表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

62/71

第六十二話 試歩は、本人の前で既成事実になる

 人は、まだ断っていない役目にも立たされることがある。


 ただ、足場だけを先に作られてしまえばいい。

 札を置き、道を空け、ここを通るはずだという顔を床へ残しておけば、本人の返事はあとから追いつくように見える。


 夏期拝謁式の試歩は、夜明けの少し後に始まることになっていた。


 空はまだ青みを持たず、石廊の窓へ細い白さだけが差している。主催卓脇の導線室は、普段なら札と板の匂いしかしない場所だが、今朝はそれに加えて新しい墨と削り木の匂いがした。


 ルカ・エヴァレットは、扉を開けた瞬間に足を止めた。


 床の上に、もう青い線が出ている。


 細い青紐が三本。

 曲がり角の手前にひとつ。

 控え柱の脇にひとつ。

 そして最後に、高位席正面へ向けて半歩だけ斜めに抜ける位置にひとつ。


 見回り後置受け――青三。


 昨日、箱の中で見た導線色が、もう床の上に立っていた。


「早いですね」


 ルカが言うと、導線室にいた補助書記が肩を跳ねさせた。


「記録官。いえ、その、軽い確認だけでして」


「朝確認はまだです」


「はい。ですが、色位置だけでも先に」


「なぜ」


 補助書記は答えに詰まる。


 そこへ、背後からエレノアの足音が届いた。灰青の衣は今朝も静かだったが、その静けさがむしろ場を張らせる。


「私に聞かれる前に、私の色を置いたからでしょう」


 補助書記が青ざめた。


 エレノアは床の青紐を見下ろし、しばらく何も言わない。

 怒鳴らない。

 だが、その沈黙だけで、誰も軽い言い逃れを出しにくくなる。


 ルカは机の上を見た。


 見回り試歩控え。

 朝確認準備板。

 補助席三番の札差し込み口を広げた木板。

 全部が既に揃っている。


 そのうえ、試歩控えの時刻欄には、まだ始まってもいないはずの線が一本、うっすら引かれていた。


 ――青三 仮通了


 仮通了。


 ルカの目が細くなる。


「誰が歩いたんですか」


 補助書記は視線を彷徨わせる。


「いえ、歩いたというほどでは……位置だけ、合わせただけで」


「誰の位置を」


 答えが返る前に、別の足音が入ってきた。


 ユリアナ・ヘルムだった。


 今朝と同じ淡鼠の衣。だが今は外詰の控え顔ではない。導線室へ来る理由を最初から持っていた者の顔だった。


「記録官」


 彼女は一礼する。


「早いお越しですね」


「あなたもです」


 ルカは答える。


 ユリアナの視線が青紐を一度だけ撫で、それからエレノアへ向いた。


「公女様」


「まだその呼び方で、私をここへ立たせる許しは出しておりません」


 エレノアの声は穏やかだった。

 だが、穏やかだからこそ切れる。


 ユリアナはそれを受け流さなかった。昨日よりは明らかに慎重だ。


「本試歩ではありません。ただ、導線の乱れを避けるために」


「乱れるのは、誰にとってです」


 ルカが机の控えを手に取る。


 ユリアナは答える。


「上位席が動く朝です。高位の方の歩幅、裾幅、立ち返り位置を見てからでないと、脇受けの補助位置が不格好になります」


「高位の方とは誰です」


「個名はまだ」


「なら、なぜ青三と置ける」


 ユリアナの沈黙は短かった。


「色で十分だからです」


 その一言で、導線室の空気がさらに重くなる。


 人名はいらない。

 高位の女性席まわりの形だけが分かれば、先に色を置ける。

 その上で、最も収まりのよい一人をあとから通せばいい。


「つまり」


 エレノアが言う。


「私でなくてもよい。けれど、私なら最も自然だった」


 ユリアナは目を伏せない。


「……はい」


 その認め方が、かえってひどかった。


 ルカは青三の位置札を手に取り、補助席三番の仮札板へ並べた。

 すると、すぐに分かる。

 青三が立つ位置へ線を取ると、補助三番の待機位置が半歩後ろへ押し出される。

 後ろへ押し出された補助三番は、主催側の視界から半分隠れる。

 そして、そのまま“不要”の顔になる。


「マヤが辞退しなくても」


 ルカは言う。


「青三を先に通せば、補助三番は閉じますね」


 補助書記が息を呑んだ。


 ユリアナはすぐには答えない。

 だが否定もしない。


「そういう構造です」


 やがて彼女は言った。


「誰が来ても、青三を優先すれば脇補助は一つ閉じる。ですから、先に静めたほうが傷が少ない」


「また、それですのね」


 エレノアが小さく言う。


「誰の傷を、誰が先に集めるのかを、あなたが決める」


「決めるのではありません。乱れを避けるのです」


「乱れ、ですか」


 エレノアは青紐の一つを見つめた。


「では歩きましょう」


 ユリアナが初めてはっきりと顔を上げた。


「……何と」


「青三の試歩です」


 エレノアは言った。


「あなた方が、まだ私に何も聞かぬうちからここへ置こうとしていたのなら、私自身が今ここを歩いて、何が消えるのかを見ます」


「危険です」


「導線室の中で?」


 淡々と返され、ユリアナは言葉を失う。


 ロウェルがいつの間にか扉口まで来ていた。

 今朝は来ないと思っていたのに、壁に手をついたまま低く言う。


「やりなさい。床の嘘は、歩かせると一番よく分かるわ」


 ルカは短く息を吐いた。


「私が札位置を見ます」


 エレノアは頷き、青三の起点へ立った。


 灰青の裾が、床の青紐の上へかかる。

 その瞬間、導線室の全員が見た。

 青が、ただの色ではなくなる瞬間を。


「進んでください」


 ルカが言う。


 エレノアは一歩出る。

 二歩。

 三歩。


 正面柱を抜け、高位席前の緩い弧へ入る。その時点で、補助三番の位置に立つはずの仮札板が、エレノアの裾の返りを避けるために半歩下がる。


「そこで止まって」


 ルカは床を見た。


 やはりだ。


 エレノアが青三の受け位置に立った瞬間、補助三番の導線は壁側へ押し出され、主催卓からの見通しが切れる。

 そのままでは補助札運びが遅れる。

 だから現場は、“じゃあ補助三番はいらない”という顔をする。


「見えますか」


 ルカはユリアナへ向けた。


「青三が立つと、補助三番は消えます」


 ユリアナは答えない。


 代わりに、補助書記が震える声で言った。


「だから札差し込み口を広げたんです。青三を重ねた後で、補助三番の札を抜きやすいように」


 室内がしんとする。


 ルカがその木板を持ち上げた。


 削られた溝。

 青三を差し込めば、その下の仮札を爪で押し出せる。


「先に色を置いて、あとから個名を消す構えですね」


 ユリアナの肩が、ほんの少しだけ落ちた。


「……最初から、消すつもりだったわけではありません」


「でも、消せる形にしていた」


 エレノアが振り向く。


 青三の位置に立ったままの彼女は、もう“置かれそうだった人”ではなく、この導線の危うさを示す証拠そのものだった。


「それで十分ですわ」


 その言葉に、ユリアナは言い返せない。


 ルカは試歩控えをめくった。

 裏面に、薄い鉛筆書きがある。


 ――青三立てば補三閉

 ――公女位予定者 試歩のこと


 公女位予定者。

 やはり、個名ではない。

 けれど、誰を指すかは十分すぎるほど明らかだ。


「誰が書きました」


 ルカが問う。


 補助書記が小さく手を挙げた。

 顔は真っ青だ。


「わ、私です」


「誰に言われて」


「礼法側の筆記補助に……青三が立つなら、補三は閉じでよいと」


「その筆記補助の名は」


 補助書記は震える唇で答える。


「ミリア・カーフ」


 また一つ、今の名が出る。


 ユリアナだけではない。

 礼法側にも、もう一本の手がある。


 エレノアが青三の位置から一歩退いた。


 それだけで、補助三番の仮札板がまた自然な位置へ戻る。

 誰の目にも分かる変化だった。


「私を入れれば、この子が消える」


 エレノアは静かに言った。


「それを“収まる”と呼ぶのなら、その言葉のほうを訂正すべきですわね」


 ロウェルが壁際で、小さく笑う。

 乾いた、しかし少しだけ愉快な笑いだった。


「そう。やっと本人が歩いてくれたから、床の考えが露わになったのよ」


 そのとき、ミナが新しい札束を抱えて駆け込んできた。


「記録官!」


「何です」


「礼法係の朝確認差し込み札です。今、回る前に止めました」


 ルカが受け取る。


 一番上にあるのは、細い青札だった。


 ――青三

 ――東脇室受け


 東脇室受け。


 ルカの目が、その一語で止まる。


 主催卓前で終わるはずの見回り導線が、そのまま東脇室へ抜ける形になっている。

 東脇室は、夏期拝謁式の正式経路にはない。

 だが、上位者の内向き照会や非公式な上覧前待機に使われる小室だ。


「……まだ先がある」


 ルカがそう呟くと、エレノアが札を見た。


「表の見回りだけでは終わらないのですね」


「はい」


「私を青三へ入れたあと、東脇室へ流すつもりだった」


 誰も否定しない。


 青三は、ただの導線ではなかった。

 表で人を一人消し、次に、表に書かれない小室へ高位の女性席予定者を通すための受けでもあったのだ。


 ユリアナが初めて、ほんのわずかに声を揺らした。


「そこまでは、私は」


「知っていたかどうかは次です」


 ルカは言った。


「でも、あなたはここまでの器を整えた」


 青紐。

 広げた溝。

 仮通了。

 補三閉。

 青三。

 東脇室受け。


 薄いものばかりだった。

 それでも全部、人名より先に既成事実を作るための道具だった。


 夜の気配はもう完全に導線室へ入ってきている。

 だが、今夜はまだ終われない。


 表の導線が終わる場所の先に、もう一つ、記録へ出にくい小室が待っているのなら――

 今度は、その扉の前まで行かなければならなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ