第三十九話 空けておけ、は礼法の顔をしていた
いちばん厄介な改ざんは、悪意の顔をしていない。
礼法。
気遣い。
格を乱さないための配慮。
そういう綺麗な名を借りたとき、空白はただの空白ではなくなる。誰かを後から置くための、都合のいい席になる。
フローラ・ジェイスは、再審第二日の午後、本審廷の補助席へ立たされた。
王太子妃教育控え補佐。
三十代半ば。細い灰青の衣。髪は一分の乱れもなく結い上げられている。顔色は白いが、崩れてはいない。崩れれば自分の職そのものが崩れると分かっている者の顔だった。
セドリック第一王子は高座から彼女を見下ろしている。
傍聴席の静けさは、午前よりさらに重い。
ベルナールが“最初に空白方針を知っていた”と出た以上、その情報の出所はもうただの周辺ではない。王太子妃教育という、エレノアの名と最も近い場所へ来てしまったのだ。
「フローラ・ジェイス」
王子が名を呼ぶ。
「はい、殿下」
「南回廊補助一について、お前は“名はまだ置くな。主催側照会で足りる”という趣旨の照会を出したか」
フローラは数拍だけ黙った。
だが、ここで無条件に否定することの危うさはもう分かっている顔だった。
「……出しました」
傍聴席の奥で、誰かが小さく息を呑む。
ルカ・エヴァレットは記録官席から立ち上がり、机の中央へ二枚の紙を置いた。
昼刻前の口頭照会札。
そして、今朝第三記録室から引き出された一枚の薄い控え。
王太子妃教育進行仮控。
その日の午後の教育予定を、正式板へ上げる前に控え補佐が手元で持つ、簡易な順付表だ。
「まず、これを確認します」
ルカは仮控を開いた。
茶会前日。午後。
礼法講読。席次確認。返礼卓見回り。
その下に、細い字で一行だけ、追記がある。
――南回廊導線確認
――後刻照会
――高位当事者後着見込
「この追記は、あなたの手ですね」
フローラは頷いた。
「はい」
「氏名は」
「書いていません」
「なぜ」
フローラはそこで初めて、視線をエレノアへ向けた。
長くは見ない。
長く見れば、自分が何を前提にその空白を書いたかが、あまりに露骨になるからだろう。
「高位当事者後着見込、という扱いだったからです」
その言い回しに、エレノアの目がわずかに細くなる。
「どういう扱いか、説明しなさい」
セドリックの声は静かだった。
だが、それだけで誤魔化しは削がれる。
「王太子妃教育では」
フローラが言う。
「正式な当番名を書いたあとで、より高位の当事者が後からその位置を取る見込みがある場合、一時的に名を空けることがあります」
「ありますか」
ルカが問い返す。
「規則に」
フローラの指先がわずかに動いた。
「……正式規則ではありません。慣行です」
やはり、そこだ。
「慣行で、誰の名を空けるのです」
「主に、王太子妃教育対象者のうち、最終確認だけを引き受ける立場の方を」
「ヴァレンティア公女のような」
ルカの補足に、フローラは否定できない。
「はい」
それで、午前の本審でエレノアの名が“朝からあまりにも多く聞こえていた”理由が、一段具体的になった。
正式指名ではない。
だが教育実務の側では、彼女のような高位の教育対象者が、あとから見るだろうという曖昧な前提が、空白を許してしまう。
「誰がそう見込んだのです」
ルカが問う。
フローラは答える。
「私です」
そこは逃げない。
「理由は」
「前日から、返礼卓と南回廊の導線整理について、公女殿下のお名前が教育側で出ていました。最終見回りにお立ちになるのではないかと」
エレノアが静かに言った。
「私に、そのような正式照会は来ていません」
「はい」
フローラは俯かない。
「正式照会ではありませんでした。ですが、教育主任室では、その流れがあるように扱われていた」
教育主任室。
ルカの指が止まる。
「主任室で、誰が」
フローラは数拍だけ迷った。
だが、もうここで名前を飲み込める段階ではない。
「主任補佐官マルゴット・セヴランです」
また一つ名が落ちる。
ただし今は、その名を深く追う場ではない。
まず必要なのは、フローラがなぜ口頭照会札まで出したかだ。
「あなたは、その“高位当事者後着見込”を、ベルナール補佐官へ伝えた」
「はい」
「なぜ法務院へ」
そこでフローラの表情が初めて、ほんの少しだけ揺れた。
「法務院へ、ではありません。主催側照会席へ、です」
「同じことです」
アルヴィンが低く言う。
「その照会席から、ベルナールへ流れた」
フローラは反論しない。
「私は、空白のままでも当日の主催側照会で足りるとだけ。まだ名を置くには早い、と」
「早い」
エレノアの声が静かに落ちる。
「誰にとって」
フローラは、そこで初めて言葉に詰まった。
礼法の名で通せると思っていた理屈が、その一言で一気に裸になる。
「……低位の補助名を一度置いて、あとから差し替えるのは、その者の格を損ねます」
それが彼女の本音だった。
「ですから、最初から空けておくほうが傷が少ないと」
エレノアはそれを聞いても、顔をしかめなかった。
かわりに、ごく短く言った。
「傷が少ないのは、上の方だけです」
それだけで十分だった。
ルネの名を消した朝。
空白にした午後。
その“配慮”が、誰を守り、誰を消したのかが、その一言でよく分かる。
「フローラ」
セドリックが低く言う。
「お前は、空白が危険だと知っていたか」
フローラは、すぐには答えなかった。
しかし沈黙のあとに出た声は、思ったよりはっきりしていた。
「……はい」
「それでも空けた」
「はい」
「なぜ」
彼女は少しだけ目を閉じ、それから答えた。
「まさか、その空白へ白封が通り、差替票が入り、毒と流通まで束ねられるとは思わなかったからです」
それは、半分だけ本音だろう。
全部を見ていたわけではない。
だが、空白が危ういことを知っていて、なお礼法の名で放置した。
それはもう十分に重い。
「その朝、あなたは“エレノア公女の名があとから来る”と、誰かに明言しましたか」
ルカが問うと、フローラは首を横に振る。
「いいえ。名前は口にしていません」
「ですが」
「“高位当事者後着見込”という語で十分に通じると思いました」
それが、この王宮の厄介さだった。
名を言わなくても、誰のことか通じる。
通じるからこそ、記録に残らないまま、空気だけが先へ走る。
「記録する」
セドリックが言った。
「王太子妃教育控え補佐フローラ・ジェイスは、茶会前日、南回廊補助一について“高位当事者後着見込”の慣行を用い、名を空白のまま主催側照会へ流した。空白の危険性を認識しながら、礼法上の配慮を優先したことを認める」
それは、午前のベルナール認定とは別種の重さを持っていた。
ベルナールは机上の線を設計した。
だが、フローラはそのもっと手前で、空白という器そのものを礼法の名で許してしまったのだ。
ルカはそこで、仮控の余白へ目を止めた。
追記の横に、爪先ほどの小さな擦れがある。
紙ではなく、板から転写されたような細い黒い粉だ。
「仮控は、どこで書きましたか」
フローラが答える。
「教育控えの小板机で」
「小板机を」
近侍が運んできた薄い記録板へ灯りを斜めに当てる。
そこに浮いた凹みは、仮控の追記と同じだった。
だが、そのすぐ下に、さらに一つ、別の文字の痕がある。
――公……
続きは消えている。
けれど最初の一字だけで、場の空気はまた変わった。
「最初は、“公女”と書きかけたのですね」
ルカが言うと、フローラは息を呑んだ。
否定できない顔だった。
「……はい」
「高位当事者後着見込、ではなく」
「はい」
「最初は、公女後着見込、と」
ついに、そこまで出た。
空白は、最初から完全な匿名ではなかった。
最初にフローラの頭にあったのは、やはりエレノアだったのだ。
「なぜ消した」
セドリックが問う。
「正式照会がないまま、公女の名を仮控へ置くのはまずいと思ったからです」
正しい。
それ自体は、正しい判断だ。
「なら、本来はそのまま止めるべきでした」
エレノアが静かに言う。
「名も置かず、空白も流さずに」
フローラは返せない。
返せないことが、そのまま彼女の責任の形だった。
そのとき、扉の外でまた足音が止まった。
近侍が一礼して入ってくる。
「殿下」
「何だ」
「王太子妃教育主任補佐官マルゴット・セヴラン、所在がつかめません」
室内の空気がひやりと冷える。
「いつからだ」
セドリックの声が低くなる。
「朝の時点では主任室に。ですが昼の照会後、席を外し、そのまま」
逃げたのか。
あるいは、逃がされたのか。
ルカは机上の仮控と、消された“公”の一字を見下ろした。
ベルナールが最初に空白方針を知っていた。
フローラはそれを礼法の名で流した。
だが、フローラの頭に最初からエレノアの名を置かせた、もう一段上の教育主任室が残っている。
断罪の入口は、まだもう半歩だけ奥に続いていた。




