第19話:現場視察(パトロール)と、災害級魔物への『行政指導』
第19話:現場視察と、災害級魔物への『行政指導』
「GYARUOOOOOOOOOOOOOッ!!!」
グーテン街の東の大通り。
災害級の巨大合成獣『ベノム・キメラ』の三つの顎から、街の防衛線もろともすべてを溶かし尽くす、超高濃度の猛毒ブレスが放たれた。
緑色に濁った死の濁流が、石畳をジュウジュウと溶かしながら、一直線にこちらへと迫ってくる。
その射線上の最も前に立っていたのは、バインダーを片手に「手抜き工事のクレーム」を言いに来ただけの、作業着姿の俺だった。
「アニキィィィィィィィッ!! 逃げろォォォォッ!!」
背後で、血だらけのガルドやゼノたちが悲痛な絶叫を上げる。
だが、彼らは俺の姿を見て、さらなる絶望と『究極の感動』に魂を震わせていた。
(アニキは……一歩も逃げようとしない! 俺たちを、そして背後の広場にいる市民を守るために、あの死のブレスを真正面からその身で受け止める覚悟なんだ!!)
(なんて男だ……! 自分の命など塵芥ほどにも惜しまず、ただ無防備な体一つで、俺たちの盾になってくれるというのか……っ!)
違う。
俺はただ、目の前からドロドロの緑色の液体が飛んできたのを見て、「うわ、汚いな。作業着にシミがついたらどうしてくれるんだ」と、眉をひそめて立ち止まっていただけである。
直後。
ズゴォォォォォォォォォンッ!!!
すさまじい轟音と共に、俺の体は完全に、致死の猛毒ブレスの濁流に飲み込まれた。
視界が緑色に染まり、周囲の建物の壁やバリケードの残骸が、飴細工のようにドロドロと溶け落ちていく。
「あ、あああ……アニキィィィィィッ!!!」
ガルドが、血の涙を流して絶叫した。五十人の男たちが、偉大なるパパの喪失に絶望し、膝から崩れ落ちようとした。
だが。
猛毒の煙が晴れた、その直後だった。
「……おいおい。硫化水素とアンモニアの混合ガスか? 大気汚染防止法と悪臭防止法の基準値を完全に超過しているぞ。近隣住民からクレームが来たらどう責任を取るつもりだ」
緑色の煙の中から、中指で眼鏡のブリッジをクイッと押し上げる、極めて事務的で不機嫌な声が響いた。
ゼノたちがハッと息を呑んで顔を上げると、そこには――。
信じられないことに、シミ一つ、汚れ一つ、焦げ目一つついていない、クリーニングしたてのようにパリッとした作業着姿の俺が、バインダーでパタパタと煙を扇ぎながら立っていたのだ。
「な、なっ……!? む、無傷……!?」
シルヴェスターが、美貌を驚愕に歪ませて呻いた。
「あの、石をも一瞬で溶かす災害級の毒ブレスを真正面から浴びて、衣服の端すら溶けていないだと……!? い、いったいどれほど高密度の魔力障壁を展開すれば、あんな真似が……!!」
彼らは俺が『不可視の超強力な魔法バリア』を張ったと勘違いしているようだが、俺は魔力など1ミリも持っていない。
ただ、女神がくれた適当なチートスキル『病気にかからない身体』が、俺の健康を害する恐れのある不衛生な物質(猛毒ガス)を、衣服の表面で自動的に弾き飛ばしてくれただけだ。
第4話のドブ掃除でも実証された、公務員にとって最高の福利厚生(汚れ防止機能)である。
「GYA、GYAウ……!?」
自らの最強のブレスが、目の前の小さな人間に全く通用しなかったのを見て、ベノム・キメラが驚愕したように三つの首を後ずさらせた。
「おい、そこの巨大な犬かヤギか知らないが。お前がこの悪臭の発生源(事業主)だな」
俺はツカツカと、文字通り死の瘴気が渦巻く爆心地を歩き、キメラの巨大な前足のすぐ下まで歩み寄った。
キメラは本能的な危機感を覚え、俺を見下ろして威嚇のために咆哮した。
「GYARUOOOOOOOOOOOッ!!」
Aランク相当の、魂を直接揺さぶるような凄まじい殺気とプレッシャー。
通常の人間なら、それを受けただけで心臓が停止するか、発狂して逃げ出すレベルの『捕食者の威圧』だ。
だが。
俺の『反威圧』スキルは、そんなファンタジーの殺気など、市役所の窓口で怒鳴り散らす悪質クレーマーの飛沫以下の『そよ風』に変換してしまう。
「声が大きい。ここは住宅街だぞ、騒音公害で告発状を出すぞ」
俺は全く無表情(お役所スマイル)のまま、ドワーフの親方に作らせた薄い鉄板入りの特製バインダーを振り上げ、キメラの中心にある獅子の頭の、一番敏感そうな『鼻先』を――。
スパーーーーーーンッ!!!
小気味良い金属音と共に、容赦なくひっぱたいた。
「GYAIIIIIIIIIIIIIIIッ!!?」
キメラが、まるで新聞紙で鼻面を叩かれた小型犬のように、悲鳴を上げて飛び退いた。
当然だ。野生動物というのは、自分の最大の攻撃(毒ブレス)が全く効かず、自分の最大の威嚇(殺気)を完全に無視され、あまつさえ自分の急所(鼻)を一切の恐怖もなくひっぱたいてくる相手を目の前にした時、本能的にこう理解するのだ。
『こいつは、自分より上位の捕食者(ヤバい存在)だ』と。
「キュン……クゥゥン……」
さっきまでの災害級の威厳はどこへやら。ベノム・キメラは、耳と尻尾を完全に股の間に巻き込み、ブルブルと震えながら巨大な体を丸めて、俺の足元で怯えたように伏せの姿勢を取った。
その光景を。
背後で防衛線を死守していた五十人の舎弟たちは、白目を剥きそうなほどの衝撃と共に目撃していた。
「あ、ありえねえ……」
ゼノが、震える手で自分の赤髪を掻きむしった。
「俺たちが束になっても手も足も出なかった、Aランク相当の災害級の化け物が……アニキが、ただ歩み寄って『書類の板』で一発叩いただけで、完全に戦意を喪失して服従しやがった……!」
「あれが……グーテン街の裏社会を束ねる、真の『王』の力……ッ!!」
違う。俺はただ、臭いから「行政指導」として鼻を叩いただけだ。
俺は大人しくなったキメラを冷徹に見下ろし、背後のゼノたちに向かって、バインダーを振りながら事務的な指示を出した。
「おい、ゼノ。シルヴェスター。ガルド。現場責任者のお前たちに、最後の業務命令を下す」
「ハッ!」
三人の最高戦力が、血まみれのまま直立不動で敬礼する。
「障害物は大人しくなった。もう抵抗はしない。……危険物処理の規定に従い、直ちに『粗大ゴミ』として解体・処理しろ」
その極めて事務的で、しかし絶対的な『処刑宣告』。
ゼノ、シルヴェスター、ガルドの三人は、凄まじい闘気を再燃させ、悪魔のような笑みを浮かべた。
「了解しやした、アニキ!!」
「アニキの完璧な『お膳立て(デバフ)』……無駄にはしません!!」
怯えきって動けないキメラに対し、街の最高戦力である三人の死神が、一切の容赦なく飛び掛かった。
ガルドの黒鉄の大剣がキメラの前足を両断し、シルヴェスターの氷のレイピアが三つの首の気管を凍てつかせ、トドメとばかりにゼノの炎の拳が、獅子の頭を頭蓋骨ごと粉砕した。
ドズゥゥゥゥゥンッ!!!
巨体が崩れ落ち、沈黙する。
親玉であるベノム・キメラが一瞬にして討伐された(というより、バインダーを持った謎の男に心を折られて処刑された)のを見た他の数千の魔物たちは、完全にパニックを起こした。
『あ、あのバインダーを持った作業着の男に近づいたら、殺される!!』
『逃げろ! 森へ帰れ!!』
魔物たちの間に伝播した本能的な恐怖は、群れを完全に崩壊させた。
スタンピードの濁流は、大通りからUターンするようにして逆流し始め、蜘蛛の子を散らすようにして東の森へと敗走していったのだ。
「……ふう。これで、業務終了(定時)だな」
俺は腕時計を確認し、バインダーに『スタンピード鎮圧・完了』のチェックマークを書き込んだ。
被害状況の確認のため、俺が振り返ったその瞬間だった。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉん!! アニキィィィィィィィィィッ!!!」
ガルド、ゼノ、シルヴェスターをはじめとする五十人の男たちが、血と泥と魔物の体液にまみれた恐ろしい顔面を涙と鼻水でぐちゃぐちゃに濡らしながら、俺に向かって突進してきたのだ。
「ちょっ、待て! 汚い! 俺の清潔な作業着に抱きつくな!!」
俺の悲痛な叫びも虚しく、俺は屈強な五十人の男たちによる、暑苦しすぎる筋肉のスクラム(熱い抱擁)の中心に飲み込まれた。
「アニキィ! 俺たちのために、自らの命を張って毒ブレスを庇ってくださったご恩……一生、いや、来世までついていきやすぅぅッ!」
「アニキのあの圧倒的な武……! 俺たちは、ただの事務官だと思っていたのに……本当は、街の誰よりも強い、最強の守護神だったんですね!!」
「俺たちの偉大なるパパ、万歳!! アニキ一家、万歳!!」
「やめろ、俺は何も庇ってない! ただ文句を言いに来ただけで……あと、パパと呼ぶな!!」
俺の必死の弁明は、男たちの狂気的な歓喜の咆哮と、それに続く『地獄の胴上げ』によって完全に夜空へと掻き消された。
こうして。
グーテン街を未曾有の危機に陥れた五千のスタンピードは、アニキの『絶対的な自己保身に基づくハザードマップ』と、それを『究極の自己犠牲』と勘違いして限界突破した舎弟たちの狂気、そして最後の一押しとなった『お役所的なクレーム対応』によって、市民に一人の死傷者も出すことなく、完全なる鎮圧を迎えたのであった。
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