第四十七話 空欄は、収まりの良さで選ばれていた
空欄は、未定の印とは限らない。
まだ決まっていないから空く欄もある。
だが、あとで都合よく誰かを載せるために、先に空けておく欄もある。
見た目は同じだ。
だから厄介だった。
第三記録室へ戻ると、ルカ・エヴァレットの机には新しく引き出された薄い控えが置かれていた。
南回廊補助代置候補控。
灰がかった紙に、三つの名が細い字で並んでいる。
――ルネ 据置可
――ノラ 代置可
――ミア 予備
右端には、赤鉛で短い書き込みが添えられていた。
――置くな
――終覧待ち
ルカはその二行を見つめたまま、しばらく動かなかった。
これで、はっきりした。
あの朝、南回廊補助一の名は、どうしても空欄にするしかなかったのではない。
置ける名は、すでに机の上にあった。
向かいに立つマルゴット・セヴランは、昨日よりさらに顔色が悪い。
けれど姿勢は崩れていない。崩れれば、自分の判断がただの醜い私心に見えてしまうと、まだどこかで信じている顔だった。
壁際にはエレノア。
ロウェルも長椅子へ腰を下ろしている。
「確認します」
ルカは候補控を机の中央へ寄せた。
「これは主任室の手控えですね」
「……はい」
「赤鉛の追記も」
マルゴットは一度だけ目を閉じ、それから答えた。
「私です」
ロウェルが低く息を吐く。
「代置候補を出しておいて、置くな、ね」
ルカは候補控の一行ずつへ指を置いた。
「ルネは据置可。ノラは代置可。ミアは予備。少なくとも、ルネを外した時点で南回廊補助一へ仮に入れる名はあった」
「ありました」
「では、なぜ置かなかったのです」
長い沈黙が落ちる。
マルゴットは、視線を紙の上から動かさない。
「低位補助を一度置いて」
ようやく彼女は言った。
「そのあとで高位の終覧へ寄せると、札に傷が残ります」
「傷?」
ルカが問う。
「いったん名を出した者を、あとで引いて別の方へ寄せる形になるからです。引かれた側にも、残された札にも、不恰好な痕が残る」
エレノアが静かに口を開いた。
「傷が残るのは、下の名だけですか」
マルゴットは答えない。
「違いますわね」
エレノアの声は穏やかだった。
だが、その穏やかさがかえって冷たかった。
「守りたかったのは、下の者の格ではない。高位の者が最後に立つ時の見栄えでしょう」
マルゴットの指先が、机の縁でわずかに動いた。
否定できないのだろう。
「終覧は、最初から誰かへ正式に任せると決まっていた役目ではありません」
エレノアは続ける。
「それなのに、先に下の名を置けば見苦しい。だから空欄にした」
「……はい」
「つまり、その空欄は未定の印ではない」
エレノアの視線が候補控の赤い二行へ落ちる。
「見栄えのための選択です」
その一言で、紙の意味が変わる。
ルカは候補控を裏返した。
裏面にも、短い鉛筆書きがあった。
――朝会前は空欄でよし
――主催拾い待ち
「主催拾い待ち」
ルカはその語を読み上げた。
「どういう意味です」
マルゴットの肩が、ほんの少しだけ落ちた。
「……主催卓が、あとで高位の名で拾うだろう、という意味です」
「だろう、ですか」
「はい。正式照会がなくても、礼法係と主催卓が、そういう空気で動く朝はあります」
ルカは黙ってその言葉を受けた。
つまり、ここで空欄を選んだ時点で、もう次の机の動きまで見込んでいたのだ。
礼法係は曖昧な席次語を返す。主任室はそこへ人名を寄せる。主催卓は“由”で既成事実にする。
その流れを、マルゴットは知っていた。
「空欄が危険だと」
ルカが静かに問う。
「分かっていましたか」
マルゴットは目を伏せた。
「……はい」
「それでも空欄を選んだ」
「はい」
「理由は、まだ誰へ寄せるかを開けておきたかったから」
「……はい」
短い肯定が、やけに重かった。
ロウェルが低く言った。
「候補控まで作っておいて、誰の名も置かない。そこまでした時点で、もう事故じゃないわ」
マルゴットは返せない。
ルカは、候補控の最初の一行へ指を置いた。
「ルネは据置可とあります」
「はい」
「本来なら、一番自然なのは、ルネをそのまま南回廊補助一へ残すことだった」
「そうです」
「それをしなかった」
「……はい」
「なぜ」
今度、マルゴットははっきりと顔を歪めた。
「ルネでは、収まらなかったからです」
言葉が落ちる。
若い見習い。
代置のままの名。
最後に高位の者が一巡だけ見る導線。
その組み合わせが、彼女の目には“収まりが悪い”ものとして映っていたのだ。
エレノアが、ひどく静かな声で言った。
「私は、あなた方の収まりを良くするための人形ではありません」
マルゴットは何も言わなかった。
言えないのだろう。今さら違うと答えられるだけの根拠が、自分の中にもう残っていないから。
ルカはそこで、候補控の隣へ昨日までの紙を並べた。
――本日、公女様ご機嫌よし
――終覧は頼める
主任室の言い換え紙片。
――公女後着見込
――高位後着見込
――高位当事者後着見込
そして、主催卓の朝会済札。
――教育側、公女で取る由
「順番を整理します」
ルカは言った。
「まず、代置候補はあった。ルネの据置もできた。ですが主任室は、名を置くと傷が残ると考え、空欄を選んだ」
誰も動かない。
「次に、その空欄へ“公女でも収まる”という状態を先に置いた。さらに、それを“公女後着見込”“高位当事者後着見込”へ言い換えて流した。最後に主催卓が、“公女で取る由”と書いた」
ルカは候補控の赤い二行を見下ろした。
「つまり、空欄は待機状態ではありません」
室内が静まり返る。
「最初から選ばれていた状態です」
マルゴットは目を閉じた。
候補があったのに置かなかった。危険だと知りながら空欄を選んだ。
それが、ようやく言い逃れのない形になっている。
そのとき、近侍が一礼して入ってきた。
「殿下がお待ちです」
ルカは頷いた。
候補控を持ち上げる。
軽い紙だ。
けれど、その軽さの中に、ルネの消された名と、空欄を選んだ意志が両方載っている。
エレノアが立ち上がった。
「次は、公の場ですね」
「はい」
ルカは短く答えた。
「空欄が事故ではなく、選択だったことを出します」
エレノアはそれを聞いて、ほんのわずかにだけ頷いた。
差替票より前に。
白封より前に。
“由”の一字より前に。
断罪の入口では、まず空欄そのものが選ばれていた。
名がなかったのではない。
名を置かないほうが、彼らには都合がよかったのだ。




