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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第五十六話 戻らなかった侯爵令嬢


 戻された綴りの隣には、まだ戻らなかった綴りがある。


 記録院第三保管庫の棚は、そういう残酷さを隠さない。

 正しい順へ戻された紙も、間に合わなかった紙も、同じ顔で並ぶ。ただ、どちらへ追記があり、どちらに訂正がないかだけが、静かに違っている。


 朝の保管庫は白かった。


 高窓から落ちる光が、棚札の角を細く照らしている。人の声はほとんどない。補助書記が遠くで箱を動かす音が、一度だけ乾いて響いたきりだった。


 ルカ・エヴァレットは、北列三段の前で立ち止まる。


 昨日、そこへ戻したばかりの綴りがある。


 ――夜会断罪宣言撤回並訂正綴

 ――エレノア・ヴァレンティア関係


 断罪不成立。

 婚約破棄失効。

 記録改ざん被害当事者。

 名誉回復手続開始。


 冷たい語ばかりだ。

 だが、その冷たさのおかげで、あの夜の熱に焼かれた名はようやく正しい位置へ戻った。


 その隣に置かれている薄い束へ、ルカは視線を移した。


 ――白箱裏処理跡類例


 嫌なほど簡潔な表題だった。


 少し遅れて入ってきたエレノアが、ルカの横で足を止める。

 灰青の衣は今日も崩れがない。だが、その目には昨日までとは違う静けさがある。自分の名が戻った者だけが持つ、少しだけ硬い静けさだった。


「そこから始めますのね」


「はい」


 ルカは答える。


「今でないと、見落とします」


 壁際の机で箱紐をほどいていたロウェルが、低く言った。


「勝った直後に、こういう箱を開くのは趣味が悪いわね」


 掠れた声だったが、嫌味ではない。

 むしろ、それが王宮の正しいやり方だと彼女も知っている声音だった。


「だから今、です」


 ルカは箱を抱えて机へ移す。


「戻せた名のすぐ隣で見ないと、戻らなかった名を、また“古い類例”の顔で流します」


 エレノアは束の表紙を見つめたまま、小さく言った。


「……私だけが例外であってはなりません」


 その一言で、保管庫の空気が少し変わった。


 ルカは頷き、類例束を開いた。


 抜かれていた案件は三つ。

 七年前、十一年前、四年前。

 最初にルカが選んだのは、七年前のものだった。最も今回の成立順に近いと、昨日のうちに当たりをつけていたからだ。


 表題は短い。


 ――秋の王宮祈礼 補助差替一件


「見ます」


 ルカは机の上へ三枚の紙を並べた。


 補助札控え。

 回付済札。

 進行修正札。


 いずれも黄ばみが出ている。けれど保管状態は悪くない。だからこそ、削られたところだけが妙に新しく見えた。


「最初の補助札です」


 ルカは補助札控えを示した。


 名前欄の一部が、丁寧に薄く削られている。

 だが、灯りを斜めに受けると、最初の筆圧がまだ残っていた。


「ここに最初の名がありました。削られてはいますが、頭の払いが残っています」


 ロウェルが身を寄せる。


「……ア、ね」


「はい。次に回付済札です」


 ルカは二枚目を開いた。


 こちらには、記名欄ではなく欄外の小補記がある。


 ――上位席了承の由


 由。

 やはりそこへ来る。


「そして最後が進行修正札。結果として、当日の補助位置は“差替済”扱いで終わっている」


 エレノアが紙を順に見た。


「最初の名が消え、上位席了承の由だけが残り、修正は済んだ顔で閉じている」


「はい」


 ルカは頷く。


「構造は今回と近いです。ただし――」


 彼は三枚の下へ、さらに一枚を滑り込ませた。


 綴目録札。

 その束には、訂正も撤回も再審もない。


「こちらには、戻した綴りがありません」


 ロウェルが低く息を吐いた。


「表へ出なかったのね」


「ええ。だから、戻されてもいない」


 ルカは綴りの被害当事者欄を開いた。


 そこに、ひとつの名がある。


 アデル・ルーシェ。


 ルカがその名を読むと、エレノアは短く繰り返した。


「アデル・ルーシェ……侯爵家ですのね」


「はい。王宮教育記録では、当時十七歳。秋の祈礼に際して上位女性席の補助見回り候補に入っていたようです」


「それで、この処理」


 エレノアの声音は静かだった。

 だが、その静けさの中に、昨日までと違う温度があった。自分の名前だけを追っていた人の目ではない。もう一つの名前を前にした人の目だった。


 ルカは綴りをさらに進めた。


 そこから出てきたのは、断罪文ではない。

 もっと穏当な顔の紙ばかりだった。


 婚約予定白紙。

 王宮教育離脱。

 療養勧告。

 社交辞退届。


 どれも柔らかい文面で書かれている。

 だからこそ、余計に冷たかった。


「断罪文がありません」


 ルカは言った。


「公の場で咎めた形跡もない。けれど結果として、婚約予定は白紙、教育は離脱、社交は辞退扱いです」


 ロウェルが紙をつまみ上げる。


「断罪しなかったのよ」


 彼女は言った。


「だから争いようもなかった」


 エレノアの表情が、そこでほんの少しだけ変わった。


「……静かに下ろしたのですね」


「はい」


 ルカは答える。


「しかも、本人の願いだったように見せています」


 療養勧告の末尾。

 社交辞退届の欄外。

 どちらにも、似た書き方があった。


 ――当人にて了承の由


 また、由。

 また、伝聞。

 だが、今回はもっとひどい。公の断罪さえないのだから。


 エレノアはその欄外を見つめたまま、低く言った。


「断罪のほうが、まだ戻せます」


 ルカは顔を上げる。


 彼女は続けた。


「宣言があるなら、撤回も置ける。紙があるなら、訂正も綴じられる。けれど――」


「静めるほうが、ずっと卑怯ですわ」


 保管庫の空気が、その一言でさらに冷えた。


 ロウェルが小さく頷いた。


「ええ。傷つけたとさえ書かれないものね」


 しばらく、誰も喋らなかった。


 紙だけをめくる音がする。


 王宮は、こういう消し方をする。

 悪役令嬢とまで呼んでくれたほうが、まだ戦えることもある。

 何も起きていない顔で、一人の名前だけを静かに場から外す。そのほうが、よほど戻りにくい。


 ルカは綴りの最後に挟まっていた後送控えを抜いた。


 家名移行札。

 寄宿院送付簿。

 その先の居所控え。


 いずれも記載は薄い。まるで、これ以上追われることを避けるような薄さだ。


「どこへ」


 エレノアが問う。


「今の居場所ですか」


「はい」


 ルカは紙を順に追った。


 最初は分かりにくい。

 王宮教育離脱のあと、いったん侯爵家別邸。

 次に療養名目で外領。

 そこで記録が細くなる。


 ロウェルが言う。


「こういう時だけ、王宮は人を丁寧に消すのよ」


 ルカは答えず、最後の一枚へ目を止めた。


 寄宿院送付簿の端。

 省略された姓の頭と、イニシャルだけの行がある。


「……いました」


「どこに」


「王都外れの旧領寄宿院です」


 エレノアの睫毛がわずかに動いた。


「生きているのですね」


 それは確かめるような声だった。


「はい」


 ルカは短く答える。


 そして、その紙を静かに机へ置いた。


「会えます」


 言葉はそれだけでよかった。


 アデル・ルーシェは、もう綴りの中の被害当事者ではない。

 今もどこかで生きていて、名前を戻されないまま置かれている人になる。


 そのときだった。


 ロウェルが類例束の下、箱の底を指で軽く叩いた。


「まだあるわ」


 薄い底紙の下に、小さな古紙片が挟まっていた。

 ルカが丁寧に引き抜く。


 そこには短く、こうある。


 ――本件、上位席都合につき静めること


 署名はない。

 だが右下に、ごく小さな内印が残っていた。


 ルカは灯りへかざす。


 擦れている。だが読める。


 ――東宮女房局


 エレノアの目が、そこでひどく静かに冷えた。


「“静める”……」


 ロウェルが低く言う。


「断罪より、よほど卑怯な処分ね」


 ルカはすぐに結論を言わなかった。

 ここで言い切れば、むしろ軽くなる。


「東宮女房局の古い内印です」


「女房局が、アデルを静めた」


「そう断定はできません」


 ルカは答える。


「ですが、少なくとも女房局系の実務語が、この案件のどこかで使われていた」


 エレノアは紙片を見つめたまま、しばらく黙っていた。


 自分の名を戻されたばかりの人が、戻らなかった名前と、その裏にある“静める”という語を見ている。

 その沈黙には、怒りもあった。けれど、それだけではない。もう半歩、決意に近い硬さがあった。


「会いに行きましょう」


 やがて彼女は言った。


 ロウェルも、ルカも、すぐには返さない。


 エレノアは、視線を上げる。


「戻らなかった名に」


 ルカは、その顔を見た。


 夜会の断罪を受けた令嬢。

 名を戻された当事者。

 そして今、自分だけで終わらせず、もう一つの名前のほうへ向こうとしている人。


「……はい」


 ルカは答えた。


「行きます」


 保管庫の棚には、戻された綴りがある。

 その隣には、戻らなかった綴りがある。


 第二部は、そこから始まるのだ。

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