第三十七話 その差替票は、白紐の隙間へ入る形で折られていた
紙を隠す折り方には、いつも目的がある。
読むために折るのか。
運ぶために折るのか。
それとも、誰かの手を通すまで中身を見せないために折るのか。
違いは小さい。
だが、その小さな違いほど、あとで人を裏切る。
レオニー・サールの再聴取は、北回廊に近い小さな記録室で行われた。
窓は細く、昼の光は薄い。
机の上には、祈祷書、白紐、差替票、空白の白封、そして白箱裏の仮照会薄紙が、順番どおりに置かれている。
レオニーは最初から顔色が悪かった。
けれど、今日はただ青ざめているだけではない。どこで崩れれば全部が落ちるのか、自分でも分かっている顔だった。
「確認します」
ルカ・エヴァレットは、祈祷書を机の中央へ寄せた。
「差替票は、あなたが書いたものではない」
「……はい」
レオニーは小さく答える。
「では、誰が折った」
そこで彼女の指先がぴくりと動く。
その動きだけで、問いが芯へ届いたと分かった。
「書いた人と、折った人は違うのですか」
ルカが重ねると、レオニーは視線を落とした。
「……違います」
室内の空気が少しだけ変わる。
エレノアは壁際に立っていた。
何も言わない。ただ、机上の祈祷書と差替票を静かに見ている。その視線が、むしろ場を不用意に軽くしなかった。
「順に話してください」
ルカは差替票を指先で持ち上げる。
――南回廊補助一
――当日主催側照会に従う
――氏名後補
「あなたが最初にこの票を見たのは、どこです」
「……白箱裏です」
やはり、そこだ。
「誰が持っていた」
「イレーヌです」
「書かれた状態で」
「はい。もう書いてありました」
そこへアルヴィンが低く問う。
「開いたままか、折られたままか」
レオニーは少しだけ迷ってから答える。
「最初は、半分だけ折られていました」
ルカは仮照会薄紙を横へ置いた。
法務院仮照会束から出た薄紙も、外折りを一つ入れた状態で扱われていた。
「半分折りの票を、誰が白紐へ入る形へ整えた」
レオニーの喉が、一度だけ上下した。
「……レナート次席です」
やはり。
「あなたは見ていた」
「はい」
「どう折ったかも」
「はい」
ルカは祈祷書の白紐を机上へ引き寄せる。
新しい白紐の結びは浅い。差替票一枚がぎりぎり入る隙間が、見返しの脇へ作られている。
「再現できますか」
レオニーは顔を上げた。
逃げ場のない問いだと分かったのだろう。だが、もう否定の形を取る気力は残っていないようだった。
「……できます」
彼女は差替票へ手を伸ばす。
その指先は震えていたが、紙の扱いは妙に正確だった。
まず、氏名後補の行が外へ見えないよう、下から半分。
次に、右端を内へ逃がすように細く折る。
最後に、白紐の隙間へ沿う幅へ整える。
ルカはその動きを見つめる。
これはただの三折りではない。
祈祷書の白紐へ差し込んだとき、開けばすぐ票の頭だけ読めるよう、最後の折りが内側へ逃がされている。
「……仮照会薄紙と同じ折りです」
ルカが言うと、エレノアが小さく息を吐いた。
「やはり、祈祷書のために折られたのではなく、白箱裏の折りが先なのですね」
「はい」
ルカは頷く。
「白箱裏の手つきで折られた票を、祈祷書へ合わせて最後だけ狭めている」
つまり、票の出生地は白箱裏。
祈祷書は、その票を“聖女の手へ渡す器”にされたにすぎない。
「レナートは、何を見て幅を決めた」
ルカが問うと、レオニーは答えた。
「……イレーヌが祈祷書を開いて、白紐の隙間を指で測りました」
イレーヌ。
やはり、そこも入る。
「その場に、あなたと、イレーヌと、レナートがいた」
「はい」
「他には」
長い沈黙が落ちた。
その沈黙が長いほど、残る一人の重さは増していく。
「……ベルナール補佐官も」
ついに出た。
アルヴィンの目が細くなる。
だが、まだ誰もそれ以上は言わない。
「何をしていた」
ルカが静かに問う。
レオニーは答える前に、一度だけ唇を噛んだ。
「折る前に、票の頭を見ていました」
「読んだのですね」
「はい」
「何と言った」
レオニーは俯いたまま、搾り出すように言う。
「“中は読ませるな。手だけ通せ”と」
室内が静まる。
それは、あまりに本作らしい悪意だった。
中身ではなく、手。
差替票の内容を聖女に判断させるのではなく、聖女の手を通したという事実だけを欲したのだ。
「ベルナールは、ミレイユ様に読ませるつもりはなかった」
ルカが確認すると、レオニーは頷いた。
「はい。だから、最後の折りをきつくしました。開けば読めます。でも、閉じたままなら中の字は見えないように」
エレノアの目が、そこでわずかに冷えた。
「聖女の手を通れば、それで足りると考えたのですね」
レオニーは返せない。
返せないことが、そのまま肯定だった。
「あなたは、そのとき差替票の文を全部読んでいましたか」
ルカが問う。
「……氏名後補までは」
「“当日主催側照会に従う”も」
「はい」
「なら、その票が空白を制度の顔に変えるものだと、分かっていた」
レオニーの肩が震える。
「分かっていました。けれど、先生が……主任先生が、“まだ名を置かないほうが通る”と」
またその理屈だ。
止めるべきものを、先に通す。
空白のほうが都合がよいから、名前を置かない。
「そのあと、あなたは何をした」
「折られた票を受け取って、祈祷書の白紐へ挟みました」
「自分で?」
「はい。イレーヌが、“ここへ入れて、屏風で聖女様に渡して”と」
祈祷書の白紐。
白箱裏で折られた票。
そして屏風の陰。
全部の順番が、ようやく一本になる。
「ベルナールは、最後に何と」
ルカの問いに、レオニーは目を閉じた。
「……“聖女席の封なら、まだ空でも止まらない”と」
空でも止まらない。
差替票が中へ入る前から、封の顔だけで経路を通せると知っていた言葉だ。
「つまり」
ルカが言う。
「差替票は、白箱裏で文が置かれ、同じ場所で折られ、祈祷書へ入る形にされた。そのうえで、聖女の手を通すためだけに屏風へ運ばれた」
「……はい」
レオニーは、もう否定しなかった。
「記録する」
セドリックの声が、そこで静かに落ちた。
いつの間にか王子は扉脇へ来ていた。立会だけのつもりだったのかもしれない。だが、ここまで来れば、もう自分の耳で聞かずにはいられなかったのだろう。
「差替票は白箱裏上覧前整理卓でレナート・セルヴィスが折り、イレーヌ・バルダンが祈祷書の白紐幅を示し、レオニー・サールが挟み込んだ。ベルナール補佐官は、その場で“中は読ませるな。手だけ通せ”と指示した供述を採る」
それは、もう一つの判決文のように響いた。
差替票の中身。
折り。
白紐。
聖女の手。
全部が、同じ机の上で設計されていたのだ。
そのとき、監査院補佐が新しい封を持って入ってきた。
「受領官」
「何だ」
「白箱裏の廃紙籠の底から、切られた白紐の古い結び目が見つかりました」
差し出されたのは、短い白紐だった。端は毛羽立ち、途中に小さな朱の擦れがある。祈祷書に元々付いていた古い栞紐だろう。
「切ったのですね」
エレノアが言う。
レオニーは、今度はすぐに頷いた。
「……はい。前日に。“切れたから替えた”のではなく、差し込めるように替えました」
ついにそこまで出た。
祈祷書の白紐すら、事故ではなかった。
票を忍ばせるために、あらかじめ用意されていたのだ。
「入口は空白だったのではない」
ルカは小さく呟いた。
「空白に見えるよう、先に道具まで替えられていた」
それは、思った以上に丁寧な仕掛けだった。
誰の名前を置くかより先に、
名前を置かずに済む器を作る。
それが、この断罪の本当の入口だったのかもしれない。
セドリックは、しばらく何も言わなかった。
だが、その沈黙のあとに落ちた声は、これまでよりもずっと冷えていた。
「再審第二日、開廷と同時にベルナール、レナート、イレーヌ、レオニーの四名を同席で立たせる」
レオニーが顔を上げる。
初めて、はっきりと怯えた顔だった。
「同じ机の上で、順番を戻す」
王子のその一言で、場の空気が決まった。
別々に切られてきた手が、次は一つの机の上に並ぶ。
もう、誰か一人の“だけ”では逃げられない。




