第三十六話 その差替票は、祈祷屏風の陰で最初に封へ入った
白い封は、中身を入れた順番までは隠しきれない。
誰が最初に折り、誰の指で開かれ、どこでまた閉じられたか。
紙の端は、そういう小さな躊躇をよく覚えている。
北回廊の祈祷屏風は、礼拝棟へ向かう途中の、ちょうど人の目が切れる場所にあった。
高い屏風ではない。立てば肩先が少し見える。だが、座って祈るには十分に視線を遮る。白木の枠、薄い布、内側の小棚。聖句の小冊子と、祈祷葉を挟むための細い木片が置かれている。
誰かが一度だけ封を開き、また閉じるには、都合のよすぎる陰だった。
「使用控えを」
ルカ・エヴァレットが求めると、礼拝棟の小補助が薄い帳面を差し出した。
北回廊祈祷屏風短停控。
茶会前日、夕刻前。
聖女ミレイユ、短祷停。
付添、コレット。
時間はわずか二刻に満たない。だが、白封が返書口を出てから白箱裏へ入るまでの、ちょうど切れ目に当たっていた。
「ここです」
ルカが言うと、エレノアが静かに屏風の内側へ歩み寄る。
小棚の端に、白蝋のごく小さな粒が残っている。
聖花印の押済み封を、閉じ口寄りで一度だけ押し直したときに落ちる形だ。
その横には、薄い紙粉。
そして、棚板の縁へ、細長い折り筋の圧痕。
「封を机へ置かず、ここで折りましたわね」
エレノアが言う。
「三つ折りではなく、二つ折りを一度だけ差し込む時の深さです」
ルカは頷き、近侍へ目をやる。
「コレットを」
ほどなくして、白い顔の小侍女が連れてこられた。
昨日よりもさらに疲れて見える。だが、逃げてはいない。ここまで来れば、逃げる先のほうが少ないと、もう分かっている顔だった。
「コレット」
ルカは声を低く保つ。
「茶会前日、ミレイユ様がこの屏風へ入られたとき、あなたは何を持っていましたか」
「……白封です」
「空封の」
「はい」
「誰から受け取った」
「マリナ様の返書口から、レオニー様が持ってきたものを」
順番が一つ戻る。
返書口。
レオニー。
空封。
「そのあと」
コレットは屏風の布を見た。
見るだけで、その場所の空気がよみがえるのだろう。
「聖女様が、“少しだけ一人で”って。私は外で待っていました。でも、布の向こうで紙の音がして……」
「どんな音です」
「細い紙を折る音です。返書を入れる時より、短くて……」
差替票だ。
「それから?」
「聖女様が封を返してくださって、“まだ見ないで。先にレオニーへ”と」
そこまでは昨日の供述と同じだ。
だが今日は、場所がある。音がある。折り筋がある。
「そのとき、封は閉じていましたか」
コレットは少し考えた。
「完全には。まだ蝋は柔らかかったと思います。持ったとき、指に少しだけ温かくて」
エレノアが小さく息を吐く。
「ここで閉じたのですね」
聖花印の位置が、差替票の写しで閉じ口寄りだった理由も、それで説明がつく。
返書口で押済みだった聖花を、屏風の陰で一度開き、中へ紙を入れて、また閉じ寄せた。
だから押し跡が正規の飾り位置からずれた。
「ミレイユ様を」
ルカが言うと、近侍はすぐに動いた。
白い衣の聖女が北回廊へ現れたとき、屏風のあたりの空気はまた少し変わった。
昨日の聴取の時より、彼女の白さは軽く見えない。むしろ、何も手を汚していないからこそ、ここでどこまで認めるのかが重く見えた。
「この場所でしたか」
ルカが問う。
ミレイユは屏風を見て、しばらく沈黙し、それから答えた。
「……はい」
「白封の中へ、最初の差替票を入れたのは」
彼女の指先がわずかに動く。
「私です」
室内ではなく、廊下の冷たい空気の中で聞くその一言は、昨日より重かった。
エレノアは何も言わない。
ただ、彼女の横顔だけが少し硬くなる。
「あなたが入れた紙は、これですね」
ルカは、昨日見つかった差替票を小紙から出した。
――南回廊補助一
――当日主催側照会に従う
――氏名後補
ミレイユは票を見た瞬間、瞼を下げた。
「……そうです」
「中を読んでいましたか」
「読んでいました」
昨日よりも一歩深い認め方だった。
「“氏名後補”も」
「はい」
「“当日主催側照会に従う”も」
そこでミレイユは、ほんの少しだけ迷った。
「……はい」
それで、彼女はもう「空白を知らなかった」側には戻れない。
「なぜ、その紙を入れたのです」
ルカの問いに、ミレイユはすぐには答えなかった。
屏風の内側の小棚へ、視線が落ちる。
あのとき自分が封を置いた場所を見ているのだろう。
「名前がまだ決まっていないなら、先に“まだ決まっていない”ことだけを入れておけば、後で正しい方へ流せると思いました」
それは昨日も聞いた理屈だ。
だが今日の違いは、その理屈が「思った」ではなく、実際に差替票を封へ入れる手つきと結びついていることだった。
「止めるべきだとは思わなかったのですか」
エレノアが静かに問う。
ミレイユは目を伏せた。
「……思いました」
声が細い。
「でも、あの時は、名前のないまま止めるより、先に流しておいたほうが、後で誰も困らないと」
「誰も困らない」
エレノアの声は、冷たくはない。
だが、もう柔らかくもなかった。
「困る人間を、見ないままにしただけではなくて?」
ミレイユは返せない。
返せないことが、いまは答えだった。
ルカは差替票を指先で軽く持ち上げた。
「もう一つ確認します。あなたは、この票を最初から持っていたのですか」
ミレイユが顔を上げる。
「……いいえ」
「では、誰から」
「祈祷書に挟まっていました」
新しい言葉だった。
「最初から?」
「夕刻前に、レオニーが祈祷書を持ってきて……そのときは気づきませんでした。屏風へ入って、封を開く前に挟まっているのを見たんです」
レオニー。
だが、それだけでは足りない。
「祈祷書を見せてください」
近侍が受け取り、ほどなくして聖女席の祈祷書が運ばれてくる。
革表紙の重い本ではない。小さな折本だ。聖句と短い祈りが入った携帯用で、頁の間に薄い栞紐が何本も差せるようになっている。
ルカはその栞紐のうち、一本だけ妙に新しい白紐があるのに気づいた。
他は柔らかく馴染んでいるのに、その一本だけ繊維が立っている。
「この紐は」
ミレイユが小さく言う。
「レオニーが替えました。前の日に切れたからと」
ルカは紐の結び目を見た。
普通の栞紐は見返しの内側へ結び込む。
だがこの白紐だけは、結び目が浅い。抜けば、薄い紙を一枚だけ挟めるくらいの隙間がある。
差替票の幅と、ちょうど合う。
「祈祷書へ、票を忍ばせるための紐です」
ルカが言うと、コレットが息を呑んだ。
「気づかなかった……」
「気づかせないためでしょう」
エレノアが静かに言う。
白封は先に回す。
差替票は祈祷書へ忍ばせる。
屏風の陰で、それを封へ入れる。
それなら、聖女席で露骨に票を扱った形を残さずに済む。
「この票は、あなたの手で書いたものではありませんね」
ルカが問う。
ミレイユは首を振る。
「違います」
「レオニーですか」
「……分かりません。でも、彼女が祈祷書を持ってきました」
そこまでは出た。
なら次は、書き手の問題だ。
ルカは差替票を灯りへ傾けた。
紙質は奉仕口の差替票束と同じ薄紙。
だが折り筋が妙だった。二つ折りではない。
三折りにして、一度だけ外側を内へ逃がしている。
この折り方はどこかで見た。
「法務院仮照会束……」
小さく呟くと、アルヴィンが目を上げる。
「同じ折りか」
「はい。最後を内へ逃がす三折りは、白箱裏の仮照会薄紙と同じです」
つまり、この差替票は奉仕口で作られたのではなく、白箱裏か法務院側の薄紙運用に近い手つきで折られている。
レオニーが祈祷書へ忍ばせた。
だが折った手は、また別かもしれない。
そのとき、近侍が慌ただしく戻ってきた。
「殿下より」
「何です」
「レオニー・サールをお連れします。本審廷で、祈祷書と差替票の折りを前に、再度問うと」
ついにそこへ行く。
ミレイユの手が、入口の空白へ権威を与えた。
だが、その空白の中身そのものは、まだ別の手が折っていた。
エレノアが祈祷書の白紐を見つめたまま、低く言う。
「白い封の中へ、白い紙を入れたのではないのですね」
ルカは差替票を見た。
「ええ。先に、白箱裏の折りが入っている」
屏風の陰は、ただの受け渡し場所ではなかった。
外で折られた票を、聖女の手で“入れさせる”場所でもあった。




