第二十八話 贈答品流通原本は、別件のふりをしない
別件、という言葉は便利だ。
つながっているものを切り離し、責任を薄くし、同じ夜に起きた改ざんを、偶然の重なりに見せかけることができる。
だからこそ、原本はその言葉を嫌う。
順番どおりに残された紙は、別件のふりを許さない。
本審前整理の場は、前審室よりさらに実務の匂いが濃かった。
高窓から差す昼前の光。机上に積まれた束。法務院、記録院、監査院、王太子宮、それぞれの立会席。今ここでは、誰かを断罪するためではなく、本審で何を主柱にするかを切り直すための紙だけが並ぶ。
ルカ・エヴァレットは、毒物線の束の隣へ、もう一冊の帳簿を置いた。
贈答品流通原本。
革背は古く、端は擦れている。だが題簽の貼り直しもなく、表紙裏の受理欄も揃っている。こういう帳は、黙っているようでいて、一番よく喋る。
「本件の毒物線は、別件の安全確認であり、ヴァレンティア公女への嫌疑とは切り分けるべきです」
ベルナール補佐官が言った。
前審で白票群を切られてから、彼はむしろ静かになっていた。声を荒げない。荒げないからこそ、逃がしたい論点だけを、きれいな言葉で外へ押し出してくる。
「礼拝棟副保管瓶の封蝋剥離が事実としても、それは礼拝棟内部の安全管理の瑕疵にすぎません。茶会における贈答品流通、あるいは被疑当事者による導線妨害とは別に見るべきです」
セドリック第一王子は答えず、ルカを見た。
言え、という視線だった。
ルカは立ち上がる。
「では、その“別件”かどうかを原本で切ります」
贈答品流通原本を開く。
「茶会前日の流通記録です。贈答卓、返礼卓、茶器置台、聖女控え卓。それぞれに入る品と、付添品の流れが記されています」
頁をめくる。
茶会前日、夕刻前。
贈答主簿は整っている。布箱、菓子盆、返礼札束。
だが、南回廊茶器置台の行だけ、行間が半字ぶん不自然に詰まっていた。
「ここです」
ルカが指を置く。
「本来の記載は、茶器置台付近飾卓、茶葉筒二、供杯六、返礼札一束。そこへ後から一行が差し込まれています」
ベルナールが眉を寄せる。
「補記なら珍しくない」
「はい。問題は、その補記の内容です」
ルカは読み上げる。
――礼拝棟返礼添付品 小瓶一
――主催側預り
室内の空気がわずかに変わる。
「小瓶?」
セドリックが低く問う。
「はい」
ルカは答える。
「礼拝棟返礼添付品の小瓶です。つまり、この時点で、礼拝棟から出た液体容器が、茶会の流通帳へ入っています」
エレノアが静かに口を開いた。
「主催側預り、ですか」
「何かありますか」
「あります」
エレノアは原本へ視線を落としたまま言う。
「茶会の返礼添付品に小瓶が付くこと自体は、稀にあります。香油や清め水の極小瓶なら。ただし、それは返礼卓止まりです。茶器置台付近へ入れるなら、主催側預りではなく、礼拝棟確認付で別札になります」
ベルナールが言い返す。
「運用差にすぎない」
「いいえ」
エレノアは視線を上げずに返した。
「液体は、見栄えより優先して経路が分かれます。主催側預りの四文字で茶器動線へ入れることは、普通はしません」
ルカは頷き、さらに頁をめくった。
「加えて、この補記には副印がありません」
原本の行末には、通常なら小さな副印がある。贈答卓なら内務副印、礼拝棟返礼添付品なら礼拝棟副印。
だが小瓶の行だけ、欄が空いている。
「後から差し込まれた一行でありながら、誰の確認で茶器動線へ入ったかが空白です」
「空白のまま主簿へ残ることはある」
ベルナールが言う。
「あとで埋めるためだ」
「なら、埋めた控えが残るはずです」
ルカは机上のもう一枚を出した。
贈答品流通副控え写し。
原本から二行ごとに写しを取る補助簿だ。
「こちらには、小瓶の行自体がありません」
室内が静まる。
原本にある。
副控えにない。
つまり、その一行は、副控えが取られた後に原本へ差し込まれた可能性が高い。
「別件なら、こうはなりません」
ルカが言う。
「毒物線が本当に礼拝棟だけの安全確認なら、贈答品流通原本へ小瓶の一行を差し込む理由がない」
ベルナールの顔色がわずかに変わる。
「それは礼拝棟側の整理ミスだ」
「整理ミスなら、副控えより先に入ります」
ルカは即座に返した。
「この一行は、流通のあとから、しかも原本だけに入っている」
アルヴィンが低く言う。
「つまり、茶器置台付近で出た“毒の話”へ、あとから流通の顔を与えた」
それがこの章の芯だった。
毒物線を別件とするためではなく、
逆に、贈答品線へあとから接続するための一行。
「まだあります」
ルカは原本の綴じ紐の下から、細い返納札を抜いた。
普段なら見落とす程度の薄さだ。だが帳のこの位置に挟む紙は、たいてい見られたくない。
札には、こうあった。
――礼拝棟返礼添付品 小瓶一
――空瓶返納 未了
――朝まで保留
空瓶返納未了。
小瓶は茶会前日時点で、流通へ入ったまま戻っていない。
「空瓶」
セドリックが繰り返す。
「はい。返礼添付品なら、空になれば礼拝棟へ戻るはずです。ですが、この札では“朝まで保留”になっている」
ルカは一拍置いた。
「朝まで保留なら、茶会当夜のどこかで中身が失われたか、容器自体が戻っていないかのどちらかです」
エレノアが静かに言った。
「睡蓮毒の保管瓶から抜かれた一滴。そして、返礼添付品の小瓶一。別件とは呼びにくいですわね」
ベルナールが机へ手をついた。
「推測です!」
初めて、少しだけ声が上ずる。
「礼拝棟返礼添付品の小瓶が、そのまま睡蓮毒だとまでは誰も言っていない!」
「はい」
ルカは静かに頷く。
「ですので、次を見ます」
今度は、昨夜押さえた礼拝棟供瓶確認札の写しと、南回廊茶器置台付近の主催側導線控えを並べる。
「茶会当日、六刻三十一分に“付着試料 A”が採取されたことになっています。しかしその時刻、茶器置台には封見張りが二名立ち、立会外採取の記録がない」
近侍が短く補う。
「主催側導線控えで確認済みです」
「一方で、礼拝棟の供瓶確認札には二本切り――講読確認済――が入り、睡蓮毒瓶の封蝋は一度剥がされて戻されている。浄具係アルノーは、一滴を毛管へ移したと供述済み」
ルカは鑑定室で押さえた前見札の写しを出した。
――微量青液
――睡蓮系予見反応あり
――本受理前
「正式鑑定の前に、睡蓮系と見立てられた一滴が存在します。つまり、礼拝棟側で抜かれた一滴が先にあり、その後で茶器置台付近の“付着試料 A”が嫌疑の顔を与えられた可能性が高い」
ベルナールは即座に返せない。
返すには、差し込まれた小瓶の行と、戻らない空瓶札と、存在しない採取票と、先に見た一滴を全部ばらしてしまう必要があるからだ。
「別件、ではありません」
ルカが言う。
「同じ夜に、同じ手つきで、“礼拝棟の小瓶”と“茶会の付着”をあとからつないでいます」
前審室より実務寄りの空気が、ここで初めて大きく揺れた。
誰かが小さく息を吸い、誰かが紙を持ち直す。
崩れたのは一枚ではなく、ベルナールの逃げ道の形そのものだった。
「ベルナール補佐官」
セドリックが静かに名を呼ぶ。
ベルナールは顔を上げる。
「お前は、まだこれを別件と言うか」
長い沈黙が落ちる。
彼は答えを選んでいた。
完全に退けば、自分のこれまでの論の柱が折れる。
押し切れば、原本と副控えの差し込みという、逃れにくい実務改ざんへ触れざるを得ない。
「……贈答品流通原本の一行差し込みについては、再照合が要るでしょう」
それが、ようやくの後退だった。
「毒物線との接続も、現時点では疑義としては否定できません」
否定できない。
それで十分だった。
セドリックは短く頷いた。
「記録する」
そして王子は、机上の贈答品流通原本と返納札へ視線を落とした。
「礼拝棟返礼添付品小瓶一の補記行について、原本のみの後差し込みの疑いを採る。空瓶返納未了札と、毒物瓶封蝋剥離、毛管前見、採取票不在をあわせ、本件毒物線を贈答品流通線と分離しない」
白票線が折れたときと同じように、
今度は“別件”という逃げ道が、正式に狭められた。
「加えて」
セドリックは続ける。
「法務院提出の睡蓮毒鑑定書は、正式受理前の予見に先導され、採取経路の裏づけを欠く。現時点で本件の主たる根拠には採らない」
法務院側の空気が、そこで明らかに沈む。
怒号はない。
ただ、机上の紙が一段重くなったのが分かる沈み方だった。
ルカはそこで、もう一枚だけ机へ置いた。
副印不一致の照合票だ。
「最後に」
「まだあるのか」
ベルナールが絞り出すように言う。
「あります」
ルカは短く答えた。
「贈答品流通原本の差し込み行。その行頭の筆圧と、講読前整句控の“R”追記脇にある小修補の筆圧が、よく似ています」
それは断定ではない。
だが、実務者の手癖が紙をまたいで残っている可能性を示すには十分だった。
「整文側と流通原本差し込み側が、少なくとも同じ書き手の近くにいた可能性があります」
セドリックの目が、ベルナールではなくマルセルの背後の書記席へ向く。
そこで、誰かが目を逸らした。
まだ名は出ない。
だが、紙のほうは先に震えている。
そのとき、外で足音が止まり、監査院補佐が飛び込んできた。
「受領官!」
「何だ」
「礼拝棟の香具庫裏から、細い青玻璃瓶の空容器が見つかりました!」
室内が、今度ははっきり揺れる。
「封は」
ルカが問う。
「無し。ただし口縁に蝋の焼き戻し痕があり、底に礼拝棟返礼添付品の剥がれ跡が」
青玻璃瓶。
空容器。
礼拝棟返礼添付品。
香具庫裏。
返納未了札が、ようやく実物の顔を持つ。
セドリックが、ゆっくりと立ち上がった。
「本審前整理はここまでだ」
その声は、もう曖昧ではない。
「次は、空容器と、流通原本差し込み行の書き手を切る。ヴァレンティア公女に対する毒物・贈答品流通両線は、同夜の改ざんとして併合して進める」
別件ではない。
その一言を、ようやく王子自身が制度の形で言ったのだ。
ルカは机上の原本を静かに閉じた。
紙の順番。
瓶の順番。
人の順番。
それぞれが、ようやく同じ夜へ戻り始めている。
そして今度は、空になった小瓶が、その夜に何が移されたかを語り始める。




