第三十四話 その白封は、聖女席からまっすぐ白箱裏へは行かない
私印は、押された場所より、渡った順で嘘をつく。
誰の席で押されたか。
誰の箱へ入り、誰の手で外へ出たか。
白い封は、そこを間違えると急に他人の顔になる。
南回廊補助一の差替票に聖花の押し跡があったと分かったあと、ルカ・エヴァレットはすぐに聖女席まわりの返書口へ向かった。
礼拝棟の表寄り、聖女が名を借りて外へ出す紙をまとめる小部屋だ。
香木の匂いがある。
白い封が積まれている。
だが、それだけなら王宮のどこにでもある。ここで違うのは、封の端へ押される小さな聖花の意匠と、その押し方にまで作法があることだった。
室内にいたのは、聖女席返書補助の女官だった。
三十前後。白に近い淡灰の外衣。目の下に薄い隈があるが、姿勢は崩れていない。追い詰められてはいるが、まだ自分の職の形を捨てていない顔だった。
「返書補助主任、マリナです」
近侍の立会のもとで彼女は名乗った。
「白封と聖花印の運用を確認したい」
監査院受領官が言うと、マリナは一拍だけ視線を落としたが、拒まなかった。
「どこまでを」
「茶会前日前後。差替票に用いられた白封の経路まで」
その一言で、彼女の指先がわずかにこわばる。
やはり、どこが問われているかは分かっている。
「白封簿を」
ルカが言うと、マリナは棚から薄い綴りを出した。
聖女席私封使用控。
頁は細かく分かれ、用途ごとに札が付いている。慰問返書。祈祷礼状。私的見舞い。席外急ぎ。
ルカは茶会前日の欄を開いた。
午刻、慰問返書二。
昼刻、祈祷礼状一。
夕刻前、席外急ぎ一。
その一行だけが、妙だった。
――席外急ぎ
――白封 一
――聖花押済
――持出 R.S.
「R.S.」
ルカが読んだ瞬間、エレノアが静かに言った。
「レオニー・サール」
マリナは頷いた。
「はい。読誦補助レオニーが持ち出しました」
白封はあった。
聖花印も、正式に押されている。
だが、ここから先が問題だ。
「席外急ぎとは、何です」
ルカが問う。
「本来は、聖女席の返書箱を経ず、先に相手の席へ届ける必要がある短い私封です」
マリナは答える。
「ただし内容は返書か見舞いに限ります。事務票や差替票には使いません」
「その日の中身は」
そこでマリナは一度だけ口を閉ざした。
「覚えていない、と言うつもりですか」
アルヴィンの低い一言で、彼女は首を振る。
「いえ。覚えています。空封です」
室内の空気が変わる。
「空封?」
「はい。まだ文を入れていない白封でした。レオニーが、“先生の見直しが入るから、先に封だけ押してほしい”と」
エレノアの目が細くなる。
「聖女席の返書で、文が入る前に私印だけを押すことはありません」
「ありません」
マリナは即答した。
「だから、その時点でおかしいとは思いました。ですが、読誦補助は聖女様の私的見舞いも扱います。しかも、先生の見直しと聞けば、講読司側の言葉直しだと思ってしまう」
また“先生”だ。
ただし今回は、エルマか、セレスティンか、そのどちらかの権威を借りるための言葉として使われている。
「封そのものを見せてください」
ルカが言うと、マリナは別の引き出しから未使用の白封束を出した。
白く、薄い。
だが、近くで見ると端の合わせが普通の王宮事務封と違う。
折り返しの角が、わずかに丸い。
そして聖花印は、閉じ口ではなく左下の飾り位置へ押される。
ルカは、差替票に付いていた聖花の押し跡写しを横へ置いた。
位置が違う。
「この白封ではありません」
ルカが言うと、マリナが顔を上げた。
「何ですって」
「聖女席の正式私封なら、聖花は左下の飾り位置です。差替票に付いていた押し跡は、閉じ口寄りにある。つまり、封そのものは聖女席由来でも、押された向きが違う」
エレノアが静かに続ける。
「席の中で押されたのではなく、外で封を回して押し直したか、押済みの封を別向きで使ったかのどちらかですわ」
マリナの顔色が、そこで少しだけ変わった。
「押済みの封を、外で使い直すなど」
「ありえない、と言えますか」
ルカが問う。
彼女は即答できない。
それだけで十分だった。
「押印台を」
監査院受領官が言うと、マリナは小さな朱箱と、聖花の私印台を出した。
印そのものは小さい。
だが台座の底に、薄い蝋と白い紙粉が混じっている。
ルカはそれを見た。
「聖花印は、紙だけでなく封蝋にも押せますね」
マリナは頷く。
「見舞い封では、外封の封蝋へ押すこともあります」
「では、差替票に付いていた押し跡は、封蝋押しの写りかもしれない」
白封そのものではなく、
白封を閉じた小さな蝋封。
なら位置が閉じ口寄りなのも自然だ。
「茶会前日、席外急ぎで出た白封に、封蝋は付けましたか」
「いいえ」
「誰が持ち出した」
「レオニーです」
「どこへ」
マリナは首を振る。
「そこまでは。ただ、返書箱へ入れないまま、白箱裏へ行ったと」
「見たのですね」
「……はい」
ついに出た。
聖女席から白封は出た。
だが返書箱を経ず、白箱裏へ行った。
「誰と」
ルカが問う。
マリナは唇を引き結ぶ。
「イレーヌが迎えに来ていました」
やはり、その二人だ。
レオニーが白封を持つ。
イレーヌが白箱裏へ迎える。
そのあいだに、聖女席の私印が“聖女席由来”の顔だけを与える。
「封は空だった」
ルカが言う。
「はい」
「なら、差替票そのものは白箱裏で入れられた」
「その可能性が高いです」
マリナの声は低い。
もう、否定より事実の重さが先に来ている声だった。
「差替票の文を見たことは」
「ありません」
「ですが、“氏名後補”の語を、誰かが聖女席で口にしたことは」
そこが、この回の芯だった。
マリナの目が、そこで初めて揺れた。
「……一度だけ」
室内の空気が止まる。
「いつ」
「茶会前日、昼刻過ぎです。レオニーと、聖女様付きの返書見習いが、白封の束を選びながら」
「何と」
「“名前はまだ書かないの? 後補のままで?”と」
エレノアが目を上げる。
それだけで、空白と白封が同じ昼の中にあったことが分かる。
「返書見習いの名は」
マリナは答えた。
「ミレイユ様付きの小侍女、コレットです」
ミレイユ本人ではない。
だが聖女席のすぐそばだ。
「コレットは今どこに」
近侍がすぐに動こうとした、そのときだった。
扉の外で、小さな足音が止まる。
覗くように顔を出したのは、まさに若い侍女だった。
まだ十代の半ばほど。顔色は真っ白で、白い布札を両手で握りしめている。逃げたのではない。逃げきれずに、自分から来た顔だった。
「……コレットです」
マリナが息を呑む。
少女は震えながら一歩入ってきた。
「もう、隠せません」
その声は細い。
だが、ここまで来ると細い声ほどよく通る。
「何を」
ルカが問う。
コレットは布札を差し出した。
細い白布札。聖女席の返書束へ、封をまとめる前に一時的に挟む整理札だ。
そこには、急いだ字でこうある。
――氏名後補
――白封先
――花印のち
花印のち。
つまり、先に差替票の語を決め、白封を確保し、そのあとで聖花印を与える順番だった。
「誰が書いた」
ルカが問う。
コレットの唇が震える。
「レオニー様です。でも、言ったのは」
彼女はそこで目を閉じる。
「聖女様でした」
室内の空気が、今度は目に見えて変わった。
誰もすぐには声を出せない。
重いのではない。
重すぎて、一拍だけ意味が遅れて届くのだ。
ミレイユ。
ついに、その名が入口の紙へ寄ってくる。
「どういう場で」
ルカは声を変えずに問う。
ここで揺れれば、少女も崩れる。
「昼刻過ぎ、返書束の選り分けのときです。レオニー様が、南回廊の札が空いたって。そしたら聖女様が、“まだ名前を置かなくていいなら、先に封だけ回して”って」
「その意味を、理解していましたか」
「……いいえ」
コレットは首を振る。
「でも、あとで白箱裏から戻ったレオニー様が、“これで公女様の線はつながる”って」
その一言で、最後の薄い布が剥がれた。
入口の空白。
白封。
花印。
そして、公女線をつなぐ意志。
エレノアは、しばらく何も言わなかった。
言わずに、白布札を見つめていた。
たぶん今、初めて、“聖女”という柔らかな名の内側へ、本当の順番で手が届いたのだ。
ルカは布札を小紙へ受け、静かに言った。
「記録します。茶会前日昼刻過ぎ、南回廊補助一の名が空く前後に、聖女席側において“氏名後補”“白封先”“花印のち”の整理布札が作られた。書き手はレオニー・サール、発言の出所はコレット証言上、聖女ミレイユ」
コレットが泣きそうな顔で俯く。
だが、泣かせて終わる場ではない。
そのとき、近侍が足早に入ってきた。
「殿下がお呼びです」
「今すぐに?」
「はい。聖女ミレイユ付きの席を、本日のうちに開くと」
ついに、その時が来た。
白票。
毒。
流通。
入口の空白。
それらをずっと外から支えていた、柔らかな顔の中心へ。
エレノアがゆっくりと顔を上げる。
その目にあるのは、怒りだけではない。
ようやく本当の相手の位置を見つけた者の、冷たい静けさだった。
断罪の入口は、白い封から始まっていた。
そしてその白は、最初から無垢ではなかった。




