花咲く庭と甘やかな誕生日会
その朝、ヴァレンティーナ公爵邸の庭園は、春の陽光に満ちあふれていた。
桜色の花々が咲き誇るアーチ、薄紫と白のリボンが風に揺れるガゼボ、そして精緻に並べられたティーセットと焼き菓子の数々――
リリサンドラ・ヴァレンティーナ、6歳。
初めて“主役”として迎えるこの日のために、彼女は完璧な準備をしてきた。
「……はぁ。深呼吸、深呼吸ですわ」
鏡の前で淡いライラック色のドレスを整えながら、リリーは何度も呼吸を整える。
スカートの裾には細やかな銀糸の刺繍が舞い、まるで星屑のように光を返す。
「きれいだよ、リリー」
兄のユリウスが部屋に現れ、そっと声をかけてくれた。
「ありがとう、兄さま。でも……今はまだ少し、どきどきしていますの」
「ふふ、可愛い妹が主役だからね。みんな、君のことを見にくるんだよ。堂々としていなさい」
「……ええ。お兄さまに恥をかかせないよう、頑張りますわ!」
彼に微笑み返して、リリーは大きく頷いた。
招待客がひとり、またひとりと庭園に現れ始める。
一番乗りは、やっぱりカティ――カタリナ・アーデンだった。
いつもよりふわふわと巻かれた金髪が、花の飾りとともに風に揺れている。
「り、リリー……あ、あの、今日は……お誕生日、おめでとう……!」
「ありがとう、カティ。来てくださって嬉しいわ!」
手を取り合って小さくスカートを揺らすふたりに、使用人たちも自然と笑みを浮かべた。
「今日はね、ちゃんとカステラもご用意してますの。あとで一緒に食べましょうね?」
「……うんっ!」
続いて、レオンハルト・ドレヴァンが緊張した面持ちで現れた。
すでに数回会っているとはいえ、こうした場は彼にとってまだ慣れない。
「ど、どうも……」
「ようこそ、レオン。今日は楽しんでいってね?」
「うん……き、君のドレス……すごく似合ってる……」
「まぁ……ふふ、ありがとう」
耳まで真っ赤になって俯いたレオンを見て、リリーは思わず頬を緩めた。
そして――最後から二人目に現れたのは、銀糸のように繊細な黒髪をなびかせた少年だった。
「やあ、やっと見つけたよ。派手な装飾の門が三つもあるなんて、紛らわしすぎるよね」
その手には、何やら分厚い本と花の詰まった小さな木箱。
「せ、セラフィアン様……?」
「セラフでいいよって言ったでしょう、リリサンドラ嬢。ああ、いや、今日はお誕生日だったね。“おめでとう”くらい言っておかないと、また君に叱られそうだ」
「まあ……ふふ。ありがとうございます、セラフ。よくいらしてくださったわ」
セラフは芝生の上に立ったまま、ちらと会場を一瞥する。
「へえ、思ったよりちゃんとした会なんだ。てっきり“お人形のお茶会”みたいなものかと思ってた」
「おほほ……残念でしたわね? これはれっきとした、わたくしの社交界デビューの予行ですの」
「へえ? なら、出されたケーキを味見してもいいよね。感想を伝える義務がある」
そう言って、セラフは一口だけ――本当に慎重に、一片を口に含む。
もぐ、もぐ。
「……。……うん」
もぐ、もぐ。
「……なにこれ、すごいね。しっとりしてて、ふわふわで、口の中で甘さが溶ける。どうしてこんなことができるの?」
「秘密、ですわ」
「チッ……やっぱり君、ただの可愛いだけの令嬢じゃない。知識も技術もずるいよ。君みたいなのが同じ年にいるなんて、つまらない」
ぷいっとそっぽを向いたセラフだが、その頬はほんのり赤い。
(……照れているのかしら? それとも本気で悔しがって?)
どちらともとれるその態度に、リリーは笑って肩をすくめた。
その後もお茶会は順調に進み、会話と笑顔が絶えない午後となった。
兄のユリウスは穏やかに紅茶を注ぎながら、妹の成長を見守るように微笑み、レオンは少し緊張しながらもリリーとカティの話に頷いていた。カティはカステラに夢中で、皿をぺろっと平らげてしまったことに気づいて真っ赤になっていた。
「ほら、まだありますわよ、カティ」
「い、いいの!? ありがとうリリーちゃん!」
「“リリー”ではなく、“リリー様”だろう?」と、セラフがどこか意地悪に口を挟むと、リリーが優雅に扇子を持ち上げる。
「“リリー”とお呼びしてもよろしいのは、わたくしが特別に許可した方だけ、ですわ」
「……くっ……将来、怖そうだなあ君」
くすくすと笑いが弾け、温かな午後が過ぎてゆく――
その時だった。
会場の一角に、控えの使用人がひとり、主の耳元にそっと囁いた。
「殿下から、お花を預かっております。『今日は伺えず残念だが、代わりにこの花を』とのことでした」
「まぁ……!」
使用人が差し出したのは、柔らかな薄紅色の薔薇。
王家専属の庭師しか育てることができないとされる“セレスタリア・ローズ”の一輪だった。
その瞬間、会場に小さなざわめきが走る。
「第一王子殿下から……?」
「まさか、祝福の花を……?」
リリーは驚きながらも、薔薇の香りをそっと確かめた。
(前の茶会の時も、プリンに興味を持たれていたし……けれど、今日はいらっしゃらないのね)
微かに、残念そうな思いが胸をよぎる。
「……ふふ、でも。わたくしは、ちゃんと準備しておりましたのよ。殿下のための“とっておき”も」
彼女は振り返り、まだ誰にも明かしていない、とあるお菓子の覆いを見つめる。
その中には、きらきらと輝くガラス細工のようなスイーツが待っていた。
(次にお会いする時に、お見せいたしますわ。必ず、驚かせて差し上げますから)
少し気持ちが和らいだところで、会場に再びざわめきが起こった。
「誰か来た……?」「馬車が追加で?」
リリーはそっと目を細め、庭園の奥を見やる。 淡い風が吹き抜け、薔薇の香りがふわりと漂った。
(……あら? この風の感じ、どこかで──)
そして次の瞬間、門の向こうから、ゆっくりと誰かの足音が響いてきた。
門の向こうに見えた影は、光を纏ったように美しかった。
「リリサンドラ・ヴァレンティーナ嬢、遅れて申し訳ない」
まるで舞台の幕が上がったかのように、第一王子アリステリオン・グレイフォックスが姿を現した。
銀糸のような金髪が陽光を浴びて煌めき、真紅の刺繍が施された白の礼装が風に揺れる。
彼が一歩踏み出すたびに、庭の空気が静かに、しかし確実に張りつめていく。
あまりに堂々としたその佇まいに、場の空気がぴたりと止まった。
「お、お、おうじさま……っ!」
「まさか……ほんとうにいらしたの?」
ゲストたちの間にどよめきが走る中、リリーは慌てて礼を取った。
「こ、これはこれは……殿下、ご光臨いただきまして光栄に存じますわ」
「そんなに堅くならなくていいよ、リリサンドラ嬢」
アリステリオンはふっと笑うと、彼女の前に歩み寄り、手にしていた小さな箱を差し出した。
「君のために、今日はどうしても来たくてね。これを渡したかったんだ」
リリーは戸惑いながらその箱を受け取る。 開けると、中には透き通るような水晶細工のブローチが収められていた。
淡い紫の薔薇を模したそれは、まるでリリーのイメージそのものだった。
「わたくしの……色……」
「この国で、この色を一番美しく着こなすのは、君だと思っているから」
さらりと口にしたその言葉に、リリーは瞬間、動きを止めた。
(……え、ちょ、ちょっと待って。え、ええ? なにこの王子様的台詞!?)
内心で大混乱しつつも、顔には“公爵令嬢らしい”微笑みを張り付けた。
「光栄に存じますわ、殿下。……でも、今日はお越しにならないと聞いておりましたのに?」
「僕もそう思っていたんだけど……どうしても君のケーキが食べたくなってね」
にこりと笑う王子の視線は、明らかに覆いをかけられたままのショートケーキへ向けられていた。
(やっぱりそれが目的でしたのね!?)
リリーは内心で机を叩いた。 だがその一方で、少しだけ頬が緩むのを自覚する。
「それでは、特別にお出ししますわ。……殿下だけに」
「うん、それが聞きたかった」
ぱっと笑った王子の笑顔は、太陽のように眩しかった。
その後、アリステリオンは何事もなかったように他のゲストへも挨拶をし、まるで最初からそこにいたかのように自然に馴染んでいった。
(……さすが、将来この国を背負うお方)
リリーは紅茶を注ぎながら、ふと彼の横顔を見つめる。
(でも、やっぱりこの人……“ただの攻略対象”じゃないわね。近づき方を間違えれば、破滅まっしぐら)
胸の奥にひやりとしたものが走る。
「……ふふ、だからこそ、丁寧に参りましょう。殿下にも、誰にも、負けないように」
カップの中の紅茶をひと口すすると、薔薇の香りが鼻腔をくすぐった。
そして、庭の奥では風がまたひとつ、花びらを空に舞い上げていた。
「……君の作ったこのケーキ、実に驚くべき味だ」
アリステリオンはフォークで一口、ショートケーキをすくって口に運んだ。ふわりとしたスポンジの食感に続き、程よい甘さの生クリームと新鮮な苺の酸味が見事に調和し、口の中で優雅に踊り始める。
「……これは、まるで春の陽だまりのようだ」
彼の瞳が一瞬だけ輝きを増し、ゆっくりと微笑む。
「甘すぎず、しかししっかりとした存在感がある。これは君の性格そのもののようだよ、リリー」
「ええ、そんな……殿下、恐れ入りますわ」
照れ隠しの微笑みを浮かべるリリーに、王子は少し首を傾げてから、もう一口ケーキを口に運んだ。
「正直、これほどの味をこの国で味わえるとは思っていなかった。いつもは濃厚すぎるスープばかりだからね」
リリーは内心で「やっぱり料理センスは悪くないのかも」と思いつつ、彼の反応に満足そうに頷いた。
「君のその繊細さが、この宮廷の中でどれほど貴重か、改めて感じさせられるよ」
そして彼は静かに、しかし確かな声で言った。
「この味、ぜひまた味わわせてほしい」
その言葉に、リリーの胸の奥にぽっと暖かな灯がともった。
(……やっぱり、ただの王子様じゃないわね)
彼の純粋な感動は、彼女の心にじんわりと優しい余韻を残した。




