第四十話 「公女」の二字は、主任室で“高位当事者”に言い換えられていた
言い換えは、ときどき削除より悪質だ。
消してしまえば不自然さが残る。
だが、別の綺麗な語へ置き換えてしまえば、その場ではただの配慮に見える。
だからルカは、逃げた人間の机を探すより先に、言い換えの途中で捨てられた紙を探すことにした。
王太子妃教育主任室は、北翼の一角にあった。
華やかな部屋ではない。むしろ質実だ。壁際の書架、窓下の長机、授業順を一時的に置くための細い板棚。だが、その整い方にだけ、妙な冷たさがあった。急に捨てて逃げた部屋ではない。後から誰かが入っても困らないよう、あらかじめ整えていた部屋の顔だった。
マルゴット・セヴラン本人の所在は、まだつかない。
けれど、部屋は残る。
残るなら、そこに置かれた語の順番も残る。
「仮板と廃紙籠を」
監査院受領官が言うと、主任室付きの女官が震える手で指し示した。
窓際には、授業予定や席順を一時的に書き付ける薄板が三枚立てかけられている。紙ではなく、粉を引いた表面へ細墨で書き、あとで水拭きして消すための板だ。その脇に、細く切った紙片を入れる浅い籠がある。
ルカはまず廃紙籠を覗き込んだ。
入っていたのは、切り落とされた時間札、書き損じた礼法項目、そして細長い修補紙片。
そのうち一枚だけが、妙に丁寧に四つ折りされていた。
広げる。
書かれていたのは、短い三行だった。
――公女後着見込
――高位後着見込
――高位当事者後着見込
順に書いて、順に線で消してある。
最後の三行目だけが、消されていない。
室内の空気が動く。
「……やはり」
エレノアが低く言った。
彼女は窓際まで歩み寄り、その紙片を見たまま、しばらく何も言わない。
「何です」
ルカが問う。
「この言い換えは、主任室の癖です」
静かな声だった。
「最初に出した語があまりに露骨だと気づいたとき、まず一段抽象へ逃がす。さらに、まだ残る個人性を消して“運用語”へする」
彼女の指先が、最後の行をわずかに示す。
「高位当事者後着見込。あまりに、主任室らしい」
そこへ、フローラ・ジェイスが立会席から低く言った。
「……私が作った語ではありません」
ルカは振り返る。
今日は逃げたマルゴットの代わりに、フローラも立ち会わされていた。顔色は悪いが、もう前日のような“礼法の顔”だけでは立っていられない顔だ。
「誰から来た」
受領官の一言に、フローラは答える。
「主任補佐官マルゴットからです。私は、その三つ目だけを仮控へ写しました」
「では、一つ目と二つ目は」
「主任室で作られた語です」
それで十分だった。
最初に「公女」と書いたのはフローラではない。
そのもっと手前で、主任室がいったん露骨に書き、それを自分で抽象へ言い換えていた。
ルカは今度、仮板へ灯りを斜めに当ててもらった。
粉を引いた板の表面には、いま何も書かれていない。
だが、何度も同じ場所へ筆を置けば、細い凹みだけは残る。
浮いた。
公。
高。
当。
順に浅く、順に重なっている。
書いて消し、書いて消し、最後に言い換えて正式な紙へ移した痕だ。
「この板で、最初に“公女後着見込”が試された」
ルカが言うと、フローラはもう否定しなかった。
「はい」
「マルゴットが書いたのですね」
長い沈黙が落ちる。
その沈黙は、名を守るためではない。
もう守れないと分かった名を、どこまで自分の口で落とすか迷う沈黙だった。
「……はい」
傍聴席の空気が、そこで少しだけ重くなる。
「その場に、あなたもいた」
「いました」
「何をした」
「公女、ではまずいと申しました」
「だから、高位当事者へ直した」
エレノアの声が静かに落ちる。
責めている声ではない。
だが、もっとひどい。
こちらがどう傷つくかではなく、向こうがどう自分たちを綺麗に見せたかったかだけを、正確に言い当てる声だ。
「名前を消したのではなく、名前を礼法の後ろへ隠したのですね」
フローラは返せない。
返せないことが、いまは充分だった。
ルカは紙片の裏を返した。
そこに、ごく小さな走り書きがある。
――南一
――白先
――席照会へ
南一。
南回廊補助一。
白先。
白封先。
席照会へ。
主催側照会席へ、の略だろう。
「この紙片は、ただの言い換え練習ではない」
ルカが言う。
「南回廊補助一、白封先、席照会へ――入口の空白と白封の段取りが、ここで一緒に作られている」
受領官がフローラを見る。
「これもマルゴットか」
「……はい」
また一つ出た。
断罪の入口は、奉仕口でも白箱裏でもなく、その前にこの主任室で、
公女という具体名と、白封の順番と、照会席への流し先が、一つの紙片へまとめられていたのだ。
そのとき、ロウェルが壁際から低く言った。
「だから、フローラの仮控には“公女”の一字が出たのね」
彼女はまだ本調子ではない。
だが、その目は冷静だった。
「主任室ですでに一度“公女後着見込”を見せられていれば、手が先にそう動く」
フローラは目を伏せた。
たぶん図星なのだろう。
自分で考えたのではない。
先に見た語が、勝手に手へ残っていた。
それがこの種の実務改ざんでは、一番怖い。
「マルゴットは、なぜそこまでして公女と書こうとしたのです」
ルカが問うと、フローラは首を横に振った。
「そこまでは……ただ、主任補佐官はいつも言っていました」
「何と」
「“教育対象者の格は、席順の一番最後に出る”と」
エレノアがわずかに目を細める。
「私を、最後に立つ者として置きたかったのですか」
「……はい。そういう意味では」
フローラの声は低い。
「公女殿下が最後にご覧になる、と周囲に思わせておくほうが、全体が静かにまとまると」
まただ。
まとまる。
整う。
傷が少ない。
どれも綺麗な語ばかりだ。
その綺麗さで、誰か一人の名が空白へ押し込まれる。
「その結果、ルネの名が消えた」
ルカが言う。
「はい」
「氏名後補が作られた」
「はい」
「白封が先に回った」
「はい」
「そして、公女線へ束ねられた」
フローラは、そこで初めて小さく顔を歪めた。
「……はい」
それで十分だった。
彼女自身が全部を設計したのではない。
だが、主任室の一枚の紙片が、礼法と実務と白封と照会席を一つに結んでいたことは、もう動かない。
「記録する」
セドリックの声が落ちる。
「王太子妃教育主任室において、茶会前日以前の段階で“公女後着見込”から“高位当事者後着見込”への言い換えが作られていたことを採る。加えて、同紙片裏面により、南回廊補助一の空白、白封先行、主催側照会席流しの三段が、主任室で一体の方針として構想されていたことを採る」
それは、また一段深い認定だった。
差替票の実行。
白箱裏の折り。
聖女の手。
そのもっと前に、主任室が一枚の紙片で全部の入口を言い換えていた。
そのとき、扉の外で急いだ足音が止まる。
近侍が一礼して入ってきた。
「殿下」
「何だ」
「マルゴット・セヴラン、見つかりました」
室内の空気がひやりと冷える。
「どこだ」
「教育旧倉の裏階段下です。焼き損ねた帳片を持っていたと」
焼き損ねた帳片。
それだけで、まだ紙が残っていると分かる。
「本人は」
「取り乱してはいません。ただ――」
近侍は一拍置いた。
「“公女の名を書いたのは私だが、最初にそう呼んだのは私ではない”と」
エレノアの表情が、そこでほんのわずかに変わる。
まだ、もう一段奥がある。
主任室の紙片。
マルゴットの手。
だが、そのさらに前に、エレノアを“最後に立つ者”として呼ぶ声があった。
断罪の入口は、まだ終わっていない。




