第三十五話 聖女は、空白に名前を置かなかった
聖女席の聴取は、夜会の断罪より静かで、前審よりも息苦しかった。
豪奢ではない。
むしろ簡素だ。
白布の掛かった小卓、聖具台、祈祷書を置く細い棚。
だがその白さが、かえって逃げ道を消していた。ここでは、泣き崩れることも、怒鳴ることも、どちらも場違いになる。だからこそ、口に出る一語一語の意図だけが、裸のまま残る。
ミレイユは、最初から席にいた。
白に近い淡金の衣。肩へ落ちる柔らかな布。顔色は悪いが、乱れてはいない。夜会のあの日と同じように、守られる側の姿を崩さない整い方だった。
ただし今は、その白が以前ほど無垢には見えない。
ルカ・エヴァレットは記録官席へ着き、机上へ今日必要なものだけを置いた。
白布札。
――氏名後補
――白封先
――花印のち
聖女席私封使用控。
席外急ぎ、白封一、聖花押済、持出 R.S.
そして、コレットの供述札。
どれも小さな紙だ。
けれど、小さいからこそ言い逃れを許さない。
セドリック第一王子は、聖女席の正面に立っていた。
座らないのは、相手を責め立てるためではない。
今ここで、自分が“何も知らぬ王子”の席へ戻らないためだろうと、ルカは思った。
「ミレイユ」
王子が名を呼ぶ。
「はい、殿下」
柔らかな返答だった。
だが、その柔らかさの奥で、どこか張り詰めた細さが震えている。
「本審に先立ち、お前の席において作られた白封と差替票の順について問う」
「……承知しております」
彼女はそう言って、初めてルカの机上を見た。
白布札を見た瞬間、瞼がほんのわずかにだけ下がる。
見覚えがある顔だった。
「記録院より」
セドリックが言う。
ルカは立ち上がる。
「確認します。茶会前日昼刻過ぎ、聖女席側において“氏名後補”“白封先”“花印のち”の整理布札が作られました。書き手はレオニー・サール、発言の出所はコレット証言上、聖女ミレイユ」
ミレイユは、すぐには何も言わなかった。
否定を探している沈黙ではない。
どこまでが自分の言葉だったかを測っている沈黙だ。
「その言葉を、口にしましたか」
ルカが静かに問う。
ミレイユは視線を落とした。
「……似たことは言いました」
室内の空気が少しだけ動く。
似たこと。
そこから逃げるなら、逆に何が違うかを言わねばならない。
「どう違いますか」
ルカが問うと、彼女はゆっくり顔を上げた。
「私は、“まだ名前を置かなくていいなら、先に封だけ整えて”と申しました」
コレットの供述と大きくは違わない。
むしろ近い。
「名前を置かなくていい、と考えた理由は」
ここが芯だった。
ミレイユは、答える前にエレノアを見た。
視線は長くない。
だが、その短さの中に、敵意とも罪悪感ともつかない揺れがあった。
「南回廊の補助が一つ空いたと聞きました」
彼女は言う。
「けれど、その時点では、まだ誰を入れるか定まっていなかった。なら、先に封だけ回して、急ぎ便の経路だけを確保しておけば、後で正しい名を入れられると……そう思いました」
正しい名を、後で入れられる。
その理屈は、ここまで何度も聞かされてきた。
後で整える。
先に通す。
順番をあとから直す。
「正しい名が、後で本当に入ると思っていたのですか」
ルカの問いに、ミレイユの指先が初めて卓上で動いた。
「……思っていました」
「誰が入れると」
「レオニーか、取次か、先生方が」
先生方。
エルマ、セレスティン、その系統だろう。
「あなた自身は、名前に触っていない」
「触っていません」
即答だった。
「ではなぜ、“名前を置かなくていい”と判断できたのです」
ミレイユはそこで、初めて息を詰まらせた。
ルカは待つ。
ここで急がせると、嘘の速さに逃げられる。
「……その朝、エレノア様の名が、あまりにも多く聞こえていたからです」
思いがけない角度だった。
エレノアの目がわずかに細くなる。
「どういう意味ですの」
声は静かだ。
だが静かだからこそ、よく通る。
ミレイユは視線を正面へ戻した。
「侍女たちが、みなそう言っていました。王太子妃教育の方々も。南回廊も、返礼も、導線も、エレノア様がご覧になるのだと」
それは、噂だ。
だが王宮では、噂が先に席順を作ることがある。
「だから」
彼女は続ける。
「まだ名前がなくても、最終的にはエレノア様の系統へ入るのだろうと、私は勝手に思ってしまったのです」
勝手に思った。
そこに悪意がまったくないとは言えない。
だが、露骨な陥れとも違う。
むしろ厄介なのは、そのくらいの曖昧さだった。
空気を読み、そうなるだろうと先回りし、空白をそのままにする。
それが後から、誰かを断罪する入口になる。
「ミレイユ」
セドリックが低く問う。
「お前は、名前のないまま経路だけを先に通すことが、どれほど危ういか理解していたか」
ミレイユは答えられない。
答えられないこと自体が答えに近かった。
「少なくとも」
ルカが言う。
「あなたは、空白が危険だと分かっていなかったわけではない。だからこそ、封だけは先に整えようとした」
ミレイユは小さく目を閉じた。
「……はい」
「そして、聖女席の白封に聖花印が押されれば、その封は“聖女席由来の急ぎ”として扱われやすくなる」
「はい」
「つまりあなたは、名の空白を埋めずに、経路だけを強くした」
室内が静まる。
そこへ、コレットが半歩だけ前へ出た。
緊張で喉が鳴る音が、こちらにも聞こえる。
「聖女様は」
細い声だった。
「そのあと、私に“まだ見ないで”とおっしゃいました」
ミレイユの肩がかすかに動く。
「何を」
ルカが問う。
「白封の中身です」
コレットは布札を握りしめたまま言った。
「私は、花印を押したなら文も入るのだと思って、束へ混ぜようとしたんです。でも聖女様が、“まだ中は見なくていい、先にレオニーへ渡して”と」
中身を見なくていい。
つまり、空封であることを、ミレイユ自身が知っていたことになる。
ミレイユは、今度は否定しなかった。
「……はい」
「なぜです」
ルカの問いに、彼女は唇を震わせた。
「見れば、誰かが止めると思ったからです」
その一言は、あまりにも正直だった。
止められると分かっていた。
だから見せなかった。
エレノアが静かに言う。
「止められるべきだったから、でしょう」
ミレイユは、その言葉に返せない。
返せないまま、ただ小さく息を呑む。
「あなたは」
エレノアが続ける。
「私を断罪したかったのではなく、止めたくなかっただけなのかもしれません」
その声に、怒鳴りつける響きはない。
だが、だからこそ残酷だった。
「けれど、止めるべきところで止めないことは、しばしば一番ひどい加担になります」
ミレイユの目に、ようやく水が浮く。
泣き崩れるわけではない。
ただ、自分がずっと“直接は触っていない”という白さの内側に隠してきたものが、言葉になって刺さっただけだ。
「私は……」
彼女は声を絞り出す。
「エレノア様を落としたかったわけではありません」
「ですが」
ルカが静かに継ぐ。
「空白をそのままにして、白封だけを先に回した」
「はい」
「その空白が、後から公女線へ束ねられた」
「はい」
そこまで出れば十分だった。
ミレイユは首謀の言葉を吐かない。
だが、入口の空白へ自分の席の権威を与えたことは、もう否定できない。
そのとき、扉の外で別の足音が止まった。
乱れのない、だが急いでいる足だ。
近侍が入ってくる。
「殿下」
「何だ」
「レオニー・サールが、追加供述を願い出ています」
セドリックの目が細くなる。
「何を」
「“白封の中身を最初に入れたのは自分ではない”と」
室内の空気が、また一段張る。
白封は空で出た。
花印が押された。
レオニーが持ち、イレーヌが迎えた。
だが、その中へ最初に差替票を入れた者がまだ残っている。
「誰だと」
近侍は答えた。
「“講読席裏ではない。聖女席でもない。白箱裏へ着く前、北回廊の祈祷屏風の陰で、封は一度だけ開いた”と」
北回廊。
また一つ、半端な場所だ。
誰にも見られにくく、しかし誰でも通れる、王宮らしい中間の隠れ場。
エレノアが白布札を見下ろしたまま、低く言う。
「まだ、白い封の中に手を入れた人間がいるのですね」
ルカは頷いた。
空白は作られた。
封は先に回った。
花印は後から与えられた。
だが、その中身を最初に入れた指先だけが、まだ見えていない。
断罪の入口は、思った以上に丁寧に作られていた。




