第二十九話 その一行は、青砂の机であとから生まれた
差し込まれた一行には、たいてい生まれた場所の癖が残る。
どの机で乾かされ、どの砂を振られ、誰の手元で「つじつま」と呼ばれたか。
原本は、そこまで忘れない。
香具庫裏で見つかった青玻璃瓶は、礼拝棟の小さな検め台へ移された。
掌に収まるほどの細い瓶。中身は空。口縁には蝋の焼き戻し痕。底には、剥がれかけた札の糊跡が白く残っている。
正面から見れば、ただの空容器だ。だが一度「空瓶返納未了」という紙を見たあとでは、もうただの瓶には見えない。
ルカ・エヴァレットは瓶を横へ倒し、灯りへかざした。
底の内側に、ごく薄い青い輪がある。
睡蓮毒の保管瓶に残っていたものとは違い、こちらはもっと浅い。量も少ない。中身は洗われている。だが完全には消えていない。
「これは返礼添付品の瓶ですわ」
エレノアが言った。
疲れているはずなのに、声は落ち着いていた。むしろ、こういう細部のほうが彼女は強い。
「見分けがつくのですか」
「つきます。礼拝棟の返礼用小瓶は、見栄えのために青玻璃を使います。香油でも清め水でも、外から中身が濃く見えすぎないように」
彼女は瓶の首元を指した。
「本来ならここへ、銀の細紐で小札を掛けます。これは紐だけ切られている」
たしかに首の付け根に、ごく細い擦れがあった。紐を急いで引き抜いたときの痕だ。
「返礼添付品台帳を」
監査院受領官が命じると、礼拝棟の補佐がすぐに別の簿冊を運んできた。
礼拝棟返礼添付品払出簿。
日付ごとに、香油瓶、清め水瓶、祈祷札束、細布の数が並ぶ。
茶会前日、夕刻前。そこに一行だけ、青玻璃瓶の記載がある。
――浄花油 小瓶一
――読誦補助レオニー持出
――返納 未
「レオニー・サール」
ルカがその名を口にすると、礼拝棟補佐が頷いた。
「はい。聖女付きの読誦補助です。返納印がなく、翌朝の確認欄も空いたままです」
空瓶返納未了札ときれいに噛み合う。
「中身は浄花油のはずでした」
エレノアが静かに言う。
「なら、本来、睡蓮毒のような青性沈降は残らない」
毒瓶そのものではない。
だが、毒を移す容器として使われた可能性が高い。
ルカは瓶口の焼き戻し痕を指先で追った。
封を戻した形跡は粗くない。だが、礼拝棟副保管の毒瓶よりは雑だ。副保管瓶を開けて一滴を抜き、この返礼瓶へ移し、それをまたどこかへ渡した――そういう使い方なら、この程度の焼き戻しで十分だったのだろう。
「問題は、この瓶がどうやって茶会の流通原本へ入ったことにされたかです」
ルカが言うと、アルヴィンが短く頷いた。
「後差し込みの一行だな」
机上に置かれている贈答品流通原本が開かれる。
南回廊茶器置台の補記。
――礼拝棟返礼添付品 小瓶一
――主催側預り
副控えにはない。
原本にだけある。
しかも副印がない。
「この一行が、どの机で書かれたかを切ります」
ルカは原本へ顔を寄せた。
昨日の段階では、筆圧の違いまでしか言えなかった。
だが今は机の上に、青玻璃瓶と、礼拝棟返礼添付品払出簿と、白票線で使われた青砂の記録がある。
行末の乾き際に、微細な粒が埋まっていた。
灰砂ではない。
青砂だ。
「やはり」
ルカが低く言う。
「この一行は、贈答卓で書かれていません」
ベルナール補佐官がすぐに顔を上げる。
「砂の色だけで断定するつもりか」
「断定はしません。ですが、贈答卓の灰砂と、この行の粒は一致しません」
ルカは礼拝棟補佐へ向いた。
「返礼添付品簿の机は」
「灰砂です」
「取次白箱の机は」
今度は近侍が答える。
「青砂だ。急ぎ便が多いからな」
それで十分だった。
「原本の後差し込み行は、少なくとも贈答卓ではなく、青砂を使う机で乾かされています」
つまり、取次か、上覧前整理卓か、その近辺。
白票が動いた場所と同じだ。
ベルナールはすぐに反論しない。
反論すると、ではなぜ原本だけがそこへ行ったのかを聞かれるからだろう。
「贈答卓の補記板を」
ルカが求めると、主催側の若い女官が一枚の板を運んできた。
流通原本を書き写すときに下へ敷く、薄い硬板だ。日々使い込まれていて、表面は平らに見える。だが斜めに灯りを当てると、筆圧の凹みがわずかに浮く。
ルカはその板を見た。
主簿の通常行はある。
返礼札束。菓子盆。茶葉筒。
だが、小瓶一の凹みはない。
「贈答卓では書かれていない」
今度は、板がそう言った。
室内の空気が少しだけ硬くなる。
贈答卓で書いていない。
副控えにない。
原本だけにあり、青砂で乾いている。
なら、その一行は、原本が一度“青砂の机”へ行ったあとに生まれたことになる。
「原本はいつ、贈答卓を離れた」
ルカが若い女官へ問う。
彼女は緊張した顔で答えた。
「副控えを取ったあと、一度だけ、宮付の取次から“礼拝棟返礼添付品に補記がある”と言われて……原本だけを持っていかれました」
近侍が眉をひそめる。
「誰が持っていった」
女官は唇を湿らせた。
「私ではありません。取次補助の女官です」
「イレーヌ・バルダン」
「……はい」
やはりそこだ。
「戻ってきたとき、行は増えていたか」
「はい。ですが、“礼拝棟からの補記ですから”と」
礼拝棟からの補記。
その言い方そのものが、いかにも通しやすい。
だが本当の礼拝棟補記なら、副印があり、副控えへも回る。
そこを飛ばしている時点で、もうおかしい。
ルカは青玻璃瓶をもう一度持ち上げた。
首の擦れを見ていると、そこに小さな紙片がまだ貼り付いているのに気づく。糊と一緒に残っていた極小の繊維だ。爪先でそっとめくる。
細い白札の切れ端だった。
表に残っているのは二文字だけ。
――預
――り
裏返す。
青砂が一粒、食い込んでいる。
そして、裏面の端に、極小の走り書きがあった。
――L.S.
レオニー・サール。
室内の空気が止まる。
「首札です」
ルカが言う。
「瓶の首へ掛ける仮札に、“預り”の語があり、裏に L.S. の記しがある。これは流通原本へ差し込まれた“主催側預り”の元札である可能性が高い」
エレノアが低く言う。
「つまり、最初に作られたのは原本の一行ではなく、瓶の首札」
「はい」
ルカは頷く。
「首札で瓶に仮の身分を与え、そのあと同じ語を原本へ差し込んだ」
順番が見える。
まず瓶へ札。
その札の語を使って原本へ補記。
副控えはもう終わっているから、原本だけが書き換わる。
「レオニーが、首札を書いた」
アルヴィンが言う。
「ただし、原本へ写したかどうかはまだ別だ」
そこを急がないのが、この作品の筋だった。
「まだ一つあります」
ルカは原本の差し込み行を指した。
「“主催側預り”という語は、礼拝棟の返礼簿では使いません。返礼添付品なら“礼拝控え預り”か“返礼卓止め”になる。主催側預りという言い方は、宮付や主催卓で物を一時退避させるときの語です」
近侍が短く頷く。
「宮付白箱や上覧前整理では、その語を使う」
「なら」
ルカは続ける。
「首札の語そのものが、礼拝棟ではなく宮付側の机で与えられた可能性があります。レオニーの L.S. は、書き手ではなく、瓶を持ち込んだ側の印かもしれない」
複数の役割が、また顔を見せる。
レオニーが瓶を持つ。
イレーヌが原本を取次へ通す。
青砂の机で誰かが“主催側預り”を原本へ差し込む。
「誰が写した」
セドリックの声が、そこで静かに落ちた。
いつの間にか、王子自身が席を立たずにこちらの検め台へ視線を向けている。
声を荒げてはいない。
だが問いは真っ直ぐだった。
ルカはすぐには答えなかった。
「現時点では二段に切れます」
「言え」
「首札の由来はレオニー・サールに寄っています。ですが、原本の後差し込みは青砂の机で行われている。つまり、瓶の首札と原本の一行は、同じ言葉を共有していても、同じ手とは限りません」
ベルナールがここで口を開く。
「なら、なおさら別件だ。礼拝棟で瓶が動き、宮付で補記が動いた。単に整合を取ろうとしただけかもしれん」
「整合なら、副控えも戻します」
ルカは即座に返した。
「副控えを飛ばし、原本だけへ行を足し、空瓶返納未了のまま、採取票のない付着試料へつなげている。整合ではなく、遅れた辻褄合わせです」
セドリックがベルナールを見た。
その視線だけで、もう十分だった。
「……続けろ」
ルカは青玻璃瓶の切れ端札を小紙へ包み、最後にもう一つだけ確かめた。
「取次白箱の補記札控えを」
近侍がすぐに小さな束を差し出す。
白箱へ一時入れる物の名目札控えだ。
そこをめくると、茶会前日夕刻の一枚に、似た語があった。
――主催預り
――返納後整
青砂。
短い略語。
そして、行末の癖。
“預”の払い方が、流通原本の差し込み行とよく似ていた。
「これは……」
近侍が眉を寄せる。
「上覧前整理卓の仮札だ」
原本の一行は、やはり白箱裏の机で生まれていた。
誰が書いたかは、まだ断定しない。
だが、どの机で生まれたかは、もうかなりはっきりしている。
「記録する」
セドリックが言った。
「礼拝棟返礼添付品小瓶一の流通原本補記は、原本後差し込みの疑いをさらに強める。首札断片、白箱仮札控え、青砂一致により、白箱裏の上覧前整理卓関与の可能性を採る」
室内の空気が、そこで大きくは変わらない。
だが変わらないこと自体が意味を持つ。
もう誰も、これを偶然の継ぎ目だとは思っていないのだ。
そのとき、監査院補佐が別の紙を持って駆け込んできた。
「受領官!」
「何だ」
「白箱裏の上覧前整理卓、当夜の着席控えです。遅れて出ました」
差し出された紙は薄い。だがそこに書かれた名は重かった。
夕刻後半。
レナート・セルヴィス。
イレーヌ・バルダン。
そしてもう一名。
――礼拝棟連絡立会 L.S.
レオニー・サール。
瓶を持った者。
首札の断片。
白箱裏の机。
ついに三つが、同じ一枚へ並んだ。
エレノアが、ほとんど聞こえないほど小さく言う。
「逃げ場が、なくなってきましたわね」
その声音は冷たくも、勝ち誇ってもいない。
ただ、順番がようやく本来の形へ戻りつつあるのを見ている声だった。
ルカは着席控えを見下ろした。
瓶の首札。
原本の一行。
白箱裏の机。
そして L.S.
次に切るべきは、もう一つだ。
レオニーが持ち込んだ瓶に、誰が原本の顔を与えたのか。
紙は、そこまで来ている。




