後日章「甘き香りの正体」
──それは、ほんの気まぐれだった。
第一王子、アリステリオン・グレイフォックスはその朝、珍しく公務も訓練もなかった。穏やかな春の風が吹く宮廷の中庭で、書物を片手に過ごしていたときのこと。
ふと、ふんわりと甘い香りが風に乗って届いた。
「……これは、何の匂いだ?」
王宮には、甘い菓子など日常的に存在するはずなのに、何かが違った。 鼻孔をくすぐるその香りには、どこか懐かしく、けれども王宮のどこにもない異質な温もりがあった。
──惹かれる。
王子は自分でも理由がわからないまま、その香りを辿るように庭園の奥へ歩みを進めた。
そしてたどり着いたのが、小さな子女たちの集う、貴族子女による非公式のお茶会。
「ここ、か……?」
身なりを見た侍女がひどく慌てた様子で応対しようとしたが、アリステリオンは軽く手をあげて制した。
「気にせずに。少しだけ、覗かせてもらうだけだから」
そのとき、視界に飛び込んできた。
華やかなドレスを身にまとい、けれど他の令嬢とは違う、妙に落ち着いた雰囲気をまとった少女。 藍色の髪に薄紫の瞳、貴族の気品を持ちながら、どこか世俗的な現実味を帯びた存在感。
──リリサンドラ・ヴァレンティーナ。
名前は知っていた。王家に次ぐ公爵家の一人娘。だが、あれほどの存在感を持つとは思っていなかった。 彼女の前には、何やら見慣れぬ菓子が並べられていた。淡い色、つややかな表面。スプーンで一口すくったそれを、少女がにこやかに語るのが聞こえた。
「『ぷ・り・ん』と申しますの」
(プリン……?)
口の中でその言葉を転がすうちに、甘い香りと重なって、なぜか心がざわめいた。
そして。
「リリサンドラ嬢、よければ隣に座っても?」
衝動だった。けれど彼女は、戸惑いながらも笑顔を崩さずに応じた。
その笑顔が、香りと重なって、胸の奥に引っかかる。
(あの菓子も、あの香りも、あの瞳も……今まで知っていたはずの貴族世界に、なぜこんなに新鮮なんだ?)
そして確信する。
──また会いたい、と。
けれど、アリステリオンの目はただの好奇心だけで光っていたわけではない。
(なるほど。彼女が“公爵令嬢”であるということも、悪くはない)
王家に次ぐ大貴族の令嬢。無視できない存在。だが、これまでの彼女の噂と、今目の前にいる彼女との印象はあまりに違う。
(素直で、気品があって……しかも自分で菓子まで作る? ふふ。まるで“理想の姫君”のようだね)
王子の口元がわずかに笑みを描く。
(利用できるかもしれない。いや――もっと楽しませてくれるかもしれない)
そして、柔らかな声で言葉を残す。
「また君に、何か甘いものを作ってもらいたいな。次も楽しみにしているよ、リリサンドラ嬢」
興味は確かに本物だ。 だがその奥に、政治的な計算や、少しばかりの“遊び心”がないとは、誰も証明できない。
アリステリオン・グレイフォックスは、去り際にもう一度だけ振り返った。
華やかな庭園の中央、誇り高く笑う少女。
そして彼の中で、その香りとともに、小さな好奇心が、確かな興味と、わずかな策略へと変わっていた。




