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神谷戦記  作者: 八角の奇児
2007年篇
15/16

記録番号二二八番 ―追跡―

 タイ・セインを目視で追跡することは不可能だった。天空を裂くその速度は、地を這う者が鳥の行方を追うよりもなお絶望的であった。

「あいつ、一体何がどうなっているんだ……」

サクヤウヤは重苦しく淀んだ空を見上げ、呆然と呟いた。

「僕が知ってるヤン・スナーリ・カマーノとは違う。僕の知る限り、僕たちがこの世界に来た時にはヤツは二重人格でもなければ翼も生えていなかった。でも、飛ぶことはできた。それがヤツの力だからだ」

タイ・セインの羽を口に入れてからのトミンはいつもより落ち着き、会話の通じる相手になっていた。それが自分に関係のあることだから会話が通じるのだろうか。死んでいる目は治らないままだ。

「ヤン・スナーリ・カマーノは恐らくこの数年で進化している。僕らのようなのは死者の魂を取り込む、というか死者の魂から力をもらうことができるんだ。ヤツは数えきれない魂から力を借り、赤羽を維持できるように進化した。その代償があの二重人格と赤黒い翼なんだろう」

「恐ろしいな。しかしトミン、お前は死者の魂から力を借りないのか? そうすればヤン・スナーリ・カマーノとも対等に戦えるんじゃないのか?」

サクヤウヤは、初めてトミンと対等な「対話」ができていることに、微かな安堵と奇妙な高揚を感じていた。

「上野か赤羽まで行けばそれなりに魂があるはず。機会があればそこで死者に話しかけるよ」

戦力の増強は今のサクヤウヤたちにとって必要なことだった。トミンが本調子になれば怖いものはないだろう。

 サクヤウヤは周囲の人間に聞き込みを行った。屯所の近所にいた人間はヤンのことを目撃していたため、彼の向かった方角は簡単に分かった。それこそ、タイ・セインとして屯所の天井を破った時には普段聞かないような大きな音が立ったため、注目が向いたのだろう。

 ヤンの向かった方角は北だった。サクヤウヤたちもその足取りを追った。隅田川を渡り、台東街区に入る。すると、浅草付近に局所的な赤羽が存在した。方角はあっていた。赤羽の影響で浅草には人がいなかった。皆、赤羽を恐れているのだ。

「ちょっと上野に寄ってもいいかな?」

 浅草の赤羽でトミンは言う。彼はなぜ、そこまでするのだろうか。

「もちろんだ。行こう」

焦りに駆られても不利益を生むだけだと言うことをサクヤウヤは念頭に置いていた。たとえヤン・スナーリ・カマーノに追いついたとしても、敗北は許されない。

「しかしなぜ、上野か赤羽である必要があったんだ? 死者の魂など、南千住にも大量にあるものではないのか?」

 上野へ向かう道中、このような疑問がサクヤウヤの口を突いた。

「この世界の人じゃダメなんだ。僕らみたいなあの門を通ってきた存在じゃないといけない。サクヤウヤは何年か前にあった僕らとの戦争を覚えているか?」

直近では2003年末から2004年秋までの西東京共和国への大規模な侵攻作戦があったが、東京帝国の中での大きな戦争はなかった。赤の羽事変以降にそのようなことはあっただろうか。

「当時は天界にいて、地上を見ることもあったが、戦いの気配は感じなかった」

「しかし、それは嘘だ。確かに戦争があった。僕たちは上野を支配し、赤羽も占領していた」

トミンはあまりにもきっぱりと言った。しかし、その事実はどこにもない。それでもトミンは嘘を言っているようには見えなかった。

「そんな戦争は記憶にない。もしあったのなら戦いの気配を感じない訳がないし、忘れるわけもないはずだ」

「記憶だよ記憶。君たちには欠陥がある。君たちの記憶の神であるベルツは僕たちのことを記録できていない。だから僕たちのような存在が死ぬたびに死んだ奴のしたこと、そいつについて、そいつが生きた痕跡のすべてがこの世界から記憶ごと消えてなくなる。例えば、君は今、僕のことを覚えているけれど、僕が死んだらその瞬間に僕のことを忘れる。何もかもね」

記憶の神ベルツはこの世で起こったことを全て本に記し、記憶の大書庫に保管している。人間はそこに記された記憶を記憶している。つまり、ベルツの記す記憶こそが人々の記憶なのだ。

「そんな......」

サクヤウヤは唖然とした。ベルツに記せない記憶などあるわけがない。

「君にも関係する話をするとしたら、前に一回不忍池に行ったことがあるだろ? そのとき何をした? 何を見た?」

サクヤウヤは記憶を掘り返す。あの雨の日、何をしていた? 何があった? 何かあった?

「不忍池には行った。だが、それだけだった気がしてならない」

「ほらな、すべて忘れるんだ。あの日、地獄の門が開いた。僕はそこから現れた二人を殺した。普通、そんなことがあれば覚えているだろ?」

「あ、ああ」

「ベルツは僕たちを記せない」

サクヤウヤの背筋に冷たいものが走った。自分が信じていた世界の理が、音を立てて崩れていくような感覚だった。

 サクヤウヤとトミンは上野の地を踏んだ。そこはいたって普通の町。人々は何ら変わりなく日常を営んでいた。

「……ここなら、足りそうだ」

 トミンは不忍池のほとりに立つと、失われた左腕の付け根を強く押さえた。彼は膝をつき、大地の底に眠る者たちへ呼びかける。その口から漏れるのは、この世の言葉ではない、アメスゲンの呪言。刹那、地面から無数の青白い燐光が噴き出した。それらは意思を持つかのようにトミンの左肩へと集い、渦を巻き、肉を編み、骨を象っていく。

「あ……が、あああああ!」

トミンの絶叫と共に、光の奔流が実体化した。

 そこには、以前の肉体とは異なる、黒い鱗のような皮膚に覆われた強靭な「腕」が生えていた。

「ありがとう。ゆっくりしてくれ」

トミンは新しく生えた五指を握り締め、虚空を見つめた。

「これでお前も進化したということか」

一連の流れを見ていたサクヤウヤは言う。

「うん。それと、魂が活性化しているのを感じた。局所的にできた赤羽に反応してるんだろうね。ヤンの足取りもこれでわかりやすくなっただろう」

「案内してくれ」

「わかった」

 サクヤウヤとトミンは上野を北上し、荒川街区に入る。町屋に局所的な赤羽があった。浅草同様、町からは人が消えていた。そして隅田川を渡り、足立街区に入った。そして荒川を渡る。荒川を渡った先は、灰に覆われた世界が広がっていた。2001年の春に足立街区が炎の海に呑まれてから、足立街区は灰の都となってしまった。6年がたった今でもそれは変わっていない。なぜ足立街区が炎に包まれたのか、原因は不明だ。いや、もしかすればそれはトミンのような者の仕業なのかもしれない。そうでなければ記録が残っているはずだ。消えた215の記録の数々もそうやって無くなっていったのだろう。

 そして彼らは西新井へやってきた。その頃にはとっくに日が落ちており、月明かりが大地を照らしていた。西新井大師へと続く参道は、崩れた石柱と灰の雪に埋もれていた。だが、その灰色の風景の中に、一点だけ「毒々しい紅」が混ざっている場所があった。

「あそこだ……」

サクヤウヤが指差す先、そこには局所的な赤羽が存在した。しかし、比較的小さなものだった。彼らは走った。ヤン・スナーリ・カマーノを逃がさないために。

 彼らの走った先にあったものは、とある建物だった。中からは話し声が聞こえた。声が低く、ゆっくりしたものが聞こえた。その次に聞こえた声は、タイ・セインのものだった。

「行くぞ」

 中にいる二人に気づかれないようにサクヤウヤは小声になる。

「うん」

トミンはサクヤウヤの意図がわからず、普段の声量で言ってしまう。サクヤウヤは歯を食いしばった。

 建物の中から話し声が消えた。恐らく彼らの存在に気づいたのだろう。サクヤウヤは剣を抜き、扉を蹴り破った。建物の中は薄暗く、蝋燭の明かりが一つだけあった。その光が照らすのは二つの影。赤黒い翼を休めるヤンと、その傍らに屹立する山のような巨人。

「巨人?」

 サクヤウヤは思わず言葉を漏らしてしまう。それもそのはず、巨人は太古の昔に絶滅したはずの種族である。

「来たか、その気概は褒めてやろう。さて、いい機会ではあるな」

ヤン――タイ・セインは不敵に笑うと、巨人を顎で示した。

「タリムリア、あのジャガイモ頭を蹴散らせ。私はあの中途半端な神を相手にする」

「ウ……アアアア!」

 巨人 タリムリアの咆哮が堂内に響き渡り、丸太のような拳がトミンへ向けて振り下ろされた。トミンは再生したばかりの、黒い鱗に覆われた左腕を突き出し、その衝撃を真正面から受け止める。

 一方、サクヤウヤの前にはヤンが立ちはだかった。

「お前の翼、今度こそ折ってやる」

 サクヤウヤは低く構え、タイ・セインに焦点を合わせる。

「ほう。貴様にできるかな?」

サクヤウヤは地を蹴り、神速の突きを放つ。しかし、その速度よりもタイ・セインは速かった。気が付けば胸倉を掴まれ、そのまま建物の壁を突き破り、外へ飛び出した。

「速すぎる。まるで追いつけない」

空に雲はない。雲がなくては雷が落とせない。サクヤウヤには勝機が見えなかった。

 その時、タイ・セインとタリムリアのいた建物が崩壊した。粉塵の中からタリムリアとトミンが姿を露わす。

「アアアアアアアア!」

タリムリアの咆哮が周囲に響き渡る。両者ともに無傷の互角の勝負だった。

「ほう」

 タイ・セインは不敵に笑う。その隙にサクヤウヤはタイ・セインを斬りつけようとしたが、それもひらりと躱された。

「これはいい。予想以上だ」

タイ・セインが指を鳴らすと、タリムリアはトミンへの追撃をピタリと止め、主人のもとへ引き下がった。

「準備は整った。貴様ら、精々混沌の中で足掻くんだな」

タイ・セインは足元に衝撃波を発生させ、降り積もった灰が宙を舞った。視界が元に戻る頃には彼らの姿はなかった。サクヤウヤは、去り際のヤンの言葉を噛み締める。 ベルツの記録から漏れた彼らが、一体何を「準備」したというのか。西新井の灰は、ただ静かに、二人の男の足元に降り積もっていた。


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