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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第五十五話 訂正は、今度こそ正式記録になった


 記録は、読み上げられただけでは終わらない。


 棚へ戻り、綴じられ、索引へ載り、あとから来る誰かが同じ文へ辿り着ける形になって、初めて正式な記録になる。

 だから、どれほど大きな撤回も、最後はたいてい静かな机の上で閉じる。


 記録院の中央保管室は、朝の光を白く返していた。


 高い棚。

 綴り箱。

 索引札。

 王宮の華やかな場所とは違う。だが、ここに入る文のほうが、夜会の喝采よりよほど長く人を縛る。


 ルカ・エヴァレットは、両手で一冊の綴りを持っていた。


 厚くはない。

 だが軽くもない。


 表題欄には、新しい墨が乾いたばかりで残っている。


 ――夜会断罪宣言撤回並訂正綴

 ――エレノア・ヴァレンティア関係


 その下に、今回ようやく付された正式索引がある。


 断罪不成立。

 婚約破棄失効。

 記録改ざん被害当事者。

 名誉回復手続開始。

 非公式付記削除命。


 どの語も冷たい。

 だが、その冷たさが今は正しかった。


「綴じ位置、こちらでよろしいですか」


 若い補助書記が問う。


「はい」


 ルカは答えた。


「夜会当日綴のすぐ後ろへ。断罪本文の直後に、撤回と訂正が続くようにします」


 それが重要だった。

 別の箱へ入れてはならない。

 別件のように処理してもならない。


 断罪があったなら、そのすぐ後ろに撤回がなければならない。

 そうでなければ、後から綴りだけを追う者の目に、また誤った順番が残る。


 補助書記が頷き、綴り紐を整える。


 そのとき、中央保管室の扉が開いた。


 振り向くと、エレノアが立っていた。

 灰青の衣。昼より少しだけ濃い色に見えるのは、保管室の光のせいだろうか。

 今日の彼女は当事者席でも、公示広間でもない。

 ただ、自分の名が本当に戻るところを見届けに来た人の顔をしていた。


「お邪魔でしたか」


「いいえ」


 ルカは首を振る。


「ちょうど、最後の綴じです」


 エレノアは静かに歩み寄り、机の上の綴りを見下ろした。


 夜会の断罪本文。

 再審認定。

 訂正文。

 処分区分。

 補助棚洗浄命。

 そして、一番後ろに今日の綴じ込み票。


 ――索引訂正済

 ――誤通称削除済

 ――保管室入済


 彼女はその最後の一行を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。


「これで」


 やがてエレノアは言う。


「どなたがあとから見ても、あの夜の断罪だけを読まずに済むのですね」


「はい」


 ルカは答えた。


「少なくとも、この棚では」


 エレノアが、ごく小さく息を吐く。


 安堵とも違う。

 取り戻したものの重さを、ようやく手の中で測れた時の息だった。


「よろしければ」


 ルカは綴りを少しだけ開き、最後のページを彼女のほうへ向けた。


 そこには、今日付で追記された正式な記録がある。


 ――エレノア・ヴァレンティアの名について、断罪前提による不適切付記を削除し、当人名を正位へ戻す

 ――以後、同人を記録改ざん被害当事者として扱う


 エレノアはその行を見て、指先をわずかに動かした。

 触れない。

 だが触れたに等しいくらい、そこへ意識を置いているのが分かった。


「正位」


 彼女は小さく読んだ。


「ええ」


「綺麗な言葉ですわね」


 その声音に皮肉はなかった。

 ただ、あまりに遅れて与えられた綺麗さに対する、静かな実感だけがあった。


 ルカは綴りを閉じた。


「棚へ戻します」


 補助書記が一歩下がり、道を空ける。


 中央保管室の北列三段。

 夜会当日綴のある棚。

 その直後に、訂正綴が入る。


 ルカは綴りを差し入れた。


 乾いた紙の擦れる音がして、綴りは他の記録の間へ収まる。


 それだけだった。

 それだけなのに、あの夜の断罪より、今のほうがずっと終わった感じがした。


 エレノアは、その棚を見たまま言った。


「ようやく並びましたのね」


「はい」


「それでも」


 彼女は少しだけ目を伏せる。


「本当に戻るのは、これからでしょうけれど」


「そう思います」


 ルカは頷いた。


 噂は紙より遅く消える。

 それでも、消すための文がなければ、永遠に消えない。


 保管室の窓から、朝の光が少しだけ角度を変える。

 棚の背表紙に細い影が落ちた。


「では」


 エレノアが言う。


「私は、もう“悪役令嬢”ではありませんのね」


 問うというより、確かめるような声音だった。


 ルカは少しだけ考え、それから答えた。


「この棚では、違います」


 エレノアはその返答を聞いて、ほんのわずかにだけ口元を緩めた。


「棚では、ですか」


「人の口は、もう少しかかります」


「正直ですこと」


「記録官ですから」


 その言葉に、今度のエレノアは確かに小さく笑った。


 大きな笑みではない。

 だが、断罪の夜からここまで来て、ようやく交わせた自然な笑いだった。


 そのとき、中央保管室の奥で、ロウェルが軽く棚を叩く音がした。


「見つけたわ」


 振り向くと、彼女が古い補助箱を一つ抱えている。

 表には、昨日見たのと同じ分類札が貼られていた。


 ――白箱裏処理跡類例


 エレノアの笑みがすぐ消える。

 戻るのではない。

 静かに収まる。彼女らしい顔だ。


 ロウェルは箱を机へ置いた。


「今の綴りを戻すなら、隣にこれがあるのも見せておきたかったの」


 箱の中には、昨日抜いた類例の続きが入っている。

 さらに薄い紙。

 さらに古い札。

 そして、一番上に新しく添えられた仮札がある。


 ――記録院控えへ回らぬ命令類

 ――仮追跡開始


 エレノアがそれを見て、静かに言う。


「本当に終わりではありませんのね」


「はい」


 ルカは答えた。


「今回の件は、表へ出た例でした。だから戻せた。ですが、同じ手つきで表へ出なかったものが、たぶん前にもある」


 ロウェルが箱の端を押さえる。


「名を戻せなかった人がね」


 保管室の空気が、そこでまた少しだけ変わる。


 第一部の終わりに必要なのは、派手な新陰謀ではない。

 戻った名の隣に、まだ戻っていない名の気配があることだ。


 エレノアは箱の中の古い札を見つめたまま、しばらく黙っていた。


「ルカ」


「はい」


「昨日、私は言いました」


 彼女はゆっくりと顔を上げる。


「次は、私も記録の側で戦うと」


「はい」


「今、その気持ちは変わっておりません」


 声は静かだった。

 だが、そこには昨日よりはっきりした芯があった。


「私の名を戻してくださった以上、私は戻らなかった名のほうから目を逸らしません」


 ロウェルが目を細める。


「それでいいわ」


「ですから」


 エレノアは続ける。


「この綴りの次に開く箱にも、立ち会わせてください」


 ルカは一拍だけ彼女を見た。


 断罪された公女。

 名を戻された当事者。

 そして今、自分だけの回復で終わらず、その先の記録へ入ろうとする人。


「分かりました」


 ルカは答えた。


「次は、最初から一緒に見ます」


 エレノアは短く頷いた。


 それ以上の言葉は要らなかった。


 中央保管室の記録台へ戻ったルカは、最終目録札に一本だけ新しい追記を入れる。


 ――第一部綴了

 ――関連類例箱追跡へ移行


 その文字を見て、補助書記が小さく息を呑む。

 だが何も言わない。

 記録院では、終わりと始まりが同じ机の上に置かれることがある。


 ルカは筆を置いた。


 断罪は撤回された。

 婚約破棄は失効した。

 エレノアの名は正位へ戻った。

 それは、確かに終わりだ。


 けれど、白箱裏の手つき。

 箱外命。

 東宮女房局内用の古い覚え。

 記録院控えへ回らぬ命令。


 それは、次の始まりでもあった。


 エレノアは棚の前で、戻されたばかりの綴りと、その隣の類例箱を見比べている。


 片方には、自分の名がある。

 もう片方には、まだ名になっていない気配だけがある。


 やがて彼女は、誰に言うともなく、小さく呟いた。


「今度は、開く番ですのね」


 ルカは答えなかった。

 答えるまでもなかった。


 保管室の灯はまだ消えない。

 けれど、戻された名のある棚は、もう暗くは見えなかった。


 『悪役令嬢裁判録』第一部・了

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