも薄い札だ。
だが、今朝ここで起こりかけていたことを思えば、薄いとはもう言えない。
セドリック第一王子は、差し替え札へ視線を落としたまま言った。
「外が決める、か」
誰に向けた言葉でもなかった。
だが、ルカ・エヴァレットにはそれが次の問いだと分かった。
「殿下」
「何だ」
「その“外”を切ります」
セドリックは短く頷いた。
「取れ」
第三記録室へ戻ると、ロウェルがすぐに言った。
「対外向けの見取図よ」
椅子に腰を下ろすより先に、彼女は保管庫の方向を顎で示す。
「内側の札だけ見ていても足りないわ。空位がどう見えるかは、外へ出る紙のほうが早いもの」
ルカはミナへ向き直る。
「対外供覧箱。使者向け見取図、諸侯家回覧下書き、礼拝棟供覧刷り。今朝分があれば全部」
「承知しました」
ミナが走る。
エレノアは机の端へ指を置いたまま、静かに言った。
「外、とは噂だけではありませんのね」
「ええ」
ルカは答える。
「噂は、たいてい紙の見え方に寄ります。特に、行事の席順は」
しばらくして、ミナが薄い箱を三つ運んできた。
使者向け見取図。
諸侯家回覧下書き。
礼拝棟供覧刷り。
どれも内向きの札ほど細かくはない。
その代わり、外から一目で分かるように、色と位置と列だけが強く出る。
ルカは最初の束を開いた。
使者向け見取図。
王太子宮の列は濃い灰。
高位女性席は青。
聖女席は白。
その簡略な色分けが、かえって嫌だった。内側の複雑さが消えて、外から見える意味だけが残るからだ。
「これです」
ルカが机へ一枚置く。
通常形。
王太子宮側の列と、高位女性席は半歩ずれている。聖女席はさらに外。
次を置く。
差し替え下書き。
王太子宮横の空位へ、青の線が寄る。
さらにもう一枚。
別案。
こちらは青ではない。
白の線が、同じ空位へ寄っていた。
エレノアの目が、その白線で止まる。
「白……」
「聖女席です」
ルカは答える。
ロウェルが低く言った。
「そういうことね」
机の上に、二つの案が並ぶ。
空位へ青を寄せる案。
空位へ白を寄せる案。
王太子宮の横に空白がある。
そのまま晒せば、外はそこへ意味を流し込む。
なら、青か白か。どちらかを先に置いたほうが、場としては“収まる”。
「クラリスが言っていた“外”は」
エレノアが静かに言う。
「誰か個人ではなく、空位へ勝手な関係を読み込む目そのものですのね」
「はい」
ルカは答えた。
「そして、その目に先回りするために、青を置こうとした」
「白が寄る前に」
ロウェルの言葉が落ちる。
ルカは礼拝棟供覧刷りの束を開いた。
そこにはもっと露骨な補記が残っていた。
――王太子宮横、長く空けるべからず
――白脇寄せ可
――青が入るなら白は退く
エレノアが、その最後の行を読む。
「青が入るなら白は退く」
静かな声だった。
だが、その静けさの下に冷たい理解があった。
「争っていたのではなく」
彼女は続ける。
「外へ見せる意味の取り合いでしたのね」
「ええ」
ルカは言った。
「王太子宮横の空位を、誰の色で埋めるか。青なら公女位。白なら聖女席」
ロウェルが壁際で腕を組む。
「だからクラリスは焦ったのよ。空位をそのまま置けば、白が先に意味を持つ。だから青三で先に器を立てた」
エレノアはしばらく何も言わなかった。
怒っている。
だがその怒りは、白へも青へも単純には向いていない。
自分という人間が、また色の意味で扱われていたことへの怒りだった。
「私は」
やがて言った。
「ただ空いている場所へ押し込まれそうだったのではありませんでしたのね」
「はい」
ルカは答える。
「“誰が王太子宮の横に見えるか”の争いへ、色として使われかけていた」
ミナが、諸侯家回覧下書きの束から一枚引き抜いた。
「これ、記録官」
端紙だった。
急ぎの書き足しらしく、紙質も本文と違う。
――白は朝祈り後
――青は拝謁前
――外向きは青を先とせよ
ロウェルが目を細める。
「ほらね。もう順番の相談までしてる」
「外向きは青を先とせよ」
エレノアがゆっくり読む。
「つまり、内側でどう思っているかとは別に、外へ見せる顔としてはまず青を置け、ということですわね」
「ええ」
ルカは頷いた。
「青を先に見せれば、王太子宮横の空位は“公女位が戻りつつある”ように見える。白を先に見せれば、“聖女席が近い”ように見える」
「どちらも、本人たちの返答より先に」
「はい」
そのとき、扉が控えめに叩かれた。
入ってきたのは礼拝棟の補助女官だった。若い。だが顔色は良くない。ここへ来ること自体、正しいことではないと知っている顔だった。
「記録官様」
「何です」
「礼拝棟供覧係より……今朝差し止めになった白脇寄せ案について、確認を求めたいと」
ルカとエレノアが同時にその女官を見る。
「誰が」
ルカが問う。
「供覧係の主任ではなく、聖女席側の補助からです」
白が、もう動いている。
エレノアの目が静かに細くなる。
「ミレイユ様ご本人ではなく」
「そこまでは……ただ、“白が押し返された理由を知りたい”と」
ロウェルが小さく笑う。
「来たわね。青を先に見せれば、白は黙らない」
ルカは机の上の見取図を見た。
青。
白。
王太子宮横の空位。
クラリスが言った“外”は、曖昧な世間ではなかった。
席の意味を先に読んで、先に外へ流そうとする別の線だ。
「行きます」
ルカが言う。
補助女官が頭を下げる。
「礼拝棟脇の供覧室へ」
「分かりました」
エレノアはすでに立ち上がっていた。
「今度は、白の側が何を“自然”と呼ぶのかを聞きましょう」
その声音は穏やかだった。
だが穏やかなぶんだけ、次の場がただの言い合いでは済まないと分かる声だった。
青三で先に寄せる。
白脇で押し返す。
そのどちらも、本人たちの返答より前に、外へ見せる意味を決めようとしている。
なら次に切るべきは、色ではない。
色へ意味を流し込む側の理屈そのものだ。
空位は、放っておけば黙っている席ではない。
誰かが必ずそこへ物語を流し込む。
今度は、その白い物語のほうへ踏み込まなければならなかった。




