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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第五十七話 返されなかった名前に会いに行く


 王都の外へ向かう道は、記録院の棚よりずっと正直だった。


 石畳が途切れれば、もう王宮の言い換えは届きにくい。

 だからこそ、そこへ退かされた人間は、記録の外で静かに忘れられていく。


 馬車の窓から見える空は薄曇りだった。


 春とも夏ともつかぬ白さが、田畑の上へ平たく落ちている。

 ルカ・エヴァレットは膝の上の綴りを閉じたまま、しばらく何も言わなかった。向かいにはエレノアが座っている。灰青の衣は旅用にやや簡素だが、姿勢は崩れない。


「遠いのですね」


 先に口を開いたのはエレノアだった。


「はい。王都外れの旧領寄宿院です。馬で半刻ほど」


「……静かに下ろすには、ちょうどよい距離ですわ」


 声音は穏やかだった。

 だが、そこに怒りがないわけではない。王宮の視界から消すには近すぎず、呼び戻すには遠すぎる。そういう距離の悪意を、彼女は正確に分かっているのだろう。


 ルカは頷いた。


「記録の上では、療養先です」


「実際には」


「戻るための道が細すぎる場所です」


 エレノアは窓の外へ目を向けた。


「私は、戻される側の顔しか知りませんでした」


 その言葉に、ルカは視線を上げる。


「戻される前の時間も、戻された後の手間も、少しは分かったつもりでした。けれど、戻されなかった側の顔は――知りませんでした」


 馬車が小さく揺れる。

 車輪のきしみが、短い沈黙を埋めた。


「今日、見ます」


 エレノアは言った。


「見て、覚えます。私だけが戻った顔で終わるのは、やはり正しくありません」


 ルカは返事を急がなかった。

 その言葉が軽い義務感ではなく、彼女の中で既に決まっているものだと分かったからだ。


「はい」


 やがて短く答える。


「一緒に見ましょう」


 旧領寄宿院は、王都外れのゆるい坂の上にあった。


 もとは貴族家の別邸を改めた建物らしい。庭は広くないが荒れてはいない。白壁は古びている。窓枠の木は塗り直されていたが、丁寧に使われてきた場所なのが分かる。


 迎えに出た老女は、二人の名を聞いても大げさに驚かなかった。

 ただ、ルカが見せた旧居所控えとアデル・ルーシェの名を見たときだけ、ほんの少しだけ眉を寄せた。


「……面会をご希望で」


「はい」


「急な話になります」


「かまいません」


 老女はしばらく二人の顔を見比べていた。

 その視線には、疑いよりも測りがあった。ここへ来る人間が、何を持ってくるのかを測る視線だ。


「アデル様は、庭の縁側においでです」


 庭の縁側には、白い膝掛けをかけた女が座っていた。


 歳はエレノアより少し上に見える。二十代半ばほどだろうか。髪は薄い茶色で、きちんと結われている。顔色は良くない。けれど、崩れてはいない。長く静かに暮らしてきた人間の、余計な動きを削いだ身じろぎだけがあった。


 アデル・ルーシェは、こちらの足音に気づいてゆっくりと顔を上げた。


 驚きはする。

 だが怯えない。

 その代わり、誰が何を言いに来たのかを一度で測ろうとする目だった。


「突然のお訪ねをお許しください」


 ルカが名乗る。


「記録院のルカ・エヴァレットです。こちらはエレノア・ヴァレンティア様」


 アデルの目が、そこでほんの少しだけ動いた。


「……お名前は、存じております」


 その“存じております”の中に、最近の公示訂正まで含まれているのか、それとももっと昔からの名だけなのか、すぐには分からなかった。


「座ってもよろしいですか」


 エレノアが言うと、アデルは少し迷ってから頷いた。


「どうぞ」


 三人の間に、しばらく言葉がなかった。

 庭で小さな鳥が鳴き、寄宿院の奥で誰かが食器を置く音がした。


 最初に口を開いたのはルカだった。


「七年前の秋の王宮祈礼について、お話を伺いたく参りました」


 アデルの指先が、膝掛けの端をそっと掴んだ。


「……もう、終わったことだと思っておりました」


「はい。そう扱われています」


「ですが、違うと?」


 ルカは持ってきた綴りを開いた。

 補助札控え。回付済札。進行修正札。その写しだけを見せる。


「最初に別の名が置かれ、その名が消えています。そのあと、上位席了承の由だけが残り、あなたは表向き何も咎められないまま、王宮教育から離れる形になった」


 アデルは紙を見つめたまま、長く瞬きしなかった。


「やはり」


 ようやく落ちた声は、ひどく小さかった。


「偶然では、なかったのですね」


 エレノアがその言葉を受ける。

 急がず、静かに。


「おかしいと思っていらしたのですか」


 アデルはすぐには答えない。

 庭を見たまま、少し遅れて頷く。


「私自身、何か大きな失態をした覚えはありませんでした。ただ、祈礼の前日から急に、皆が私を“もう外れる人”のように扱い始めたのです」


「誰かがそう言った」


「いいえ。誰も、はっきりとは」


 アデルは少しだけ口元を歪める。笑いではない。あまりに昔から同じ説明を自分にしてきた人間の、疲れに近い歪みだった。


「それが一番難しいところです。誰も私を悪いと書かなかった。誰も公の場で責めなかった。けれど、気づいた時には、婚約予定は白紙になり、教育は離脱になり、療養がよいと言われていました」


「ご自身は望んでいなかった」


 ルカが確認すると、アデルははっきりと首を振った。


「ええ。けれど、“しばらく静かにしたほうがよい”と」


 静かに。

 やはり、その語だ。


「どなたに」


「叔母からです。叔母は、家のためにも今はそうするべきだと」


「その理由は」


 アデルは膝掛けを掴む指へ少し力を入れた。


「“上の方のご都合”に触れたからだと」


 エレノアの目が、そこで静かに冷える。


「上の方」


「名前は出ませんでした。けれど、上位席の差し障りになる前に退いたほうがよい、と」


 ルカは次の紙を出した。

 箱の底から見つかった小さな古紙片。


 ――本件、上位席都合につき静めること


 アデルはその紙を見た瞬間、指先を止めた。


「……それです」


「ご存じですか」


「同じ文ではありません。ですが、“上位席都合につき”という言い方を、後から叔母が口にしました」


「誰から聞いたかは」


「言われませんでした。ただ、女房局筋の話だと」


 やはり、そこへ寄る。


 ルカはその古紙片の右下にある小さな内印を見せた。


「東宮女房局です」


 アデルは目を閉じた。


「そうですか」


 その言い方には驚きよりも、長く言葉にならなかったものへ、ようやく名前が与えられた時の静かな疲れがあった。


「では、やはり私の件も……」


「まだ断定はしません」


 ルカは言った。


「ですが、今回の事件と似た成立順があり、女房局系の語が残っています」


 アデルは小さく頷いた。

 反論もしないし、すぐ納得もしない。ただ、その順番でしか話せない人の頷き方だった。


「私は、断罪されたわけではありません」


 彼女は静かに言う。


「なのに、誰も私へ以前と同じようには話しかけなくなりました。会えば優しいのです。気遣ってもくださる。けれど、皆もう、“あの件の人”という顔で見ていました」


 エレノアはその言葉をまっすぐ受け止めていた。


「正式に悪いと言われたわけではないのに」


「ええ。だから余計に争えませんでした。抗議する相手がいなかったのです」


 そこが、このやり方の痛みだった。


 断罪のほうがまだ戦える。

 静めるほうは、誰も刃を持っていない顔をしているのに、人生だけが切られていく。


「申し訳ありません」


 エレノアが言った。


 アデルが顔を上げる。


「私の件ではありません」


 エレノアは続ける。


「私はただ、自分の名が戻るまで、自分のことで頭がいっぱいでした。けれど、戻らなかったお名前のほうへ、もっと早く目を向けるべきでした」


 アデルはその言葉に、少しだけ驚いたようだった。


「あなたが謝ることではありません」


「いいえ。戻された者が、戻らなかった者を見ないままでは、やはり足りません」


 しばらく庭が静かだった。


 風が細い枝を揺らし、日陰が畳へ少しだけ伸びる。


 アデルはやがて、縁側の脇に置いてあった小さな木箱を引き寄せた。


「一つだけ、残してある紙があります」


 木箱の中から出てきたのは、薄く折られた古い紙だった。

 何度も開いて、また閉じた跡がある。

 捨てられなかったのだろう。


「正式なものではありません。家へ戻る前に、侍女が黙って置いていったものです」


 ルカが慎重に開く。


 短い文だった。


 ――静め置きにてよし

 ――公には触れぬこと


 署名はない。

 だが紙の端に、ごく小さな印の痕が残っている。


「これも」


「女房局の内印です」


 ルカは答えた。


 アデルは紙を見つめたまま、静かに言った。


「やはり、私は何かをしたのではなく、何かに触れる前に下ろされたのですね」


 エレノアが膝の上で手を組み直す。


「はい」


 その答えは、慰めではなかった。

 事実としての、はい、だった。


「なら」


 アデルは初めて、少しだけ目の色を変えた。


 強い怒りではない。

 けれど、ずっと沈められていたものが、ようやく底から浮いてきた時の色だった。


「同じように下ろされる方が、今もいらっしゃるのですか」


 ルカはエレノアと一瞬だけ視線を交わした。


「その可能性があります」


「止めてください」


 アデルの声は大きくない。

 だが、今までのどの言葉よりもまっすぐだった。


「私のことではなくて構いません。ですが、あれと同じことがまた起きるのなら、今度は始まる前に」


 エレノアが、ほんの少しだけ頷いた。


「そのために来ました」


 アデルはそれを聞いて、ようやく長く息を吐いた。


 それは安心でも救いでもない。

 自分の名は戻らなくても、同じ沈め方を次へ渡さずに済むかもしれないと、初めて思えた者の息だった。


 寄宿院を辞する前、アデルは門のところまで見送りに出た。


「お二人とも」


 呼び止める声がして、ルカたちは振り向く。


「どうか、今度は“何もなかった顔”で終わらせないでください」


 ルカは頷いた。


「はい」


 エレノアも一礼する。


「約束はしません」


 アデルがわずかに目を見開く。


「ですが、見た以上は、目を逸らしません」


 それで十分だった。


 帰りの馬車の中で、エレノアはしばらく何も言わなかった。


 王都の城壁が遠くに見え始めた頃、ようやく静かに口を開く。


「私は、断罪されたと思っていました」


 ルカは視線を向ける。


「ですが、違いました」


「何が」


「少なくとも、アデル様の件とは。私は落とされた。だから、まだ戻せた」


 言葉は冷静だった。

 だが、その冷静さの下に、自分だけが間に合ったことへの重さがあった。


「静められた名は、もっと深く沈むのですね」


「はい」


 ルカは答えた。


「だから、今の案件は始まる前に止めます」


 エレノアは短く頷いた。


 そして、窓の外を見たまま、小さく言う。


「今度は、遅れません」


 王都の門が近づく。


 話は、もう資料だけの話ではなくなっていた。

 戻らなかった名に会ってしまった以上、静めるという処分は、もう古い実務語のままではいられない。


 誰かの人生を、何もなかった顔で棚の外へ押し出す手つき。

 それが今も王宮で生きているなら、止めるしかないのだ。

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