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悪役令嬢裁判録~婚約破棄で断罪された公爵令嬢ですが、王宮記録官が証拠と手続きで冤罪を覆します~  作者: ビッグサム


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第五十四話 名前で呼び直す夜


 夜の記録院は、昼よりも少しだけ人の本音に近い。

 紙の擦れる音が減る。

 足音も遠い。

 だから、昼には制度の言葉でしか立っていられない人間でも、夜になるとようやく、自分が何を失い、何を取り戻したのかを静かに見つめられる。

 保管庫を出たときには、もう王宮の回廊は半分ほど灯を落としていた。

 ルカ・エヴァレットは腕の中の束を抱え直し、第三記録室へ戻る前に足を止めた。

 石窓の外は暗い。中庭の噴水だけがかすかに白く見える。

 まだ片づけるべき紙は多い。処分区分の写し、非公式付記の洗い出し、過去類例の仮目録。やることはいくらでもある。だが今は、紙へ戻る前に一度だけ、頭の中の音を静めたかった。

「……まだ起きていらしたのですね」

 背後から声がした。

 振り向くと、エレノアが回廊の影からこちらへ歩いてくるところだった。

 灰青の衣に夜の冷えた光が落ちている。昼間より顔色は少し悪いが、歩き方に乱れはない。

 彼女も、まだ休んでいないのだ。

「公女こそ」

 ルカが言うと、エレノアは小さく目を細めた。

「もう、その呼び方でなくても構いません」

 短い言葉だった。

 だが、その一言の中に、今日一日の重さがあった。

 断罪は撤回された。

 婚約破棄は失効した。

 名誉回復手続きも始まった。

 それでも彼女は、まだ完全に元の場所へ戻ったわけではない。だからこそ、呼び方一つにも意味が残る。

 ルカは一拍だけ迷ってから言った。

「……エレノア様」

 彼女はそれを聞いて、ほんのわずかにだけ頷いた。

 それだけだった。

 だが、それで十分だった。

「記録院は夜も働くのですね」

「今夜は特にです。訂正が遅れるほど、噂のほうが先に固まりますから」

「ええ」

 エレノアは窓の外を見た。

「そのことを、私は今回よく知りました」

 回廊にしばらく沈黙が落ちる。

 気まずい沈黙ではない。

 ようやく急がなくてもよくなった者同士の沈黙だった。

「……ありがとうございます」

 先に口を開いたのはエレノアだった。

 ルカは視線を向ける。

 彼女は真っ直ぐこちらを見ている。照れも、取り繕いもない。ただ、言うべきことを言うと決めた人の目だった。

「何度も申し上げるのは、かえって軽くなるかもしれませんけれど」

「軽くはなりません」

 ルカが言うと、エレノアはほんの少しだけ息を吐いた。

「では、改めて。……私の名を、戻してくださってありがとうございます」

 その言葉は静かだった。

 けれど、夜会でどれほど多くの人間に見られながらも崩れなかった彼女が、今こうして二人きりの回廊で礼を言うことの重さは、紙よりよほどよく分かる。

 ルカは少しだけ視線を落とした。

「私は、正しい位置へ戻しただけです」

「それが難しいのだと、今回よく分かりました」

 エレノアの声は柔らかくはない。

 だが、どこか前より温度が近い。

「王宮では、一度濁った名は、皆が思っているよりずっと長く濁ったままです。文に戻っても、人の口では戻らない。……ですから」

 彼女はそこで少しだけ言葉を選んだ。

「戻そうとしてくださったこと自体が、私には十分に重いのです」

 ルカは、答えを急がなかった。

 急いで軽い言葉を返したくなかったからだ。

 夜の記録院は、こういう時にだけ正直でいられる。

「私は」

 やがてルカは言った。

「あなたの名を、正しい記録の位置へ戻したかったんです」

 言ってから、自分の声が思ったより静かだったことに気づく。

 熱を帯びてはいない。

 だが、そのぶん嘘もなかった。

 エレノアはしばらく何も言わなかった。

 その沈黙は重かったが、不快ではない。

 何かを受け取り、それを自分の中で正しい位置へ置き直している沈黙だった。

「……ええ」

 ようやく彼女は答えた。

「そうしてくださったのだと、今は分かります」

 また沈黙が落ちる。

 中庭の噴水が、小さく水を返す音だけがしていた。

「私は、ずっと勘違いしていました」

 エレノアがふいに言った。

「あなたは整合性のために動いているのだと。誰かを救うためではなく、紙が正しい形へ戻るために」

「最初は、そうでした」

 ルカは否定しなかった。

「矛盾が許せなかっただけです」

「ええ。ですから、私も最初はあなたを信用していませんでした」

 その物言いがあまりに率直で、ルカは少しだけ口元を緩める。

 エレノアも、ごくわずかに目を細めた。

 たぶん、彼女なりの笑いに近いものだった。

「ですが、違った」

 彼女は続ける。

「あなたは、矛盾を許せなかった。けれど、それだけでは最後まで進めないところまで進んだ」

 ルカは何も言わない。

 それを自分で言葉にすると、少し違ってしまう気がした。

「記録官」

 エレノアが言う。

 だが、すぐに首を横に振る。

「いいえ。ルカ」

 名で呼び直された瞬間、回廊の空気がほんの少しだけ変わった。

「次は、私も記録の側で戦います」

 その言葉に、ルカは思わず顔を上げた。

 エレノアの目は、揺れていなかった。

「守られるだけでは、足りません。今回、私の名は戻りました。けれど、同じ手つきが昔からあったのなら、他にも戻らなかった名があるのでしょう」

「……はい」

「なら、それを見なくてはなりません。私は記録院の人間ではありませんし、あなたのように棚の癖や紙質を読むこともまだできない。ですが、礼法と教育の側でどういう言葉が都合よく使われるのかは、あなたより知っています」

 それは事実だった。

 ルカは書き手の癖を読む。

 だが、王太子妃教育や高位女性の礼法空間の内側で、どの言葉がどれだけ人を縛るかは、エレノアのほうがよほど知っている。

「私も、見るべきでした」

 エレノアは低く言った。

「自分のためだけでなく、もっと早く。……けれど今からなら、まだ遅くないはずです」

 ルカはしばらく彼女を見ていた。

 夜会の当夜、断罪の中央に立っていた令嬢。

 気位が高く見え、孤独で、しかし最後まで崩れなかった人。

 その彼女が今、守られた側としてではなく、自分から“次は見る”と言っている。

 この物語が、ここでようやく次の形を持った気がした。

「遅くありません」

 ルカは言った。

「そう思います」

 エレノアはほんの少しだけ息を吐いた。

「では、そうしましょう」

「はい」

「ただし」

 彼女は視線を細めた。

「まずは少し休んでください。今のあなたは、あまりに“記録院控え”の顔をしすぎています」

 思いがけない言葉だった。

「……そんな顔ですか」

「ええ。人間ではなく、もう半分ほど紙になっています」

 その言い方に、今度こそルカは少しだけ笑った。

 エレノアの口元も、わずかに緩む。

 それは大きな笑みではない。

 だが、断罪からここまで来て、初めて交わされた、無理のない呼吸だった。

 回廊の向こうで夜番の足音が近づいてくる。

 エレノアは姿勢を正した。

「では、私は戻ります」

「送ります」

「結構です」

 すぐにそう返してから、彼女は少しだけ間を置いた。

「……いえ、記録院の角までなら」

「分かりました」

 二人は並んで歩き出す。

 近すぎず、遠すぎず。

 会話はほとんどない。

 けれど、沈黙はもう壁ではなかった。

 記録院の角で、エレノアは立ち止まる。

「ルカ」

「はい」

「今日、あなたが言ったこと」

 彼女はまっすぐこちらを見た。

「私の名を、正しい記録の位置へ戻したかった――あれは、忘れません」

 返す言葉を探すより先に、彼女は一礼した。

 それは夜会で誰かに向けた社交の礼ではない。

 もっと静かで、もっと重い礼だった。

 そしてエレノアはそのまま回廊の向こうへ消えていく。

 ルカはしばらく、その後ろ姿を見ていた。

 恋ではない。

 まだ、そう簡単なものではない。

 けれど、あの夜に断罪の中央で隔てられていた二人のあいだに、今はたしかに同じ向きを向く線がある。

 記録院の灯はまだ消えない。

 保管庫には、過去の類例が残っている。

 箱外命の薄紙も、東宮女房局内用の覚えも、まだ机の上だ。

 それでも今夜だけは、ルカはそれを少し先へ送ってもよいと思った。

 エレノアの名は戻った。

 そして次は、その名を取り戻した者として、彼女自身が記録の側へ立つ。

 断罪の夜を越えて、ようやく二人は同じ場所から先を見始めていた。

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